場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

南部の作家たち

2019-08-01 10:20:34 | 場所の記憶
 青森県の太平洋側と岩手県の大部分を占めるのが南部地方。遠くは、中世の三戸地方に拠点を置いて、この地方を治めた南部氏に由来する。南部氏は、故地・山梨から御神体を奉戴した櫛引八幡宮を一族の守り神として崇めたとされる。
名誉ある地位を託された八幡さまが見守る南部の地。その誇りは、革新をもって歴史と伝統を引き継ぐ気質をも生んだ。
 盛岡は南部富士と呼ばれる雪を頂いた岩手山(2038m)の全貌が見え、北上川、高松池など自然の映える美しい町である。
 戦後一時期、岩手に住んだことのある詩人・高村光太郎は「此の地方の人の性格は多く誠実で、何だか大きな山のような感じがします。為ることはのろいようですが、しかし確かです」と述べている
 そんな地に生まれた文学者に石川啄木、宮沢賢治がいる。また言語学者の金田一京助、俳人の山口青邨がいる。
 啄木、賢治、金田一に共通することがある。いずれも当時の県立盛岡中学(現、盛岡第一高校)の出身者であることだ。啄木は明治31年入学、啄木を生涯支えた金田一京助は啄木の3年先輩、賢治は明治42年に入学している。
 ちなみに、この伝統校からは、啄木の1学年上の『銭形平次捕物控』で知られる小説家・野村胡堂、そして4年上には第37代総理大臣をつとめた米内光政などがいる。
 その盛岡で育った宮沢賢治は、作品『イーハトーヴ』の中で、この地を「ドリームランドとしての日本陸中国岩手県である」とし、現実の岩手の風土と、賢治の想像力が溶け合って生み出された、不思議な理想郷ともいうべき場所とした。
 イーハトーヴの首都で、一番大きな町がイーハトーヴ市、あるいはモリーオ市と呼ばれるその町は、盛岡市がモデルであることは明らかである。賢治は 13歳から22歳まで盛岡で過ごし、その後の賢治に大きな影響を与えた地になった。
 一方、渋民村(現在の盛岡市渋民)で神童と言われた啄木は、128人中10番の成績で盛岡中学に入学。が、次第に文学に傾倒し学業はおろそかになっていく。英語学習のためのユニオン会の立ち上げや教員の欠員と内輪もめに対するストライキへの参加、あげく、卒業を目前にしてカンニングをきっかけに退学する(明治35年)などエピソードには事欠かなかった。
 盛岡中学時代に詠んだ「不来方のお城の草に寝こびて空に吸われし十五の心」は有名だ。これは盛岡城で詠んだ歌である。また、市内には啄木夫妻が新婚時代に住んだという家が残っている。
 盛岡を去ってからの啄木は、生活の糧を求めて、その後北海道、東京と転々とし、それは苦難の生活の連続だった。そのような状況下で謳った歌に、「はたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る」がある。
 ついに故郷に帰ることなく異境で命を落とした啄木が、故郷に思いをいたして詠んだ歌がある。それはどれも悲しい調べである。 「かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川」「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」
 俳人・山口青邨は我が故郷を、「私の頭の中にはみちのくの春、みちのくの秋が閃めく、私の目の前にみちのくの山、みちのくの川が髣髴する」と回想している。みちのくの山は岩手山であり、川は「北上夜曲」で知られる北上川に代表される山河のことであろう。