場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

亀戸事件ー偏見と差別の地でーその2

2022-03-20 22:46:37 | 場所の記憶
 彼らの虐殺の模様はつぎのようなものであった。
 虐殺は9月4日夕刻からはじまった。亀戸署に収容された多数の朝鮮人のうち名も知れない幾人かが、まず銃殺され、それにつづいて労働組合の幹部が刺殺された。
 刺殺されたのは、南葛労働会の川合義虎23歳、加藤高寿30歳、山岸実司21歳、近藤広造26歳、北島吉蔵20歳、鈴木直一24歳、吉村光治24歳、佐藤欣治35歳の8名、それに純労働組合の平沢計七34歳、中筋宇八25歳 の2人をくわえた計10名であった。
 南葛労働会の吉村、佐藤をのぞく6人は、不幸にして、南葛労働本部(亀沢町3519番地)に集まっているところを一挙に検挙されたのである。9月3日、夜10時すぎのことであった。
 同じ頃、純労働組合の平沢計七は、夜警から帰って家で休んでいるところを逮捕されている。警察が踏み込んだ時刻が、いずれも同時刻なのがきわめて計画的であることをうかがわせた。
 彼らの逮捕は当初から意図的であったために、その抹殺のされ方も計画的であった。ことさらの理由もないまま闇から闇へ、彼らは犬のように刺殺されていった。
「復も(また)も」というのは、実際は、この事件のあとで起こったのだが、世間に報道されたのが先であった大杉栄の虐殺事件のことを指している。そして、「軍の手によって」とある軍隊は近衛騎兵第十三連隊の田村春吉少尉とその部下の兵たちである。
 活動家10名を逮捕した警察は、当時、亀戸周辺の警備にあたっていた近衛連隊に彼らの処分をまかせた。警察と軍隊とが手をむすんでの虐殺行為である。
 虐殺は大震災の混乱のどさくさのなかでおこなわれたため、殺された日時も場所も現在では推定の域を出ない。しかし、周辺の状況、目撃談から総合すると、9月5日の早暁、亀戸警察署内の中庭で殺害がおこなわれたことが推定できる。
 そして、殺害後、遺体は直ちにその場で焼却されたと、新聞は報じた。しかし、焼却された場所については異説がある。近くの荒川(放水路)の河原に運ばれ、そこで焼却されたとも、大島八丁目の沼の多い原っぱで焼却されたともいわれている。実際、これらの場所から、後日焼却された死体が見つかっている。
 そもそも亀戸地区の地震被害は、他の箇所と比べると少なかった。にもかかわらず、忌まわしい虐殺行為が最も激しく、大量におこなわれたのである。
 伝えるところによると、この地区での虐殺行為の発端は、9月1日の午後であったという。それは、習志野から派遣された軍隊が、亀戸駅付近に避難していた罹災民のなかにまぎれていた、ひとりの朝鮮人を血祭りにあげたことからはじまった。しかも、その行為を目撃していた群集のなかから、期せずして万歳歓呼の声がわきあがったというのだ。
 この時期、朝鮮人来襲という流言飛語は、不安と恐怖にかられたこの地区の住民の心を完全にとらえていた。彼ら住民は自警団を組織し、見えぬ敵の来襲にそなえていたのである。
 攻撃は最良の防御でもあった。自分たちの周囲にいる朝鮮人を捕らえろ、という声が卒然として巻き起こったのである。その後は集団ヒステリーにも似た心理状態での虐殺の横行であった。
 亀戸地区を中心に大島町の各所でおこなわれた虐殺は悲惨をきわめた。軍隊と警察と自警団が連合して、朝鮮人及び中国人労働者、社会主義者を殺戮したのである。
 その土地のイメージといったものがある。
 亀戸地区が攻撃の対象になったのは、この地区が帯びていたイメージのためだった。
 亀戸地区が、外国人労働者、主に朝鮮人、中国人の多く住む場所であったことから、胡散臭い場所ととらえられていたことがその一つ。これは民族的偏見にもとづく差別的イメージというものである。二つめは、治安当局から、この地区が労働運動の拠点として、不逞の輩の集まる場所としてイメージされていたことがある。
 取り締まり当局は、これらふたつながらのイメージを、大震災の混乱に乗じて一挙に払拭すべく、虐殺行為に出たともいえる。それは「峻厳、人の肝を寒からしめる」ことを目的とした行為であった。
 当時、日本の大都市の周辺には沢山の朝鮮人が住んでいた。彼らのほとんどは、日本の植民地政策により母国の土地を奪われた農民であった。ある者は土木工事の飯場などに集団的に住みつき、ある者は工場労働者として働いていた。
 江東・南葛地区には、明治三十年代から多数の工場が誘致されていた。これらの工場は、いずれも職工数千人をこえる規模をもち、竪川や横十間川、今、スカイツリーが立つ北十間川沿いの運河に点在していた。
 工場群が川沿いにあったのは、原料および製品の運搬をすべて船運にたよっていたためである。そもそもこの地区に工場が多く集まるようになったのも“水運に恵まれた土地柄ゆえであった。
 ちなみに、大正11年の業種別工場分布をみてみると、亀戸地区だけでも化学工場六四、機械工場61、染色工場22を数えていた。いかにこの地区にたくさんの工場が集まっていたかが知れよう。朝鮮人などの外国人労働者の多くがこれら工場の労働者として働いていたのである。
 大正という時代は東京がモダン都市化してゆく時代であった。都市化の進行によって、都市のなかに暗闇が成立する。それは秘密めいた空間である。治安当局が、そうした空間を胡散臭い、禍々(まがまが)しい場所ととらえたのも自然の成り行きであった。
 そして、その闇の部分を、暴力をもって取り除こうとした。大震災の混乱に乗じておこなわれた虐殺行為は、そうした意図のもとで起きたのである。
 犠牲者たちはいずれも正式な死亡届けのないまま、戸籍から消されず、それゆえに墓もない状態であるという。
 現在、亀戸天神にほど近い浄心寺というこぢんまりした寺に「亀戸事件犠牲者之碑」がひっそりと立つばかりである。

タイトル写真:浄心寺・赤門

亀戸事件ー偏見と差別の地でーその1

2022-03-11 10:44:37 | 場所の記憶
 大正12(1923)年9月1日、東京、横浜を中心にマグネチュード7・9の烈震が襲った。これにより首都壊滅という誰もが予想しなかった未曾有の事態が起きた。その混乱のなかで、「朝鮮人が暴動をくわだてている」という流言飛語が飛び交い、忌まわしい虐殺行為がくりひろげられた。
 私は、その事実を知った時、そうした社会心理の発生は、この令和の現代でも無関係ではないな、と直感した。あの阪神大震災の際にも、どこからともなくそのような流言が起きたと聞く。現に、昨今、白昼堂々と、排外主義にかられて「朝鮮人を殺せ」というスローガンを掲げ、デモをする集団がいるほどである。
 流言は不特定多数の人間が住む大都市でこそ、その真価を発揮する。都市の不透明さが流言のひろがりを容易にする。そしてそれに惑わされる人々の恐怖心も増大する。流言は場所に定着せず、文字どおり流れ飛び、流言飛語となる。どこから発したかも確認できないまま、デマはデマを及び、人々はそれに惑わされ動き出すのである。
 関東大震災とよばれるその大地震は、昼餉の支度をしている、ちょうど正午頃に起きた。 
 それが被害を拡大することになった。各家庭で使っていた火が大火災の誘因となったのである。火はおりからの風に煽られ大旋風をともなって延べ三日間、40時間にわたって町を燃え尽くした。
 とくに東京の下町地区の被害は甚大であった。地盤の弱い土地柄のため、木造家屋の倒壊がめだち、その結果、各所で火災が発生した。大火災は9月3日、午後になってようやく鎮火したが、帝都の大半は文字通り焦土と化した。
 地震と火災による死者は東京市にかぎっても58000人、被害世帯数は全世帯の73%、350400世帯におよんだ。
罹災者が広場や公園、焼け残りの施設にあふれた。恐怖と飢餓がないまぜになって、市中の混乱は極度にたっしていた。
 この状況をうけて、治安当局は、9月3日夕刻、首都一円に戒厳令の布告をしている。戒厳令は大日本帝国憲法八条にもとづく行政戒厳令で、これは平時の際に発令される戒厳令だった。
 そもそも戒厳令布告の決定の背景には、警察当局の秩序維持にたいする極度の不安、それはやがて朝鮮人が暴動をくわだてているという予断へと変質していった。
 時の内務大臣水野錬太郎は、後日、戒厳令布告をきめたのは「朝鮮人攻め来るの報」を耳にしたからだ、と語っている。それはあくまで流言飛語であったが、予防措置としての朝鮮人の「暴動」取り締まりが、警察と軍隊の通信網をつうじて伝えられることで現実のものになっていった。  
 このどさくさに、警察は軍隊と協力して「主義者」も不逞の輩として取り締まりの対象にした。
 大震災による混乱のもとで、信ずるべき情報は警察情報だけであった。しかもその警察情報がこともあろうに、虚偽の内容に基づいて流されたわけだ。
 やがて、東京のあらゆる地区に自警団なるものが組織されることになる。自警団は警察から暗黙の権限をあたえられ、公然と朝鮮人虐殺行為をはじめるのである。日常的差別によって、彼らから恨みを買い、報復されかねないという日頃の疑心から発した行為であるとすれば、これほどおぞましいことはない。
 かくして、大震災という天災のあとに、目を覆いたくなるような朝鮮人にたいする蛮行や虐殺、あるいは「主義者」の惨殺がおこなわれることになった。
 東京市における朝鮮人虐殺の事実は、下町地区を中心に関東一円に及んだが、なかでも府下亀戸地区でくりひろげられた惨劇はその代表といえた。
 10月21日付けの『読売新聞』は、当時の亀戸地区の状況をつぎのように伝えている。
 「震災当時、最も東京市内鮮人騒ぎの激しかったのは、江東・南葛方面で、亀戸署の如きは、平常管内236人の多数が居住し、これら全部筋肉労働に従事し、なお同種の支那人が200名近くも居る事とて非常の騒ぎで荒川放水路を境として東南から東京方面にかけて、・・・まるで戦場のような騒ぎで、2日から5日にかけて、亀戸署の検束者720名中400名は鮮人であり、また、南葛労働の平沢外9名の死体と共に焼棄した百余命の死体中には、之等○○○(伏せ字)く、これは至る所で惨殺されていて路傍に棄てられていた」
 この記事が明らかにしているように、大震災後の混乱のなかで朝鮮人の殺害ばかりでなく、亀戸地区に拠点をおいていた労働組合幹部の虐殺がおこなわれたのである。世に言う亀戸事件である。
 当時、南葛(南葛飾郡の略、現在の江東地区)地区は、「我国に於ける左翼労働者運動のいち早き発祥地であり、それはやがて左翼労働運動の本流をなし、無産階級解放運動全体の上に絶大なる影響をもたらした根拠地」(『評議会闘争史』 野田律太)であった。亀戸事件とは、そうした日本の労働運動の拠点を壊滅させるために、日本の軍隊がその活動家10名を抹殺した事件だったのである。
続く

タイトル写真:亀戸・浄心寺境内にある慰霊碑