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愛のカタチ 場所と人にまつわる物語  

愛の百態

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる

五稜郭興亡 ・・・・泡と消えた蝦夷政府の拠点ーその2ー

2021-12-17 10:32:47 | 場所の記憶
 2
 五稜郭の築造が始まった安政という年は、ペリーの再来日によって開国が決まり、幕府が日米和親条約の締結に踏み切った年である。同じ年、ロシア、英国とも和親条約が結ばれ、その結果、下田、長崎、箱館の開港が約束される。 このことで、幕府は、一層海防の強化に迫られることになる。特に幕府は蝦夷地の防備を重視、五稜郭の築造もそうした流れのなかで発意されたものであった。
 この五稜郭が完成する一年前の文久三年(1863)には、すでに海防の目的で、今の函館ドック辺りに弁天台場が造られ、国産の大砲を備えた砲台が出現している。この台場は安政三年(1856)に着工、七年を経て完成したものだ。
 一方、五稜郭の工事は安政四年の春にはじめられるが、元治元年(1864)には予算不足のため中断。計画の五分一段階での終了であった。未完成の理由は予算不足だったのである。
 そもそも、弁天台場と五稜郭の築造はセットで計画され、工事が行われたものだった。弁天台場に対して、五稜郭が奥の台場と呼ばれたのもそれを裏付けている。
 その弁天台場も五稜郭も設計、監督者は竹田斐三郎という人物であった。
 彼は伊予大洲の出身の洋式軍学者で、大坂にあった緒方洪庵の適塾に入門。その後、江戸に出て、佐久間象山の弟子になる。
 その彼が、ふとしたことで、当時箱館にあった箱館奉行支配の学問所・諸術調所の教授になった。そこで彼は蘭、英、露語をはじめ、航海術、測量術、築城術などを教えることになる。自由な気風にあふれた学問所にはたくさんの俊才が集まったという。
 生来、器用なところがあり、なんでもつくってしまうという異才を発揮していた竹田に、ある日、奉行所から特命が下った。それが溶鉱炉の建造であり、台場砲台、五稜郭の築造であった。
 実際、工事が始まってからの竹田の苦労は大変なものであったらしい。
 机上プランは、幾度か現場の状況によって変更を余儀なくされ、そのため予定外の出費がかさなることになった。
五稜郭の工事は日に六千人もの労役人を使役して行われたといわれている。広く全国各地から人夫の募集がなされたが、それだけでは追いつかず、付近の農民までが労働に駆り出されることになった。
 このため大量の人が五稜郭周辺に人が集まり、にわかの町ができて賑わったという。安政六年には、先の条約に従って、箱館が貿易港として開港したこともあって、さらに人口が急増した。 
 海防強化の目的の一環で造られた五稜郭が、後年、榎本武揚ら幕府脱走軍の立て籠もる砦になったのは皮肉なことである。 
 ところで、その榎本脱走軍は、どのような経緯で五稜郭に拠ったのだろうか。
 慶応四年(1868)八月、幕府海軍副総裁、榎本武揚率いる八隻の軍艦、輸送船が、江戸湾を脱出した。そこには新政府に不満な旧幕府の武士たちが乗り込んでいた。
 この艦隊のなかに、八年前の万延元年、勝海舟、福沢諭吉らが遣米使節団に随行した際に乗船した咸臨丸もまじっていた。咸臨丸はその後、銚子沖で座礁してしまい、箱館には行けなかったのだが。
 艦隊の船上にあったのは武士ばかりではなかった。町人や農民までもまじっていた。彼らはいまやフランス式歩兵大隊の兵士の一員であった。それに上野の戦争に敗れ、逃れてきた彰義隊士や土方歳三をはじめとする新撰組の残党もいた。  
 当時、その艦隊がいずこに向かうか誰も知らなかった。北へ進んだ艦隊は、仙台湾を通過したあと、北海道の南、噴火湾内森町付近の鷲ノ木沖にその姿を現した。
 そこは箱館のはるか北方に位置する場所である。直接、箱館に行かず、鷲ノ木に上陸したのは、外国船が出入りする箱館湾で一戦を交えた際の、周辺の被害を考えてのことだった、といわれている。
 すでに明治と改元された、同じ年の旧暦十月二十日(現在の十一月)のことである。 彼らは鷲ノ木に上陸するや、雪降るなかを、二手にわかれ、一隊は本道の森〜峠下の内陸コースを、他の一隊は森〜川汲の間道をたどって、一路、箱館郊外にある五稜郭を目指した。
 彼らは以前から、箱館に五稜郭という要塞があり、そこを根城にすることが、戦略上有利であることを知っていた。
そのことをいちばん知りぬいていたのは、総督の榎本本人であった。彼は、若かりし頃そこを訪ねたことがあった。わずかながら土地勘があった。
 五稜郭に入城するにあたって、そこは無人の地であったわけではなかった。すでに、新政府は、そこに知事府を置いていた。それを排除しての入城となった。 
 庁舎は平屋建ての入母屋造りで、屋根の中央に太鼓やぐらが載っていた。その太鼓やぐらからは、起床、点呼、食事、就寝を告げるラッパの音が響きわたった。庁舎の広間は会議室として使われ、そこでは連日軍議が開かれた。
 五稜郭に地歩を固めてからの旧幕榎本軍は、そこを根城にして、ある時は、江差、松前方面へ進撃。また、ある時は、海陸両方面から攻勢をかけるという巧みな作戦でしだいに軍事的勝利を収めていく。
 こうして、籠城というよりも、五稜郭を出陣基地として、彼らは周辺に勢力を拡大していった。
 そして、その年の十二月十五日、晴れて蝦夷全島平定祝賀会なるものが開かれる。これは事実上の、蝦夷政府の宣言であった。
 新政府が、彼ら旧幕脱走兵に追っ手を差し向けるには、多少の時間が必要だった。
 新政府が、幕府脱走軍追討の行動を開始したのは、翌年の明治二年三月。追討軍はアメリカから買い入れた新鋭軍艦「甲鉄」を先頭に箱館を目指した。
 政府軍艦隊はやがて青森に集結、そこから津軽海峡を越えて、渡島半島の西部、乙部に上陸する。四月九日のことだ。
 政府軍は上陸するや、ただちに内陸部に侵入した。そこは、さしもの脱走軍も防備を固めていない場所であった。
 官軍の艦隊は乙部に一部の軍勢を上陸させた後、その足で南下。江差を砲撃したあと、松前、木古内、矢不来と進み、じわじわと箱館に迫り、脱走軍を追い詰めていった。
 そして、五月十一日、ついに五稜郭総攻撃の火蓋が切って落とされる。
 政府軍はまず、軍艦による艦砲射撃を開始。その後、箱館山に三門の大砲を引き上げ、陸から砲撃を仕掛けた。
大砲の狙いは正確であった。地面に張りつくように造られた要塞ではあったが、庁舎の屋根に取り付けられた太鼓やぐらが目標になっていた。
 この攻撃により、弁天台砲台は陥落、五稜郭も甚大な被害をこうむった。前衛基地である千代ケ岱砦は、白兵戦のうえ多数の戦死者を出し崩れ去った。この間、新撰組の副長であった土方歳三(34歳)が、官軍に占拠された箱館市内を奪い返すために出撃し、一本木の関門付近で戦死している。同じ頃、箱館湾で敵を迎え撃つべく待機していた旧幕軍の生き残り艦隊の回天、蟠竜、千代田もことごとく官軍の手に落ちることになる。
 が、この戦闘のさなか、幾度か出された降伏勧告にもかかわらず、五稜郭側は抵抗しつづけた。
 次第に籠城軍は補給路を断たれ、戦闘力を失っていった。逃亡者もあとを断たなかった。そうしたなか、五月一七日、本営内では最後の軍議が開かれた。結論は、涙をのんで降伏するということだった。結果はすでに見えていたのである。
 その夜、官軍から差し入れられた酒樽が開かれ、苦い酒を口にしながら、士官、兵士たちは最後の夜を過ごした。   
明治二年五月十八日朝、郭内の広場に、改めて全員が集められた。榎本はそこで「五稜郭は降伏する」旨の宣言をした。
 榎本はその後、幹部三人を連れ、郭内を出た。正式に降伏の申し出をするためであった。官軍は彼らを丁重に扱い、そののちいずこかに連行していった。そして、あとに残された六百人近くの士官や兵士たちは、郭内を清掃し、武器を一カ所に集めてから、全員要塞を出た。彼らはその後、青森まで護送され、そこで全員が釈放された。
 ここに明治維新の動乱は終結をみたのである。それとともに、榎本が夢見たエゾ共和国の建設も潰え去るのである。  
 その後の五稜郭について語ろう。
 明治五年、榎本軍が本営として使っていた庁舎が取り壊される。これは廃城令に基づいての措置であった。そして、その一部は、解体された後、しばらく函館市の役所の建物として使われていたという。
 現在、郭内に残る当時のものとしては寒冷地に強いということで植えられた赤松の林と古井戸と糧秣庫がある。 糧秣庫は、明治の後年、兵舎として使われた後、無人の建物として残り、あたりは雑草が生い茂る、まさに廃墟の状態であったという。
 それらはいま、廃墟のなかから五稜郭公園としてよみがえり、緑が目に映える季節になると、市民の格好の憩いの場所になる。
 年移り、人替わり、五稜郭の過去の記憶が遠のくなかで、そこにわずかに残る歴史の痕跡をたどれば、ありし日のできごとが改めて彷彿としてくるのである。 完





五稜郭興亡 ・・・・泡と消えた蝦夷政府の拠点ーその1ー

2021-12-10 10:35:00 | 場所の記憶
1 
 幕末から明治維新のはざまに、榎本武揚をはじめとする旧幕臣が最後の抵抗の砦とした五稜郭。その五稜郭の写真を初めて目にしたのは、たしか高校の教科書の中であったような記憶がある。星形の妙に近代的な風貌を備えた要塞というのがその時の印象だった。 
 江戸時代の末期に築造されたとはいえ、あのように異風の要塞が造られていたことに、ある種の驚きと、不思議さを感じたものである。築造の目的と、なにゆえに函館という地に造られたのか、それが長い間、私の関心事であった。
 いつか訪れてみたいと、以前から心に描いていた五稜郭をある年の二月、ふいに訪ねることになった。雪が舞い散る、まさに冬のさなかである。
 函館に着いたその日は、前日来の雪で、町は白一色に包まれていた。さっそく、函館駅前から市電に乗り、凍りついたような町をぬけて五稜郭に向かう。
 五稜郭はすっかり雪のなかにあった。
 まずはその姿を俯瞰してみようと、隣接する五稜郭タワーに上ってみる。 
 ところが、案に相違して、上空から眺め見ようとした五稜郭は、舞い落ちる雪のため、すっかり霞んでしまい、その全貌を見通すことができなかった。目にしたものは、要塞の外郭をぐるりとかこむ凍てついた濠ばかりであった。 
 それにしても、かつては、荒野の真ん中に、突如生まれた要塞であったというが、いま上空から眺めるそれは、古代古墳のように町並みにぐるりと囲まれて片身がせまい。
 要塞の敷地内には幾つかの構築物が立っていたはずである。それらが消えてしまっているためと、城郭がすっぽり雪の中に埋まってしまっているので、要塞全体がじつに立体感を欠いた、変哲のないものに見える。まさに廃墟というにふさわしい眺めである。
 実際、五稜郭を見るまでは、もっと起伏のある場所にあるものと想像していた。城郭というものは、そうしたものだという先入観がつくりだした幻像であったかも知れないが。
 ところが、意外なことに、それはじつに平坦な地に横たわっているのであった。しかも、ずいぶんと内陸部に位置している。 海防の目的で構築された要塞にしては海からだいぶ離れているのである。
 五稜の位置については、当初、もっと内陸に築造すべき、という意見があった。五稜郭の設計者、竹田斐三郎は、海から放たれる大砲の飛距離から考えて、充分に安全な地ではないと終止反対したという。当時、すでに大砲の飛距離は四キロもあったのである。
 実際、函館戦争のおり、政府の最新鋭艦ストンウォール号から放たれた砲弾が、この五稜郭に着弾している。
 結局、反対意見があるにもかかわらず、現在の地に定められたのは、ここが要塞以外の役割、すなわち、公的機能をもつ拠点にするという役割をも持たせられたからだった。となれば、あまり辺鄙なところではなく、人の出入りが容易な、地形的にも平らなところである必要があった。
 五稜郭タワーをおり、地上から五稜郭を観察することにする。
 降り積もる雪の中を、半月堡に架かる橋を渡り、さらに大手門に通じる橋を通って郭内に足を踏み入れてみた。 
 雪をかぶった赤松が濠に沿う土塁伝いに気品ある風情で並んでいる。雪に埋もれた要塞跡は、まさに歴史が凍りついたように、ひっそりと息づいていた。
 郭内を歩きながら、五稜郭が五角形をしているのには、どんな意味があったのだろうかと、ふと考える。
 いわゆる将棋頭堡と呼ばれる、せり出した五つの堡塁のひとつの先端に立ってみる。視覚が左右にぐっと開ける。両隣の堡塁が雪交じりの灰色の空の下でもよく見通せる。
 なるほど、これであれば、ひとたび外部からの攻撃があっても、どこからでも対応できると合点する。そこには、大砲が備えられ、弾薬庫が置かれていたのである。 
 上空からはよく分からなかったが、要塞の周囲を取り巻くように高さ六メートルの土塁が組まれ、その土塁下の濠ふちにも盛り土されている。堅固な防壁がつくられていたことが分かる。計画ではさらに濠の外側にもぐるりと巡るように長斜堤が築かれる予定だったが、それはつくられなかった。
 未完成部分はほかにもある。南西側の凹部に現在も残る矢尻のように三角状に張り出す半月堡がある。大手門を潜る前に足を踏み入れることになる出城風のその堡塁は、計画では、五稜の凹部にそれぞれ五カ所造られるはずであったというが、これも一カ所にしかない。
 完成の暁には、陣地攻防に備えて、二重、三重にも手の込んだ工夫がなされるはずであった。が、結局、それは果たされることはなかったのである。     続く
 


おばさん

2021-12-03 11:40:16 | 場所の記憶
 
 およねは、一年前働き者の亭主を亡くした。無口だが頼りがいのある優しい男だった。二度流産して子供の産めない身体になっても、亭主の兼蔵はおよねを、羽根でかばうようにいたわるところがあった。間もなく四十になるおよねは一人ぽっちになった。
ある日、注文先に内職の仕上り物をを届けて帰ると、裏店の井戸端に倒れている人の影をみてゾッとした。男は、名を忠吉といい十九歳の桶職人だった。聞けば、仕事にありつくために、人を探しているという。空腹をごまかそうと、水を飲もうとして気を失ったと、顛末を話した。飯を出してやると見苦しいほどがつがつ食べたが、汚れた着物に似合わず、きっちり両膝を揃えて座り、言葉遣いも丁寧な、礼儀正しい好青年に見えた。聞けば、 今晩泊まるところが無いという。
 およねは気の毒に思い、仕事が見つかるまで忠吉を家に置いてやろうと思った。これまでは亭主に頼りきった生活をしていた自分が、誰かに頼られるということが気持ち良かった。亭主が死んで以来笑いを忘れていたおよねの顔に笑顔が蘇った。自分でも気づかない微かな笑いだった。
半月ほどたって、忠吉の仕事が見つかった。「当分おいてくれ」という忠吉のたのみを受け入れて、およねはまた忠吉と過ごすことになった。そのうち養子にとって、何処からか嫁をむかえてやろうとさえ夢想した。ある日、それを忠吉に告げると「少し考えさせてもらうよ」と答えるばかりだった。
 それからしばらくたって、夜中、およねは誰かに胸を押えられる感じがしで眼が覚めた。忠吉だった。「嫁なんかいらないよ、おばさんだけいればいいよ」と胸に顏を入れてきた。
 およねは、必死に抗った。だが男の力にかなわなかった。寝間着の紐がすべて抜き取られて、およねは力を抜いた。
およねの肌が見違えるように艶やかになった。当然、裏店の女房達の噂になった。だがおよねは幸せだった、それでいいと思っていた。
ところがある日、この裏店に若い女が現れた。尻軽女で知られる十九歳の大工の娘だった。その娘と忠吉が、暗がりの井戸端でこそこそと話をしているところをおよねは目撃した。時を同じくして忠吉のおよねに対する態度がぞんざいになった。そして、ついに喧嘩になって、忠吉は家を出て行った。およねはまた以前のような年老いた女になってしまっていた。 「時雨みち」より

・およねは、死んだ亭主が下駄職人だったので、鎌倉河岸にある履物屋羽生屋から下駄、草履の緒を作る内職をもらい、細ぼそと暮らしている。

・およねが三島町の裏店の近くまで来たのは、六ツ半(午後7時)ころだった。

・鍋町の通りを横切って、家に近くなると、およねは足どりをゆるめて、のろのろと歩いた。・・およんねは今度正月を迎えると四十になる。

・数日前に、深川の瓢箪堀のあたりで火事があったことは、およねも耳にしている。三間町から元町の一帯にかけて、30軒ほどの家が焼ける大火事であった。

小説の舞台:深川 地図:国会図書館デジタルコレクション江戸切絵図「日本橋内神田両国浜町」 タイトル写真:万世橋


時雨のあと

2021-11-26 10:54:45 | 場所の記憶
みゆきには錺職人の安蔵というひとりの兄がいる。今は修業の身である兄は、いずれ独り立ちして、抱え女郎をいている妹を請け出そうと頑張っているのだ、と妹のみゆきは思いこんでいる。そんな兄がある日、みゆきの前に現れて、仕事のことで金が必要だ、ついては三両ほど用立ててもらえないか、と懇願した。みゆきはそんな兄のためなら、とあちこちから金を工面して兄に渡した。
実はその金は、賭場通いにのめりこんで、かさんだ借金を返すための金だった。借金が嵩むたびに、口実をつくって妹から金を巻き上げる兄に成り下がっていたのである。安蔵は仕事もせずに賭け事依存症なっていたのである。妹を早く身請けしようと思う焦りから、賭場通いしたのだが、途中から賭け事が面白くなって、のめりこんだのだった。
その安蔵が、自分の堕落した生活からきっぱり足を洗おうと決意する時が訪れたのである。風邪で寝込んだ妹を見舞った時のことだった。ふいに脳裏に幼い頃の兄思いの妹のことが思い出されたのである。「屋根を叩いていた時雨は、遠く去ったらしく、夜の静けさが家のまわりを取り巻いている気配がした」 「時雨のあと」より

・両国橋を渡って、安蔵は人気のない暗い広場を横切り、本町の家並みに入りかけたが、ふと足を駒止橋の方に向けた。橋を超えた藤代橋のあたりに、赤提灯を見つけたのである。

・安蔵は回向院南の相生町にある裏店に住んでいる。

・みゆきから金を引き出す口実を、必死に考え始めたのは、小名木川を渡ってからである。小名木川の川面に光る星屑の光をみながら安蔵は仕置場にI引かれてゆく罪人のようにしおれた。

・そこは両国橋の上で、川下の遥かに海と接するあたりの空が、一筋帯のように朱色に赤らみ、黒い雲が斜めにその空から垂れ下がっているのが見えた。雨は川上からやってきていた。大川橋のあたりが白く煙っている。

小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション江戸切絵図「本所深川」 タイトル写真:両国橋(渓斎英泉)

冬の足音

2021-11-20 19:30:09 | 場所の記憶

お市は二十歳。そろそろ縁談話が持ち込まれる年頃である。現に叔母が嫁入り話を持ち込むことがしばしばあった。が、お市にはある思いがあった。数年前、父親の元で修業していた時次郎という男が忘れられなかった。そのため、持ち込まれた縁談話には気乗りしなかった。なぜ、時次郎は父の元を去ったのか。母親にそのことを尋ねると、悪い女に引っかかって、家の金を盗んだうえ蓄電したのだという。それを聞いてお市は思った。時次郎は悪い女にまつわりつかれて、逃れようもない場所に追い詰められていったのだと。
ある日、叔母が持ってきた話にお市は少し心を動かされた。が、その返事をする前に確かめたいことがあった。
時次郎に会って、彼の気持ちをたしかめたく思った。お市は、こんこんと身体の奥から噴き上がるものに衝き動かされていた。
久しぶりに時次郎に会うと、懐かしさがこみ上げてきた。思わず彼の胸のなかに飛び込んでいた。そして、「あのひとと別れて」と今の自分の気持ちを吐き出した。が、意外なことに、時次郎はそれはできないと泣いていた。聞けば、すでに子供が二人いるという。それを聞いて、お市はとんだ思い違いをしていたことを知った。「遠い空に血のような色に染まった雲が浮かんでいた。雲も、その雲を浮かべている暮れ色の空も冬を告げていた。風もないのに四方から寒気が押し寄せ、心の中までひびく冬の足音をお市は聞いた」   「夜の橋」より

・お市の家がある蔵前の森田町からここまで、何ほどの距離でもない。

・表通りの千住街道に出て、諏訪町の方に歩きながら、お市はそう思った。すぐにも黒江町の松ちゃんという家を訪ねたがったが、深川は遠く、町はたそがれ色に包まれていた。

・深川は橋が多い町である。お市はひとつの橋の上に立ちどまると、欄干に寄って、髪から抜き取った簪を、暗い川に投げこんだ。

小説の舞台:浅草 深川  地図:国会図書館デジタルコレクション江戸切絵図「深川」、「浅草」 タイトル写真:蔵前御蔵、首尾の松碑


  

裏切り

2021-11-15 19:10:12 | 場所の記憶
 
男女の心理の襞をさりげなく見事に描いている。
「人間てえやつは、思うようにいかねえもんだな」と幸吉は思った。幸吉はおつやという女と裏店に所帯を持っていたが、ある日、家に戻ると、女房の姿が消えていた。
数日後、殺されている女房を発見する。女房が自分の知らない世界に突然消えていってしまったと思った。それは深く朧な世界だった。おつやと過ごした、幸せな日々が終わった実感がどっと胸に流れこんできた。
後日、おつやには男がいて、その男に殺されたのだ、という噂が幸吉の耳に入ってきた。その男とはどんな男か、幸吉は突き止めたく思った。女房はその男に騙されて、こんなことになったのだ、と。その男の正体をつかみたい、幸吉はそう思い、あちこち探索した。するとひとりの男の姿が浮かび上がった。それは家にしばしば出入りしていた知り合いの長次郎という男だった。長次郎を疑うとすべてが合点できた。「ぎりぎりと歯を噛み締めながら、幸吉は夜の町を走った」長次郎の家に行き、事の顛末を聞きだすと、おつやの方が長次郎を好いていたということを知った。「そういうことだったのだ」と幸吉は思った。男と女って、いろいろなことがある、ということを今深く知ることになった。
「夜の橋」より 

・奥川町まで来て、そこから対岸の松村町にわたる橋の上に立つと、幸吉は茫然として橋の下を流れる暗い掘割を見おろした。

・二人は馬道通りを八幡宮の前を通りすぎ、三十三間堂の横に入って行った。

小説の舞台:深川 地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:黒江町モニュメント


夜の橋

2021-11-08 16:00:55 | 場所の記憶
  市井の片隅に住む男女の情を描いて妙。
 民次にはおきくという別れた女房がいる。ある日、そのおきくが民次の住まう裏店を訪ねてきたと、隣家のおかみが伝える。おきくは何か話があるらしい。数日して、民次はおきくが働いている飯屋を訪ねてみた。そこで民次は、おきくが嫁に行くという話を打ち明けられる。相手は表店の番頭だという。元の女房のおきくが、わざわざそんな話をするのは民次に未練があるからだった。
 ひと月ほどして、民次は、よく出入りする賭場で、おき くが付き合っているという男を目撃した。番頭にしてはやくざくもの顔をしていた。噂によればその賭場の常連であるという。民次はおきくにはふさわしくない男だと思えた。すぐにおきくにそのことを伝えた。さらに相手の男に直接会って、おきくから手を引くよう説得することにした。
 が、男は突然、凶暴化して民次に襲いかかってきた。格闘のすえ、男を打ちのめした。後日、男がおきくから手を引いたことを聞く。また前のよ うな平穏な日がもどっていた。出入りしていた賭場の胴元から頼まれた仕事も断って、民次はいままたおきくと縒りを戻したいと思っていた。

・民次は横綱町の裏店に戻ると、薄暗い井戸端から立ち上がった人影に、名前を呼ばれた。呼んだのは、隣の女房のおたきだった。

・二ノ橋を渡って、川ベリを少し西に歩いた松井町の裏店に、飯も喰わせ、酒も出す扇屋という店がある。

・店が閉まる前に、民次は外に出て、おきくを待った。あまり待たせないでおきくは出てきて、二人は町を抜けて五間堀にかかる山城橋に出た。橋には人の香が匂う。

・常盤町の角に、辻番所の高張提灯の灯がみえるばかりで、あたりは闇だった。それでも堀に映える星の光が水に揺れ、生き物のように蹲って動かない橋がみえた。

・左に俎板橋を渡れば、松井町の一丁目から弁天社の横を通り、石置場に突きあたって一ノ橋に出る。右に行けばニノ橋である。

・高橋を渡った三人連れの男は、森下町にくると、短い声をかけ合って二人が横丁にそれ、五間堀にかかる弥勒橋を渡るときに、謙吉一人になっていた。

小説の舞台;深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:小名木川にかかる高椅




約束

2021-11-05 11:14:13 | 場所の記憶

やもお(寡男)である熊平は一男二女の子持ちである。妻が亡くなってからというもの大酒飲みのぐうたらな父親になった。三人の子供を抱える大変さに押しつぶされたのである。長女のおきちはまだ十歳だったが、二人の下の兄弟の母親がわりになって家事にあたっていた。ある日のことだった。父が呑んだくれて行き倒れになり、それが原因で数日後、息をひきとるという災難にあった。ところが、災難はそれで終わらなかった。こんどは父親があちこちに借りまくっていた借金がかさんでいることが判明、取立てが押し寄せた。周囲の人間がいろいろ手助けをしようとするが、おきちはきっぱりと言い放つ。「親の借金は子の借金ですから」と。尋常の働きでは返せない借金を帰すために、おきちは岡場所で働くことを決断する。そしてその日。「女衒の安蔵が来て、手に風呂敷包みを持つおきちが家を出て行くのを、人々が見送った。みなさん、おせわさまでした。おきちが一人前の大人のように言った。だが、言い終わると同時におきちは手で顔を覆って激しく泣き出した。・・やっと十の子供にもどったおきちを見たように思いながら、みんなは安心して泣き、口ぐちに元気でねと言った」  「本所しぐれ町物語」より

・裏店は静まり返って、どの家も、軒も黒々と寝静まっていた。おきちは木戸をあけて裏店を抜け出すと、表通りに出た。そして一丁目の方に向かって歩き出した。思ったとおり空は曇っていたが、どこかに月がのぼっているらしく町はぼんやりと明るかった

・表通りに出ると、遠く林町に近いあたりに、一丁目の自身番の灯がぽつりと見えるほかは、灯影と言うものがない町が、ふたたび恐怖をはこんで来たが、おきちはこらえて町家の軒下に眼をくばりながら、出来るだけゆっくりと歩いて行った。

小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:弥勒寺

2021-10-30 19:40:30 | 場所の記憶
油商・佐野屋の主人、政右衛門は女房おたかとこの頃、諍いが多くなったな、と感じる。いわるゆる倦怠期を迎えている夫婦だった。そんななか、政右衛門はふと初恋の女のことを思い出していた。その女に会えば、今とは違う人生が切り開かれるのではないか、と夢想した。初恋のその人の知り合いでもある、行きつけの居酒屋の女将を介して、ある日、二十年ぶりに再会することができた。ところが、会って昔話に浸ろうと思っていたことが、大変な間違いであることを知る。相手の女は自分には少しも興味をもたない、ただの中年の女になっていた。
「結局は、おたかと喧嘩しながら、このまま行くしかないということだ、と少し酔った足を踏みしめながら政右衛門は思った。ほかならない、それがおれの人生なのだ。そう思うとやりきれない気もしたが、どこかに気ごころの知れたほっとした思いがあるのも歪めなかった」「本所しぐれ町物語」より

小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図深川」 タイトル写真:竪川河川敷公園

・駕籠を呼んでもらっておふさを見送ると、政右衛門は料理茶屋「末広」を出て、竪川の河岸の道にまわった。空に月があって、時おり雲の間から水のような光を地上に投げかけるので歩くのは不自由しなかったが、道はやはり暗かった。暗い町を虫の声がつつんでいた。

鼬(いたち)の道 

2021-10-22 21:02:57 | 場所の記憶
 八年前に蓄電し、その後行方しれずの弟、半次がふい新蔵を訪ねて来た。その姿は見るからにうらぶれたなりをしていた。その日から弟は兄の家に居候することになる。仕事を探すでもなく、ごろごろ酒浸りの日々を過ごしていた。
 新蔵が弟にこれまでのことを尋ねると、妻帯することもなく、仕事も何をやっていたのか判然としなかった。弟を何とかしてやりたい気持ちと、今の自分の生活を守りたいという気持ちが交差するなか、ある日、弟が数人の男たち に追われているのを目撃する。数日後、新蔵の店を訪ねてきた弟が、江戸を去って、また上方に帰ると告げる。
「これでもう二度と会うことはないのだな、と思った。兄弟といってもこの程度のものなのかと思ったとき、新蔵は急に気持ちが際限なく沈んで行くのを感じた。おれにはおれの守らなければならない手一杯の暮らしがある」  
  「本所しぐれ町物語」より

小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」 タイトル写真:深川神明宮

・両国橋をわたって河岸通りに出ると、新蔵はいつも自分の町にもどったという気がして、気持までゆるんで来るのを感じる。新蔵は、自分の住む本所や、境を接する深川の町々ほどいい土地はないと思っていた。小名木川の南ほどではないが、竪川とか六間堀、五間堀といった川から、時どきふっと水が匂ってくる。そういう土地柄が好きだった。
・何か気持にひっかかるものがあるような気がしたのは、石置場の前を通りすぎて御船蔵にさしかかったときだった。




黒い縄

2021-10-19 15:07:31 | 場所の記憶

おしのはさる商家に嫁いだが姑との折り合いが悪く出戻りした女である。ある日、幼馴染の宗次郎に出会う。が、彼は人殺しの犯人として追われる身であった。お互い好き同士であった二人は、再会することで熱い関係になる。二人の逢瀬が繰り返されるなか、宗次郎を追う元岡っ引きの地兵衛という男の影がつきまとう。そして、ついに宗次郎と地兵衛の対決の日が来る。
「おしのはゆっくりと橋まで歩いた。四囲は少しずつ明るみを加え続けていたが、霧はむしろ白さを増し、地上を厚く塗り潰している。橋の中ほどに地兵衛の骸が横わっていたが、おしのはそれを見なかった。眼を瞠って霧の奥を見つめた。だが、新たな涙が滴る視野には、拡がる白い闇のような霧が、限りなく溢れるばかりだった」
地兵衛を倒した宗次郎はひとり去って行く。
「霧の橋の上を影のように男の姿が動き、やがて、それは白い霧に溶け込んだようみ見えなくなった」 
「暗殺の年輪」より


小説の舞台:深川  地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」ー深川


・日射しは、道に沿って走る十間川の水の上にも向う岸の吉永町の材木置場、その上に黒く頭を突き出している人家の屋根にも、降りそそぐように光っている。
・島崎長の角を曲り、亥の堀の川沿いの道をいそぐと、小名木川に架かる新高橋に出る。橋を下りたところが行徳街道だった。街道を左に、阿部内藤正下屋敷のくねった堀を曲ると、地兵衛の店がある深川元町まで、真直ぐの道だった。
・風もないのに、竪川の岸には絶え間なく囁くような水の音がした。眼がおぼろな闇に慣れ、暗い水路に、星の光が砕けるのが見えた。糸のやうな月は、ここからは見えない。右岸に、遠く赤い灯のいろがちらつくのは、菊川町の屋並みの間から、辻番所の高張提灯が覗くのだろう。
・深川元町裏の五間堀の岸に潜んでいた宗十郎に、戻ってきたおしまが無造作に言ったのだった。
・霧は道の上を這い、十間川の水面を埋め、三間ほど先はものの影が瞭らかでなかった。富島橋は途中で霧に呑まれ、弥そうの小屋はみえなかった。
・島崎町続きの角を曲り、玄の堀川に沿って、二人は道を急いだ。いつの間にか、宗次郎がおしのの手をひいている。川の向う岸の末広町、石島町のあたりは、ぼんやりと薄墨色に黔ずんでいるばかりだったが、岸に近い水面が鋼のように蒼黒い光を沈めているのがみえた。
・宗次郎は深川元町裏の五間堀の岸に潜んでいた。

歳月

2021-10-15 10:49:43 | 場所の記憶
 異母姉妹の妹が結婚するという相手は、姉のおつえがかつて付き合っていた男だった。自身は今、材木問屋上総屋の妻女である。が、この商家も時とともに傾きかけていた。ある日、所帯をもった妹の家を訪ね、かつての相手に会う。懐かしさがこみあげるが、すでに長い歳月が流れている。家に帰ると、夫が呑んだくれていた。その姿をみておつえは哀れになった。と同時に、これまで気づかなかった夫婦の情愛のようなものが胸にあふれてきた。「病気の姑のほかは女中一人しかいなくなった家の中は暗く、ひっそりとしている。暗く長い廊下を歩きながら、おつえは夫に何かやさしい言葉をかけてやりたい気持ちになっている。 『霜の朝」より

小説の舞台:深川   地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」ー深川絵図   タイトル写真:江戸深川資料館

・佐賀町にある船宿橋本は、屋根船二艘。猪牙船五艘、船頭二十人を抱える家で、おつえはこの家で生まれた。
・橋本は油堀に架かる下ノ橋きわにある。
・秋の日射しが斜めに川の水を染めていた。橋本のあるあたりから下佐賀町の白壁の蔵がならぶあたりまで、河岸の家々は赤くやわらかい光に包まれ、霊岸島から中洲にのびる西河岸の家々は黒ずんだ影を川に落としている。
・おつえは橋を渡り、下佐賀町の町通りを抜けて永代橋まで行った。
・小名木川に架かる高橋にのぼると、四方に平べったくひろがる町が見えた。西空にかすかに朱のいろが残っているだけで、町も大川の水も青黒く暮れいろに包まれようとしている。
・小名木川に架かる高橋にのぼると、四方に平べったくひろがっている町が見えた。西空にかすかに朱の色が残っているだけで、町も大川の水も青黒く暮れいろに包まれようとしていた。家々の窓に、ぽつりと灯がともりはじめている。四月半ばの一日は、暮れてもまだあたたかかった。



虹の空

2021-10-11 16:18:16 | 場所の記憶
 政吉は近々所帯を持とうとしている。相手はおかよ、という。が、ひとつだけ、継母がいるということを隠していた。その行方知らずの継母が気になっていた。できれば、見つけ出して、一緒に住んでみたいと思っている。幼い頃の出来事を思い出すうちに、政吉は継母が実の母であるように思えてならなかった。同居のことをおかよに打ち明けると、案の定、反対し、喧嘩になった。嫁と取るか、母を取るか、政吉は逡巡するが、やはり母を捨て切れなかった。ある日、母のいる家が火事になった。政吉は現場に駆け込んだ。「まだ煙に包まれている焼けあとの道をおかよが歩いて来るところだった。政吉が見ていると、やがておかよが地面に跪いて、おすが(母)を背負った。おかよは小太りだが、背はあまり高くない。小さく小太りの女が、小さく痩せている女を背負って、よたよたと歩いて来る。「済まなかったな」「何言ってんのさ」「あんたのおっかさんはあたしにもおっかさんじゃないか」  「霜の朝」より


小説の舞台:深川  国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」ー本所ー  タイトル写真:二の橋(二ツ目橋)

・息が切れて竪川のそばに出たところで政吉は足をゆるめた。川べりの道に、やがて人が多くなった。家事見物からもど
るひとらしかった。政吉は気をせかされて、また走りだした。二ツ目橋をふみ鳴らしながら渡った。遠くの町を這う雲が見えて来たのは林町側の河岸地に走り込んでしばらく行ったところである。



おとくの神

2021-10-06 10:35:35 | 場所の記憶
 裏店に住む仙吉、おとく、という夫婦がいる。仙吉はひと
つの仕事に長く居つかず、しばしば職を変える性格の男だ
った。代わりに、女房が汗水たらして働く毎日である。夫
は暮らしの頼りにならない、いわゆる紐のような存在だっ 
た。仙吉はがて、男勝りの女房にも飽きが来て浮気をする。
ある日、啖呵を切って家を出て行こうとする。すると、女
房のおとくが言う。「あんたが出て行くことはないよ。こ
こはあんたの家なんだから、あたしが出て行くよ」女房の
出て行ったあとの心の空虚に耐えきれず、仙吉はおとくの
後を追う。「大またに歩いて行くおとくのあとから、仙吉
は呼びかけながら、よたとたと走ってついて行った」
「霜の朝」より

物語の舞台:裏店(場所不特定)、上野山内、根津  写真:不忍池

・仙吉は根津にいた。お七という女髪結いの家である。仙吉が以前働いていた経師屋で女中をしていた女で仙吉が仲間に誘われて来た根津の切見世の中で、ばったり顔を合わせたのである。
・おとくが働いているのは、上野山内の普請場である。去年の秋に、はげしい雨風が一昼夜も江戸の町を包んで荒れ狂ったとき、上野の山の崖が、石垣もろとも一町もの幅で崩れ落ち、その上にある御堂がかたむいてしまった。
・仙吉は尻をからげて走った。おとくのうしろ姿を見つけたのは蔵前通りに出てからだった。おとくはすたすたと鳥越橋の方に歩いて行く。


入墨

2021-10-04 13:03:28 | 場所の記憶
 
細々と居酒屋を営む姉妹には、遠い昔、自分たちを捨てて行った父親がいた。その父親が、近頃は店の前にうろついている。姉はその父を疎み、妹は親近感を抱く。ある日、店の常連で、ならず者が妹を拐かし、あまつさえ、恐喝に及ぼうとする。その時、父が渾身の力を振り絞って兇漢を倒す。「雁の声がした。空は曇ったままらしく、夜の町にぶ厚くかぶさっている雲の気配があった。雁の姿は見えなかった」危害を加えられそうになった二人の娘を救った父の後ろ姿を見送ったあとの情景である。
『闇の梯子」より

物語の舞台:本所 要:「江戸切絵図」(本所)ー国立国会図書館デジタル参照 写真:百本杙の碑
・割下水沿いに歩いていた。町は長岡町に変わり、三笠町二丁目から一丁目を過ぎて、そこから先は武家屋敷の堀
 つづきになった。・・・辻番所の前を二度通った。突き当たりに本所御竹蔵の広大な塀が黒々と浮かび上がった。
・御竹蔵の前を突き当たると左に折れ、道は割下水を渡って、左は武家屋敷、右は御竹蔵にはさまれて、真直角に伸びている。さらに亀沢町の角で、二人の男に会った。ついに、卯助は本所相生町四丁目と五丁目の間を抜け、竪川にかかる二の橋を渡った。卯助の足をとめた場所は,五間堀を渡って、長桂寺と隣り合う深川北森町の一角だった。そこに貧しげな裏店があった。裏店は長桂寺の森閑とした黒塀に寄り添うように、低い軒を聚めていた。ここにいたるまで卯助は二ノ橋を渡ってから松井町と林町の間を抜け、さらに常磐町から大名屋敷都」弥勒寺の間を通り抜けてきている。