場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

明日香幻想ーその1

2022-09-28 22:16:48 | 場所の記憶
 晩秋の十月のある日、ローカル色あふれる飛鳥駅に降り立つ。朝の光が満ちる前の、夜明け間もない時刻であった。爽やかな風が頬をなでて過ぎる。
 駅を出て周囲を見渡した時の最初の印象は、この地が想像していた以上に山勝ちである、ということだった。早速、のどかな田園風景の中を東に向かって歩きだす。辺り一帯に雅やかな色香が漂う。
 陽はようやく山の端から離れ、朝の光が東の方角から満ちあふれてきている。
 私は歩きながら、古代人が東の方角に特別の意味を認めていた理由が分かるような気がした。東が日に向かう方向であり、それ故に生命あふれるものたちが住まう地としてとらえられていたことを実感した。飛鳥の地はまさに、古代人が「東に美しき地はあり」として選びとった場所としては最適な地であったのだろう。古代人は「日の向く方向」にこそ彼らが求める常世があると考えた。
 秋の色づいた清澄な大気は、歩いているだけでも快い気分を高めてくれる。周囲にはなだらかな山並みがうねうねとつづいている。
 やがて左手にこんもりとした小山が見えてくる。それは天武、持統帝の墳墓であった。一帯が既に古代の遺跡のただ中にあることを知る。うっそうとした雑木に包まれた御陵は、辺りの景観を圧して、ひときわ気品がみなぎる。それがただの小山ではなく、歴史をたずさえた霊のこもるひとつの記念物であることを感じさせる。そのような目で眺めると周囲の小丘がみな古墳のように見えてくるから不思議だ。
 飛鳥の里をさらに東行すると飛鳥川に出会う。
 飛鳥川は明日加村のほぼ中央を南北に流れる川で、『万葉集』にもしばしば登場するほど重要な意味をもっていた。また、『古今集』にも、「世の中はなにか常なるあすか川 昨日の淵ぞ今日は瀬となる」と謳われているように、渕瀬常ならぬ川として飛鳥人には受け止められていたのである。
 そもそも川というものは、その絶えざる流れゆえに、我々には無常と断念を象徴するものとしてイメージされてきたのである。
 飛鳥川の源は飛鳥の南方、高取の峰々に発し、栢森、稲淵の谷合いを流れ、祝戸(いわいど)で冬野川と合する。さらに明日加村の中央を縫い、藤原京跡を経て大和川に注いでいる。しかし、現在みる飛鳥川は瀬瀬のうちなびくかつての激しく流れる川の面影はなく、流れもゆるやかで、水も濁り、歴史を積み重ねた川といった様相ではない。
 古代の飛鳥人は、この川を、遠い山奥の霊界からはるばる流れ下る神霊を運ぶ川としてとらえていた。そうした神聖なトポス(場所)に、飛鳥人は多くの重要な建造物をうち建てたのである。
 現在の明日香村の中心地にあたるのが岡集落。飛鳥川を西に見るこの集落の北はずれに飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡と伝えられる旧跡がある。いわゆる大化の改新クーデターの現場になったところである。
 中大兄皇子と中臣鎌足が、時の権力者蘇我入鹿を倒し、政権の転覆を図ったあの有名な出来事である。かつてそこには板蓋宮大極殿が置かれていた。
 事件が起きたのは皇極四年(西暦645)六月十二日のことである。
 その日は朝から曇が重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな日であったという。大極殿ではこの日、皇極(こうぎょく)天皇を迎えて、貢物献納式が行なわれる予定になっていた。
 それは三韓から寄せられた貢ぎ物を天皇に差し上げる儀式であった。式は予定通り進んでいった。だが、大極殿の中はいつもとは少し違う、どこか殺気を含んだ雰囲気が漂っていた。そうした中、蘇我石川麻呂が表文を読み上げ始めた。石川麻呂の声はかすかに震えているようであった。彼はあらかじめ、この日の謀りごとを知らされていたのである。
 その時である。中大兄皇子の大声と共に刺客が式場の中になだれ込んで来たのである。式場は悲鳴の声とともに混乱の渦に包まれた。突然の出来事であった。見れば蘇我入鹿が長槍で頭と肩を刺され、鮮血を浴びて式場の傍らに倒れている。
 時の権力者が誅殺されたのである。それは一瞬の出来事であった。その場に居合わせた人々は皆、これから起こりうる出来事を直感的に察知し、事の重大さに恐懼した。
 蘇我氏側の反撃があるであろうことは火を見るよりも明らかであった。それをいちばん強く感じ取り、それへの備えをしていたのはほかならぬ中大兄皇子その人であった。
 この出来事が起こる少し前、皇子はすでに飛鳥寺に多数の手兵を集めていた。飛鳥寺は飛鳥板葺宮からほど近い地にある蘇我氏の氏寺である。蘇我入鹿の祖父にあたる馬子が、推古十四年(606)に造営した寺だ。建立当時、塔を中心に東西北の三方に金堂が建つ独特の伽藍であったという。
 後年のことになるが、中金堂に飛鳥大仏の名で呼ばれた釈迦如来像が安置された。寺域は今見る飛鳥寺の四倍というから、かなりの広さであったのであろう。

野津田ー北村透谷、美那子出逢いの里

2022-09-02 12:00:55 | 場所の記憶
 町田市の北部にある野津田は、明治の10年代、自由民権運動が盛んだった頃、その一拠点になったところである。また、その運動の中心人物のひとり、豪農石阪昌孝の娘美那子が初めて北村透谷と出会ったことでも知られる場所でもある。
 野津田------その響きからしていかにものどかな田園のただ中にあるように思える地を、春の一日ぶらりと訪れてみた。
 JR町田駅前からバスで行くこと30分ほど。鎌倉街道に沿って走るバスは、次第に田園のたたずまいが色濃くなる風景の中を走る。田植え前の水田には、レンゲが紫色の絨毯を色鮮やかに広げていた。
 それを見やりながら、私は、ある懐かしい記憶を呼び起こしていた。それは小学校の二、三年頃であったように思う。ヒバリのさえずる田圃道をカバンを背負い学校へ通った頃の記憶である。畦道にはハコベやヨモギの若草が生い茂り、ぽかぽかと暖かい日差しがあたりに満ち満ちていた・・・。
 ふと我に返ると、ちょうど下車する予定の停留所にバスが停まった。「薬師ケ丘前」という名のバス停でバスを降りると、目の前に、こんもりと緑に包まれた小丘陵が望めた。
 明治18年の初夏6月、蒸し暑い曇り空のもと、白地の紺絣を着た長髪姿のひとりの青年が、この地を訪れている。その青年こそ、友人たちからトラベラーと呼ばれていた放浪の人・北村門太郎その人である。のちの文学者北村透谷(透谷の名は彼にゆかりある数寄屋橋のスキヤから命名した)である。
 彼は、その頃盛んだった、自由民権運動にかかわりをもっていたために、この地の民権家、石阪昌孝を訪ねるべくやって来たのであった。 
 明治18年という年は前年に加波山事件や秩父事件が起こり、武相困民党が壊滅の危機に瀕している時でもあった。いわば、民権運動が急速にかげりを見せはじめた時である。
 このような民権運動の衰退を目にして、北村は思い悩み、これまで歩んできた自らの方向を転換しようと考えていた。石阪昌孝を訪ねたのも、その答えを得ようとしたためであった。透谷はそれより二年ほど前、すでに石阪昌孝、公歴(まさつぐ)父子と活動を通して知り合っていた。 
 当時、石阪昌孝は、地元南多摩地域はもとより、神奈川県下にひろくその名を知られた民権運動家で、若手民権家の領袖的存在であった。
 バスを降りたところで目にした、こんもりと緑に包まれた小丘陵--その一帯は暖沢(ぬくざわ)と呼ばれる地で、透谷が訪ねた石阪邸もその暖沢にあった。
 それにつけても、暖沢と呼ばれる一帯は、実にのどかなたたずまいのところだ。その名が意味するように、気候穏やかな地であるのだろう。
 今回、私がそこを訪れたのは、その地になにがしか、透谷が訪れた頃の痕跡を発見できるのではないか、というかすかな期待感からであった。  
 ゆるやかな坂を登りながら、明治18年という遠い過去の風景を思い描いていた。
 今でこそ、人家が建ち並び、宅地化の波が押し寄せてきている様子がうかがえるが、透谷が訪れた頃は、もの寂しい山里の風情が色濃くただよう場所であったにちがいない。
 丘陵をぐるりと巡るように切り開かれた道をたどって行くと、小さな社が現れた。それは野津田神社という名の、地元の産土神を祀る社であった。
鳥居をくぐり、杉の木立が暗い影を落とす境内に足を踏み入れてみる。
 ふと拝殿の前に立つ、石造りの中国の伝説に出てくる、贔屓(龍の子)の背中に乗る灯明台(灯籠)に目が向いた。風雪にかなり削り取られてはいるが、台石に寄進者の名がかすかに読み取れる。そこには、「先孝石阪昌吉、石阪吉利謹建 文久二年」とあった。
 ひょっとするとこれは石阪昌孝に関係する事跡ではないか、と早くも歴史的痕跡に出くわした好運に胸が高まる。
 百年以上たった現在も、その場にしっかり立ち尽くしている、その古びた灯明台が物語るなにがしかのエピソード、それにいたく興味をもったのである。
 そう言えば、野津田神社には、石阪昌孝揮毫の幟が保管されているということを何かの資料で読んだことがあった。昌孝とこの神社とは確かに接点があるのである。あとで知ったことだが、石阪昌吉は昌孝の養父であり、灯明台の寄進者吉利はのちの昌孝その人であった。昌孝21歳の時の寄進である。
 神社の境内の脇から背後の山の中に分け入る細い径が切り開かれていた。そこに道しるべが立っていて、「民権の森」と記されている。近くに透谷と美那子の出会いを記念した碑があるということを聞いていたので、たまたまそばで農作業をしていた老婆に尋ねると、それは、ぼたん園の敷地のわきにあるということだった。 
 もと来た道を戻り、ボタン見物に訪れた人で賑わうぼたん園をまわりこんで、斜面上の畑を縫ってゆくと、丘の中腹に御影石でできた記念碑が現れた。  
 ちょうど、大小の石が抱き合うような形で向かい合う碑面には「自由民権の碑 透谷、美那子出会いの地」と刻まれている。大小の石は透谷と美那子をイメージしているのだろう。さらに丘を登りつめると、その頂の木陰に、石阪昌孝の墓がひっそりと立っていた。
 このあたり一帯は、石阪邸の屋敷地であったところである。475坪の宅地に73坪ほどの木造草葺き平屋の母屋があり、ほかに二棟の土蔵と一棟の物置があったという。まさに27町歩の大地主にふさわしい大邸宅であったことが知れる。
 明治18年6月、透谷はこの地を訪れ、石阪昌孝の娘の美那子に出会い、その後、ふたりは「全生命を賭けた恋愛から結婚」へと突き進んでいったのである。時に透谷17歳、美那子20歳。
 二人が初めて出会った時のことを回想して美那子はのちにこう書き留めている。
 「透谷は柿の木に登った。私はそれをぼんやり見上げていたが柿の実がまだ青かったという記憶が残っている。(透谷の)白地の着物といい、青い実といい、たぶん学校(その頃美那子は横浜の共立女学校に在学していた)の夏休みで、郷里に帰省していたときではなかったかと思う」
 柿と言えば、暖沢の背後を流れる、今はコンクリート護岸になっている鶴見川沿いにも、禅寺丸と呼ばれる柿の古木を見ることができた。その柿の枝ぶりが、この辺の古格の風景を演出する格好の道具立てのひとつになっていた。 
 ここで、石阪昌孝について少し触れておこう。 
 昌孝が生まれたのは天保12(1841)年。14歳の時に叔父である名主石阪又二郎(昌吉)の養子として、石阪家に入る。当時、石阪家は野津田村きっての豪農で、27町七反余りにも及んだといわれ所有地は村の五分の一を占める広さであった。
 その彼が16歳の時、養父の突然の死によって家督を継ぐことになる。それは村の名主となることでもあった。時代は昌孝を激流の渦の中に投げやることになる。
 時は幕末の激動期であった。彼の住まう南多摩地方にもその波は押し寄せてきていた。混乱に乗じて、よそ者が村に入りこみ、風紀が乱れ、村の治安を危うくするという事態になっていた。
 そうした状況下にあって、農民たちの不安はたかまるばかりであった。隣村小野路村の、同じく名主である小島鹿之助と義兄弟の契りを結び、小島を通じて、出稽古で訪れた近藤勇・土方歳三らを紹介され、天然理心流を学び、彼らと密接な同志的結合(門弟)をもち、またみずからも治安維持のため農民武装集団「小野路農兵隊」に結集した。昌孝二十代の頃である。
 これら一連の動きはまた新しい時代の到来を予感させもした。やがて、その予感が現実になる。御一新という名の新時代がやって来たのである。王政復古の大号令が発せられ、時代は慶応から明治と変わる。
 時代が変わり、新政府のもと矢継ぎ早な改革がおこなわれるなか、昌孝は区長、戸長、神奈川県会議長などを歴任。さらに、明治10年代になり、自由民権運動が盛んになるとそれに参画、野津田村戸長村野常右衛門らと原町田に民権結社、融貫社を設立、国会開設運動の一翼を担った。(ちなみに、融貫社の社員に、樋口一葉の婚約者であった渋谷三郎がいた)また、同年自由党が結成されると、これに入党。明治23年、第一回総選挙で東京から衆院議員に当選、以後四回連続当選を果たすことになる。
 今は死語になってしまったが、「井戸塀政治家」という言葉がある。これは「井戸と塀しか残さない」政治家のことを言ったものだが、石阪昌孝はまさにその人だった。
 松方デフレによる資産の激減ということもあったが、彼は自身の資産を政治につぎ込み、明治40年(1907)、六十六歳で亡くなった時には、 わずか五反余の土地が残るばかりであったという。
 彼の子どもたちも同様だった。
 長男の公歴は、自身のアンビシャスの挫折と石阪家の資産の蕩尽を目の当たりにして、日本で生きることに行き詰まり、いわば亡命のような形でアメリカに新天地を求めて渡航する。明治19年12月のことである。
 その後、彼は数奇な運命をたどった果てに、太平洋戦争終了直前の昭和十八年頃、アメリカで客死する。その死は失明状態での野垂れ死であったという。
 一方、長女の美那子と北村透谷の「全生命を賭けた恋愛から結婚」に至る経緯は容易ならざるものだった。
 すでに許嫁のいた美那子との出会いと、その後の美那子に対する恋情は、以後、透谷の精神を狂わせるまでの葛藤となった。
 その許嫁(平野友輔)はすでに医師として、また民権家としても認められていた人物であり、いまだ海のものとも山のものとも知れぬ書生である若者(透谷)とは比較にならなかった。二人の結婚に石阪の家族が反対したのは当然のことだった。
 そうした中で、美那子は許嫁を捨てて、透谷との強引な結婚を選ぶ。しかも、六年という短い結婚生活の後、夫である透谷が自殺(明治27年5月、享年27歳)してしまう。
 この透谷の自殺について、のちに親友の島崎藤村は『春』という作品の中で、次のように描いている。 
 『なぜ青木(透谷)は自殺したろう。この問は二人の友達が答えようとして答えることの出来ないものであった。世間ではいろいろ言触らした。「食えなくて死んだんじゃないか」というものもあれば「厭世だろう」というものもあり、「芸術の上の絶望からだ」と解釈するものもある。これといって死因と認むるべきものは、二人の友達(島崎藤村、戸川秋骨)にすら見当たらなかったのである。「なぜ青木君は亡くなったんでしょう」と岸本(藤村)は未亡人に尋ねてみた。「さあ、私にも解りません」こう未亡人が答えた。この「私にも解りません」が一番正直な答えらしく聞こえた。』
 その後、美那子は失意のうちにアメリカに留学し、八年後帰国して英語教師となり、義母と娘(英子)と共に東京牛込でひっそりと暮らした。教師のかたわら透谷の詩の英訳にも手を染めていたという。
 後年、ある雑誌の中で、美那子はつぎのようなことを書き残している。
 「私の洋行しやうと決心した動機は、只今申す通り、最愛の良人を失って、此の世の中の唯一の慰藉を奪はれたから、何か事業に慰藉を求むると云ふが、重(おも)なる動機で御座いますが、併し、今一つの有力の動機は、透谷の感化であると思ひます。夫れは透谷が在世の時から、常に申した事は人間は何か一つの仕事を成就して、世を救ひ、社会の利益を謀らねばならぬと、始終申し聞けられたもので御座いました」と。日米戦争のただ中にある昭和17年4月、美那子は76歳の生涯を閉じたのであった。
 ところで、野津田一帯は、雑木林の繁る丘陵地の間に、細く開ける谷戸田と呼ばれる耕作地が多いところだ。そこは田方(たがた)と呼ばれ、山の麓から湧き出す水を利用した水田があり、米が採れるところとして、昔から農耕に適した場所として知られている。
 現在、薬師カ池公園になっている地には、かつて、湧水の溜池がつくられ、水は農業用水として使われていたという。
 ゆるやかな勾配の山径を巡っていると、このあたりには、土地の風格のようなものが漂っていることに気づく。すでに鎌倉時代には鎌倉街道が通じていたといい、時代は下り、江戸時代になると、大山参りの道筋として人の往来が盛んになるのである。そうした古い歴史を刻んだ風景の相貌というものが、あちらこちらにほのかに見える。
 そう言えば、起伏のある地形に切り開かれた道を歩いているうちに、いつの間にか、道に迷ってしまったことがあった。歩くうちに、隣の山域に入ってしまったのである。
 そこは七国山(ななくにやま)と呼ばれる一帯で、実にのどかで快い気分にしてくれる場所であった。なだらかな斜面にはネギやキャベツなどの野菜畑が開け、畑を取り囲むようにして若葉も鮮やかなクヌギやナラの雑木林が風に揺れていた。
 あとで知ったのだが、そのあたりは、景観保全地区になっているらしかった。たしかに、ざっと見る限り、宅地造成で緑地が削り取られているという状態は見られなかった。起伏に富んだ沃野がうねうねと広がっているのである。
 それにしても、こうした自然が濃密に残され、その美しい景観が保たれているところが少なくなった。風景の中に浸っているだけで快い気分になり、自然に優しく抱かれたような心持ちになる場所がやはり懐かしいのである。