場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

2021-10-30 19:40:30 | 場所の記憶
油商・佐野屋の主人、政右衛門は女房おたかとこの頃、諍いが多くなったな、と感じる。いわるゆる倦怠期を迎えている夫婦だった。そんななか、政右衛門はふと初恋の女のことを思い出していた。その女に会えば、今とは違う人生が切り開かれるのではないか、と夢想した。初恋のその人の知り合いでもある、行きつけの居酒屋の女将を介して、ある日、二十年ぶりに再会することができた。ところが、会って昔話に浸ろうと思っていたことが、大変な間違いであることを知る。相手の女は自分には少しも興味をもたない、ただの中年の女になっていた。
「結局は、おたかと喧嘩しながら、このまま行くしかないということだ、と少し酔った足を踏みしめながら政右衛門は思った。ほかならない、それがおれの人生なのだ。そう思うとやりきれない気もしたが、どこかに気ごころの知れたほっとした思いがあるのも歪めなかった」「本所しぐれ町物語」より

小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:竪川河川敷公園

・駕籠を呼んでもらっておふさを見送ると、政右衛門は料理茶屋「末広」を出て、竪川の河岸の道にまわった。空に月があって、時おり雲の間から水のような光を地上に投げかけるので歩くのは不自由しなかったが、道はやはり暗かった。暗い町を虫の声がつつんでいた。

鼬(いたち)の道 

2021-10-22 21:02:57 | 場所の記憶
 八年前に蓄電し、その後行方しれずの弟、半次がふい新蔵を訪ねて来た。その姿は見るからにうらぶれたなりをしていた。その日から弟は兄の家に居候することになる。仕事を探すでもなく、ごろごろ酒浸りの日々を過ごしていた。
 新蔵が弟にこれまでのことを尋ねると、妻帯することもなく、仕事も何をやっていたのか判然としなかった。弟を何とかしてやりたい気持ちと、今の自分の生活を守りたいという気持ちが交差するなか、ある日、弟が数人の男たち に追われているのを目撃する。数日後、新蔵の店を訪ねてきた弟が、江戸を去って、また上方に帰ると告げる。
「これでもう二度と会うことはないのだな、と思った。兄弟といってもこの程度のものなのかと思ったとき、新蔵は急に気持ちが際限なく沈んで行くのを感じた。おれにはおれの守らなければならない手一杯の暮らしがある」  
  「本所しぐれ町物語」より

小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」 タイトル写真:深川神明宮

・両国橋をわたって河岸通りに出ると、新蔵はいつも自分の町にもどったという気がして、気持までゆるんで来るのを感じる。新蔵は、自分の住む本所や、境を接する深川の町々ほどいい土地はないと思っていた。小名木川の南ほどではないが、竪川とか六間堀、五間堀といった川から、時どきふっと水が匂ってくる。そういう土地柄が好きだった。
・何か気持にひっかかるものがあるような気がしたのは、石置場の前を通りすぎて御船蔵にさしかかったときだった。




黒い縄

2021-10-19 15:07:31 | 場所の記憶

おしのはさる商家に嫁いだが姑との折り合いが悪く出戻りした女である。ある日、幼馴染の宗次郎に出会う。が、彼は人殺しの犯人として追われる身であった。お互い好き同士であった二人は、再会することで熱い関係になる。二人の逢瀬が繰り返されるなか、宗次郎を追う元岡っ引きの地兵衛という男の影がつきまとう。そして、ついに宗次郎と地兵衛の対決の日が来る。
「おしのはゆっくりと橋まで歩いた。四囲は少しずつ明るみを加え続けていたが、霧はむしろ白さを増し、地上を厚く塗り潰している。橋の中ほどに地兵衛の骸が横わっていたが、おしのはそれを見なかった。眼を瞠って霧の奥を見つめた。だが、新たな涙が滴る視野には、拡がる白い闇のような霧が、限りなく溢れるばかりだった」
地兵衛を倒した宗次郎はひとり去って行く。
「霧の橋の上を影のように男の姿が動き、やがて、それは白い霧に溶け込んだようみ見えなくなった」 
「暗殺の年輪」より


小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」ー深川


・日射しは、道に沿って走る十間川の水の上にも向う岸の吉永町の材木置場、その上に黒く頭を突き出している人家の屋根にも、降りそそぐように光っている。
・島崎長の角を曲り、亥の堀の川沿いの道をいそぐと、小名木川に架かる新高橋に出る。橋を下りたところが行徳街道だった。街道を左に、阿部内藤正下屋敷のくねった堀を曲ると、地兵衛の店がある深川元町まで、真直ぐの道だった。
・風もないのに、竪川の岸には絶え間なく囁くような水の音がした。眼がおぼろな闇に慣れ、暗い水路に、星の光が砕けるのが見えた。糸のやうな月は、ここからは見えない。右岸に、遠く赤い灯のいろがちらつくのは、菊川町の屋並みの間から、辻番所の高張提灯が覗くのだろう。
・深川元町裏の五間堀の岸に潜んでいた宗十郎に、戻ってきたおしまが無造作に言ったのだった。
・霧は道の上を這い、十間川の水面を埋め、三間ほど先はものの影が瞭らかでなかった。富島橋は途中で霧に呑まれ、弥そうの小屋はみえなかった。
・島崎町続きの角を曲り、玄の堀川に沿って、二人は道を急いだ。いつの間にか、宗次郎がおしのの手をひいている。川の向う岸の末広町、石島町のあたりは、ぼんやりと薄墨色に黔ずんでいるばかりだったが、岸に近い水面が鋼のように蒼黒い光を沈めているのがみえた。
・宗次郎は深川元町裏の五間堀の岸に潜んでいた。

歳月

2021-10-15 10:49:43 | 場所の記憶
 異母姉妹の妹が結婚するという相手は、姉のおつえがかつて付き合っていた男だった。自身は今、材木問屋上総屋の妻女である。が、この商家も時とともに傾きかけていた。ある日、所帯をもった妹の家を訪ね、かつての相手に会う。懐かしさがこみあげるが、すでに長い歳月が流れている。家に帰ると、夫が呑んだくれていた。その姿をみておつえは哀れになった。と同時に、これまで気づかなかった夫婦の情愛のようなものが胸にあふれてきた。「病気の姑のほかは女中一人しかいなくなった家の中は暗く、ひっそりとしている。暗く長い廊下を歩きながら、おつえは夫に何かやさしい言葉をかけてやりたい気持ちになっている。 『霜の朝」より

小説の舞台:深川   地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」ー深川絵図   タイトル写真:江戸深川資料館

・佐賀町にある船宿橋本は、屋根船二艘。猪牙船五艘、船頭二十人を抱える家で、おつえはこの家で生まれた。
・橋本は油堀に架かる下ノ橋きわにある。
・秋の日射しが斜めに川の水を染めていた。橋本のあるあたりから下佐賀町の白壁の蔵がならぶあたりまで、河岸の家々は赤くやわらかい光に包まれ、霊岸島から中洲にのびる西河岸の家々は黒ずんだ影を川に落としている。
・おつえは橋を渡り、下佐賀町の町通りを抜けて永代橋まで行った。
・小名木川に架かる高橋にのぼると、四方に平べったくひろがる町が見えた。西空にかすかに朱のいろが残っているだけで、町も大川の水も青黒く暮れいろに包まれようとしている。
・小名木川に架かる高橋にのぼると、四方に平べったくひろがっている町が見えた。西空にかすかに朱の色が残っているだけで、町も大川の水も青黒く暮れいろに包まれようとしていた。家々の窓に、ぽつりと灯がともりはじめている。四月半ばの一日は、暮れてもまだあたたかかった。



虹の空

2021-10-11 16:18:16 | 場所の記憶
 政吉は近々所帯を持とうとしている。相手はおかよ、という。が、ひとつだけ、継母がいるということを隠していた。その行方知らずの継母が気になっていた。できれば、見つけ出して、一緒に住んでみたいと思っている。幼い頃の出来事を思い出すうちに、政吉は継母が実の母であるように思えてならなかった。同居のことをおかよに打ち明けると、案の定、反対し、喧嘩になった。嫁と取るか、母を取るか、政吉は逡巡するが、やはり母を捨て切れなかった。ある日、母のいる家が火事になった。政吉は現場に駆け込んだ。「まだ煙に包まれている焼けあとの道をおかよが歩いて来るところだった。政吉が見ていると、やがておかよが地面に跪いて、おすが(母)を背負った。おかよは小太りだが、背はあまり高くない。小さく小太りの女が、小さく痩せている女を背負って、よたよたと歩いて来る。「済まなかったな」「何言ってんのさ」「あんたのおっかさんはあたしにもおっかさんじゃないか」  「霜の朝」より


小説の舞台:深川  国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」ー本所ー  タイトル写真:二の橋(二ツ目橋)

・息が切れて竪川のそばに出たところで政吉は足をゆるめた。川べりの道に、やがて人が多くなった。家事見物からもど
るひとらしかった。政吉は気をせかされて、また走りだした。二ツ目橋をふみ鳴らしながら渡った。遠くの町を這う雲が見えて来たのは林町側の河岸地に走り込んでしばらく行ったところである。



おとくの神

2021-10-06 10:35:35 | 場所の記憶
 裏店に住む仙吉、おとく、という夫婦がいる。仙吉はひと
つの仕事に長く居つかず、しばしば職を変える性格の男だ
った。代わりに、女房が汗水たらして働く毎日である。夫
は暮らしの頼りにならない、いわゆる紐のような存在だっ 
た。仙吉はがて、男勝りの女房にも飽きが来て浮気をする。
ある日、啖呵を切って家を出て行こうとする。すると、女
房のおとくが言う。「あんたが出て行くことはないよ。こ
こはあんたの家なんだから、あたしが出て行くよ」女房の
出て行ったあとの心の空虚に耐えきれず、仙吉はおとくの
後を追う。「大またに歩いて行くおとくのあとから、仙吉
は呼びかけながら、よたとたと走ってついて行った」
「霜の朝」より

物語の舞台:裏店(場所不特定)、上野山内、根津  写真:不忍池

・仙吉は根津にいた。お七という女髪結いの家である。仙吉が以前働いていた経師屋で女中をしていた女で仙吉が仲間に誘われて来た根津の切見世の中で、ばったり顔を合わせたのである。
・おとくが働いているのは、上野山内の普請場である。去年の秋に、はげしい雨風が一昼夜も江戸の町を包んで荒れ狂ったとき、上野の山の崖が、石垣もろとも一町もの幅で崩れ落ち、その上にある御堂がかたむいてしまった。
・仙吉は尻をからげて走った。おとくのうしろ姿を見つけたのは蔵前通りに出てからだった。おとくはすたすたと鳥越橋の方に歩いて行く。


入墨

2021-10-04 13:03:28 | 場所の記憶
 
細々と居酒屋を営む姉妹には、遠い昔、自分たちを捨てて行った父親がいた。その父親が、近頃は店の前にうろついている。姉はその父を疎み、妹は親近感を抱く。ある日、店の常連で、ならず者が妹を拐かし、あまつさえ、恐喝に及ぼうとする。その時、父が渾身の力を振り絞って兇漢を倒す。「雁の声がした。空は曇ったままらしく、夜の町にぶ厚くかぶさっている雲の気配があった。雁の姿は見えなかった」危害を加えられそうになった二人の娘を救った父の後ろ姿を見送ったあとの情景である。
『闇の梯子」より

物語の舞台:本所 要:「江戸切絵図」(本所)ー国立国会図書館デジタル参照 写真:百本杙の碑
・割下水沿いに歩いていた。町は長岡町に変わり、三笠町二丁目から一丁目を過ぎて、そこから先は武家屋敷の堀
 つづきになった。・・・辻番所の前を二度通った。突き当たりに本所御竹蔵の広大な塀が黒々と浮かび上がった。
・御竹蔵の前を突き当たると左に折れ、道は割下水を渡って、左は武家屋敷、右は御竹蔵にはさまれて、真直角に伸びている。さらに亀沢町の角で、二人の男に会った。ついに、卯助は本所相生町四丁目と五丁目の間を抜け、竪川にかかる二の橋を渡った。卯助の足をとめた場所は,五間堀を渡って、長桂寺と隣り合う深川北森町の一角だった。そこに貧しげな裏店があった。裏店は長桂寺の森閑とした黒塀に寄り添うように、低い軒を聚めていた。ここにいたるまで卯助は二ノ橋を渡ってから松井町と林町の間を抜け、さらに常磐町から大名屋敷都」弥勒寺の間を通り抜けてきている。