場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

作家三浦哲郎の故郷・岩手県二戸郡一戸町

2019-06-02 11:33:00 | 場所の記憶
 三浦哲郎といえば私小説作家として知られている。出世作『忍ぶ川』は芥川賞を受賞している。
 三浦の生まれ故郷は青森県の八戸であるが、本人が東京の大学に通うようになってからは、一家は岩手県二戸郡一戸町に移住している。以来、三浦はそこが帰省の地になったと述懐している。
 実際は結婚後、一時そこで暮らし、子供も設けている。氏の作品の中には、この地を題材にしたものも多い。
 桜の花が咲き誇る、五月のある日、(それは二〇一八年十月のことである)私は一戸を訪ねた。盛岡から「いわて銀河鉄道」のローカル線に揺られること一時間ほどで一戸に着いた。
 車窓からは、ようやく春を迎えたという初春の、まだ冬枯れの様相を呈している潅木の林や所々に蕗の薹が顔をだす畑が眺められた。車内を見渡すと、通学の学生やらいかにもこの地方特有の風貌をした年配の乗客が多いのに気づく。ローカル線とはいえ、乗客が多いのは、この鉄道が地元の人々の生活の足になっているためだろう。
 今回は一戸を目指しての小旅行であったこともあり、この沿線に石川啄木の生まれ故郷・渋民村(現玉山村)があることを知らなかった。岩手山を背にした渋民村の写真をかつてみたことがある。その岩手県のシンボルとも言える岩手山が車窓の左手に見えていた。
 三浦哲郎が「北上山地の北はずれの山間にあるこの古い町」と記した一戸の町は、すでに午後の日が傾き始める時刻になっていた。このまま歩いての文学散歩で、日が暮れないだろうかと少し心配になったが、タクシーも見当たらないし、ともかく歩くことにした。
 いつものことながら、文学散歩には胸の昂まりを覚える。その理由は、小説世界に描かれた舞台が目の前に開かれるという期待感である。
 駅からしばらく歩くと馬淵川にかかる橋に差しかかった。さっそく、橋の袂に三浦哲郎の筆跡による「しのぶ橋」と刻んだレリーフを発見する。眼下の馬淵川が勢いよく音を立てて流れている。河畔には辛夷の白い花が咲いていた。
 川を渡り、川沿いを歩くと、しのぶ橋の一つ下手にある岩瀬橋近くに小さな公園があった。隅に文学碑があり、そこに『忍ぶ川』の一文が刻まれていた。
 この岩瀬橋については、『妻の橋』の中で、「橋の上には朽ちてあちこち隙間だらけの橋板に重ねて、幅五十センチほどのいくらか増しな板の細道がつけてある」といったようなぼろ橋だったが、今は改装されてそれなりの橋になっている。
 駅から実家に帰るにはこの橋を渡るのがいちばん近道であることから、しばしば作品に登場する橋である。
 帰省する氏を出迎えるために、父がいつもそこで待っていた橋であり、下を流れる馬淵川は、父がよく打ち釣りをしていたことがある懐かしい川である。
 文学碑をすぎて、さらに川沿いの上り勾配の道を行くと、左手に氏の実家が見えてくる。家は二階建てで、今は無住の家になっているため、少し荒んだ印象があった。
 この家もしばしば小説に登場するし、今や史跡といっていい部類に入る。親族の意向もあるだろうが、いずれの日にか公共的な保存が必要ではないか、と思われた。
 無住の建物は日々風雨にさらされて、次第に朽ちて、あばら家のように成り果ててしまう。それが痛々しい。
 前述の小作品の中で、「家では二階にも階下にも、あかるく電燈をつけていて、窓々からあふれたひかりがサーチライトのように、降りしぶく雨脚をとらえていた。私は一瞬、立ちどまってわが家の夜景にみとれた」とあり、それは臨終近い父を見舞うために近親者が集まる家の光景であった。
 そして、この家は新しい妻を迎えて、家族だけの、ささやかな婚礼を執り行った場所でもある。
 その家の裏の崖下には馬淵川が流れていた。冬になると「凍った川が、雪の重みでひび割れる音」がする川である。
           *
 私はどうしても氏の菩提寺を訪ねたかった。氏が眠っている場所でもあり、この寺も小説の舞台にしばしば登場する寺であるからだ。
 川沿いの道から離れ、しばらく上りの道を歩くと、町の裏山の中腹に広全寺という名の寺の山門が現れた。寺の名を刻んだ石塔があり、長い石段を上ると、本堂の前に出た。
 寺域は広く、山の斜面に墓地がつくられてあった。三浦家の墓所を訊ねると、大黒さんと思われる人が案内してくれた。
 三浦家の墓は「先祖代々の墓」と刻まれていて、下に「三浦」とあるので、それが三浦家の代々の墓であることが知れる。
 墓の側面には、本人の名前の他に、親兄弟の名が刻まれていて、そこでまた氏の作品世界(『恥の譜』など)が思い出されたのである。しばし、墓前に手を合わせてからそこを離れた。
 大黒さんの、「奥様がときおり墓参に参ります。綺麗な方ですよ」というひと言がいつまでも心に残った。氏の妻は
志乃の名で『忍ぶ川』や『初夜』に登場する人その人である。




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