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日本でマトモな議論が出来なく、誹謗中傷が多いのは?

2022年09月18日 07時07分30秒 | 経済
日本人は総じて議論が下手である。違った意見をぶつけ合う事を余り経験しておらず、議論を避ける傾向にある。例えば、職場での会議等で議論または意見を出し合っている時、自分の上司の意見と自分の意見が違っている場合、多くの人は口を閉ざしてしまう。また議論が下手なだけでなく、違った意見を持つ相手の意見を聞く姿勢も出来ておらず、職場の上司または上長に当たる人達は、周りの意見を聞き出す事も殆どしない。本来、議論をする事で様々な意見を出し合い、合意点またはより良い策を見つけるのだが、議論をしないので合意点ではなく、上長や声の大きい人の意見が通ってしまう。

また職場以外の友達や知り合いレベルでの会話では、それなりの礼節をわきまえて、自分の本心を伝えたり、深い議論をする事は少ないが、目の前に居ない人や同じ組織に属していなく利害関係の全く無い人に対して、またネット上では、思った事を伝えるだけでなく、誹謗中傷合戦を行っている。このギャップは何なのだろうか?

例えば安部政権下で発生した話題で、俗に云う”モリカケ問題”がある。これは火の無い所に煙を立たせた話題なのだが、問題だと言い張っている人達は手を変え品を変えて、抗議や誹謗中傷を繰り返す一方、政権側は煮え切らない答弁を繰り返しているとは云え、正しく正確な答弁も行っている。しかし、マスメディアはその正しい答弁を国民には知らせない。
また同じく安部政権下で当時の安部首相が応援演説をしている時に、とあるグループの人達が”安部辞めろ”コールを繰り返したと聞く。これはれっきとした選挙妨害なのだが、この対応でも毅然とした態度を政権側は取っていない。

そして最近は安部元首相の国葬儀についても、野党やマスゴミは様々な非難を繰り返しているが、これも国葬儀を実施するための十二分な理由があるにも関わらず、これについても政権側は煮え切らない説明を繰り返し、反対派は非難を繰り返している。そして当然、マスメディアはは正しい情報を国民に伝えようとはしない。実際、閉会中審査での政府側の説明は、官僚が書いた文章を読んでいるだけで、自分の言葉では説明していなかった。その後、公明党の質問者がそれを補う説明をしていたが、それを報道したマスメディアは存在しただろうか?
何故、この様な幼稚な事が繰り返されるのであろうか?マスメディアは権力を持っている側を非難する事が仕事と思っているらしく、正しい情報を伝える事を放棄しているとしか思えない。

この原因だが、大人になるまでの教育において、議論をする事を教わらなかった事が最も大きな原因であるだろうが、もう一つの重要な要因といして、我々日本人の幼児期の家庭内での教育に問題があると考える。幼児期の教育と云うよりは、子供の我儘への接し方に問題があると考えている。

具体的な例として、日本のスーパーやデパート、またはショッピングセンター等で、時々子供が愚図っている状況を見る事がある。玩具やお菓子を買って欲しいのであろうが、子供はその目的を果たすために、時には大声で泣き叫び、愚図っている。そして多くの親は根負けして、子供が求めているモノを買ってあげ、その場をしのいでいる。これが日本における典型的な買い物風景である。一方、アメリカなどの欧米諸国ではこの様な状態を見る事は殆どない。
欧米では子供がショッピングセンター等で自分が欲しい物を得るために愚図り始めても、それを無視する。そして無視を続ける事で、その子供は愚図っても効果がない事を学び、愚図らなくなってくる。しかし日本では子供に物を買い与えてしまっている。その結果、我儘な子供が育ってしまう。そして我儘に対して対処できない大人が存在し続ける。

日本人は一般的には我儘ではなく、我慢強い人間だと云われている。それはその個人が属する身内以外の組織の中においてそうであり、その理由は社会全般や学校教育などで教えられているから、我慢強いのだと考える。また、我儘にも色々種類が有り、物を欲する欲望や、何か行動する欲望など様々あるが、幼少期の物欲を安易に満たした子育てには問題があると考える。逆に行動に対する欲望は、出来るだけ満たした方が良い様だ。

子供が玩具やお菓子を買って欲しいために愚図る事で成功した子供は、親はもう自分の言いなりに出来、そして危害を加える事がない人間だと学習している。そのため、相手が自分に危害を加える可能性が低いまたはない状況下では、極端に我儘にふるまってしまうのではないだろうか。親が自分に対して危害を及ぼさないと同様に、政治家は自分に反論してこないし物理的な反撃もしてこない。そしてネット状でのSNS等も同様に、物理的な反撃はしてこない。但し、エゴサーチをする人に取っては十分な反撃にはなるだろうが...。
そしてその様な子育てをした親(大人)も毅然とした態度を取る訓練をしてこなかった人である。なので、論理的に間違った事を言い続けたり誹謗中傷を繰り返す人や、偏向報道を繰り返すマスメディアに対して毅然とした態度を取れず、その結果誹謗中傷を繰り返す人達に、油を注ぐ様な結果を繰り返している。

自分自身の記憶では、欲しい物を買ってもらうために愚図った事は一度もない。子供の時は、外で遊ぶ事が一般的なので、ゲームや玩具は殆ど必要無かった。昔からの遊びであったコマやメンコは別として、唯一の例外として、当時流行っていたボーリングゲームだけはおねだりして買ってもらった記憶があるが、買ってもらうために愚図ったりはしていなかった思う。一つ問題があるとすれば、自分は末っ子で放任状態だったために、どうも別の意味で我儘には育てられていた様で、その我儘さは今も少しは残っている様である。そう云った意味で、幼児期または子供の時期の教育が、大変大事である事を今更ながら実感している。

単なる我儘に育てられた人間と、その延長線上にある物を買ってもらうために泣け叫ぶ人間とは一体何が違うのだろうか?それは物欲と物欲以外との違いでは無いだろうか?人間の物欲はある程度制限する必要があり、その教育を幼児期または子供の時に教える必要がある。しかし、物欲以外の欲望に関しては、モノによっては必要な場合もある。例えば、子供の時にあるゲームや玩具で遊ぶ事を、親が途中で止めさせるのではなく、納得するまでさせる。良い例では、野球のイチローの親は、イチローがバッティングセンターでやりたいだけバッティング練習をさせたと云う。また遊びに夢中になり、夜が更けるまで遊び続けるのも、ある意味我儘ではあるが、熱中または集中できる性格を持っている証拠でもあり、大変良い事である。それから鉄棒で逆上がりが出来ない子供が出来るまでやり続ける様な子供も、将来有望である。多分、物欲と子供自身な何か行動したい欲望とは、違うモノなのだろう。自分自身、行動や発言に若干自由奔放的な面があるが、物欲は殆ど余りない。

若干余談だが、物欲を極端に抑えられて育った子供は、大人になってその反動が出る場合もある様だ。その典型的な例として、芸能界では子供の頃は貧困で苦しい生活を送ってきたが、芸能界で成功したら、金襴緞子的な趣味の悪い屋敷に住んでいる人が沢山いる。また、一代で大企業を作った経営者の中で、子供時代に厳しい生活を送っていた人も少なからず居る。その中には、成功後に贅沢な生活を送っている人も少なくない。その点、先日亡くなった京セラ創業者は、贅沢をせずに質素な生活を送っていたと聞く。やはり社会から尊敬される経営者ともなると、この点でも全く違う様だ。

話はかなり脱線したが、仮説として幼少期または子供時代での親の躾が良くなく、玩具やお菓子をねだって大声を出して愚図っていた子供が、大人になっても幼稚な非難や誹謗中傷を繰り返しているのでは無いかと考えている。そしてそれを許していた大人も、幼稚な非難や誹謗中傷に対して毅然とした態度を取れないのではないだろうか。そして残念な事に、この様な幼少期を経験した人間と、毅然とした態度を取れない大人が余りにも日本には多い。
この問題は、何とかして改善したいモノだ。
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