私がとっている新聞は『朝日』だが、最近は橋下氏と彼が率いる「大阪維新の会」に何か媚びるような記事が散見されて疑問に思っていたのだが、4月に入って続けて4本、彼のあり方を批判する読者の声が掲載された。一番新しいのは作家の赤川次郎氏のものだ。赤川氏は「三毛猫ホームズ」シリーズなどで知られた作家で、リベラル思想の持ち主とされているそうだ。
氏の投稿は「大阪の橋下徹市長は大阪府立和泉高校の管理職をなぜ処分しないのだろう?」で始まっている。教師の口元をチェックしながら、姿勢正しく心をこめて「君が代」を歌えたはずがないと言うのだ。そして「生徒のためのものでlあるはずの卒業式で、管理職が教師の口元を監視する。何と醜悪な光景だろう!」と言っている。大阪市長の橋下氏には府立高校の校長を処分する権限はないが、それにしても市長は「 口元を見るのは当たり前で素晴らしいマネジメント」と校長を称賛しているのだ。私は、橋下氏が民間から登用したこの若い校長は、権力に媚びる卑小な人物だと嫌悪を感じる。
赤川氏はオペラや演劇鑑賞を行ない論評するなど、芸術評論も物するそうだ。そのためか、このようにも言っている。
「府知事時代、橋下氏は初めて文楽を見て、こんなもの二度と見たくないと言い放ち、補助金を削減した。曰く「落語は補助金なしでやっている」。舞台に座布団一枚あればいい落語と、装置を組み、大勢の熟練の技を必要とする文楽を一緒く他にする非常識。客の数だけを比べるのはベートーベンとAKBを同列にするのと同じだ。文楽は大阪が世界に誇る日本の文化である。自分の価値観を押し付けるのは『力強い指導力』などとは全く別物である。」
これを読んで、日ごろ橋下氏を批判している私は、改めて彼がいかに独善的で薄っぺらな人物であるかを再認識した。確かに大阪市の財政は苦しい。無駄なものは整理していくことは必要だ。しかし彼は自分が理解しないか、興味のない文化的なもには無関心なのではないか。彼が指揮するプロェクトチームが取りまとめた「市政改革プラン(案)」では、文楽や、伝統と実績のある大阪フィルハーモニー交響楽団などへの補助金を削減することにしている。
赤川氏は投稿の最後にこう言っている。
「過去に学ぶ謙虚さを持ち合わせない人間に未来を託するのは、地図もガイドもなく初めての山に登るのと同じ。一つ違うのは、遭難するとき、他のすべての人々をみちづれにするということである。」
大阪人は一時の熱狂だけでなく、心底橋下氏に未来を託そうとしているのか。大阪人以外でも彼に「何かやってくれるのでないか」と「期待」している国民も同じだ。その期待の行きつく先はあまりにも危うい。将来に悔いを残さないためにも、彼の言動を冷静に見るべきだと思う。大阪が彼の言いなりになるのはあえて言うなら知ったことではないが、橋下氏や彼が率いる「大阪維新の会」が国政を窺うということを聞くと、落ち着いた気持ちではおられない。
(朝の散歩から)
ボケ(木瓜)。中国原産のバラ科の植物。