先月のことだが、水戸市の千波湖で2羽の白鳥と5羽の黒鳥の死骸が見つかった。撲殺されたようで首の骨などが折れていた。その後の警察の調べで市内の中学3年生と2年生の男子の仕業ということが判明した。面白半分に棒で殴り殺したようだ。ゲーム感覚でやったと言ったとも伝えられている。
家庭環境もあるのだろうが、この生徒達にはその年齢になるまで、命の大切さを教えられることが乏しく、それゆえに鳥達にも命があるという考えが希薄で、命あるものへの慈しみや畏敬の心が欠けていたのだろう。この子達に限らず、近頃の若い人達には死ということは、生きていることの間に大きく深い境界があり、それを越えることは非常に大変な不可逆的なことなのだということが、どうもはっきりと認識されていないようにも思う。それはテレビ番組やテレビゲーム、あるいは最近とくに流行している心霊学的なもの(スピリチュアル)などの影響を受けている結果なのではないか。死んでも(あるいは殺しても)リセットすればまた生き返る、こんな感覚で死というものを見ていることがないだろうか。
「命の教育」の大切さがよく言われるし、それは大切なことだと思うのだが、それとともに「死の教育」ということも必要だと思う。死と言うことに向き合うことで、命の尊さ、かけがえのなさを知ることができるのではないか。
アニマルプラネットというテレビチャンネルで、小学校の子ども達に飼われていたある犬の話を見た。それは金沢市の明成小学校で学校犬として16年間飼われていたマリリンという中型の日本犬の話で、昭和63年に4、5年生が宿泊体験先で譲り受けて以来、3年生の子ども達が当番で世話をし続け、やがて学校のアイドルとして地域の人達にも可愛がられるようになった。そして16年後の平成4年4月に息を引きとった。生前のマリリンに対する子ども達の心をこめた世話振りは、純粋な愛情の表れに思えて微笑ましいものだったが、マリリンが死んだ時の子ども達や教師、地域の人達の嘆きようには胸を打たれ、それぞれが優しく声をかけながらマリリンに別れを告げる様子を見ながら涙が流れた。「お別れの会」では学校長が弔辞を読み、遺体は校地の片隅に葬られたが、学校挙げての追悼は子ども達の心に、命の尊さが刻み込まれただろうと思う。

私の家ではかつて2回犬を飼ったことがあった。ある時、私の勤務校に市内で獣医をしている卒業生がやって来て世間話などをしていた時に、彼が犬を飼いませんかと勧めたことがあった。生き物は死ぬからなあと私が渋ると、彼は、死ぬから良いのです、愛するものの死に出会った時に、息子さん達は命の大切さを知ることができますと言った。その言葉が気に入って飼うことになったのだが、子犬が我が家に来た時は、小学生だった息子達の喜びようは大変なもので、それからはまるで小さい妹のように可愛がっていた。その犬は15年生きて心臓の発作で突然死んだが、大学生になっていた息子達は激しく泣いた。その時に私は卒業生の獣医が言ったことが本当だったと分かったのだった。
学校犬のマリリンが生きている時には、子ども達は生きていること、生きているものを愛することのすばらしさを教えられたのだろうが、その死に向き合って、いっそう命の尊さが実感できたのだろうと思う。このような学校挙げての取り組みを経験した子どもは、長じても命を粗末にすることはないだろうし、ましてや「ゲーム感覚で・・・」生き物の命を奪うことなどはしないだろう。幸せな、得がたい体験をした。白鳥を殺した中学生達が、このような体験をしていたらと思う。

家庭環境もあるのだろうが、この生徒達にはその年齢になるまで、命の大切さを教えられることが乏しく、それゆえに鳥達にも命があるという考えが希薄で、命あるものへの慈しみや畏敬の心が欠けていたのだろう。この子達に限らず、近頃の若い人達には死ということは、生きていることの間に大きく深い境界があり、それを越えることは非常に大変な不可逆的なことなのだということが、どうもはっきりと認識されていないようにも思う。それはテレビ番組やテレビゲーム、あるいは最近とくに流行している心霊学的なもの(スピリチュアル)などの影響を受けている結果なのではないか。死んでも(あるいは殺しても)リセットすればまた生き返る、こんな感覚で死というものを見ていることがないだろうか。
「命の教育」の大切さがよく言われるし、それは大切なことだと思うのだが、それとともに「死の教育」ということも必要だと思う。死と言うことに向き合うことで、命の尊さ、かけがえのなさを知ることができるのではないか。
アニマルプラネットというテレビチャンネルで、小学校の子ども達に飼われていたある犬の話を見た。それは金沢市の明成小学校で学校犬として16年間飼われていたマリリンという中型の日本犬の話で、昭和63年に4、5年生が宿泊体験先で譲り受けて以来、3年生の子ども達が当番で世話をし続け、やがて学校のアイドルとして地域の人達にも可愛がられるようになった。そして16年後の平成4年4月に息を引きとった。生前のマリリンに対する子ども達の心をこめた世話振りは、純粋な愛情の表れに思えて微笑ましいものだったが、マリリンが死んだ時の子ども達や教師、地域の人達の嘆きようには胸を打たれ、それぞれが優しく声をかけながらマリリンに別れを告げる様子を見ながら涙が流れた。「お別れの会」では学校長が弔辞を読み、遺体は校地の片隅に葬られたが、学校挙げての追悼は子ども達の心に、命の尊さが刻み込まれただろうと思う。

私の家ではかつて2回犬を飼ったことがあった。ある時、私の勤務校に市内で獣医をしている卒業生がやって来て世間話などをしていた時に、彼が犬を飼いませんかと勧めたことがあった。生き物は死ぬからなあと私が渋ると、彼は、死ぬから良いのです、愛するものの死に出会った時に、息子さん達は命の大切さを知ることができますと言った。その言葉が気に入って飼うことになったのだが、子犬が我が家に来た時は、小学生だった息子達の喜びようは大変なもので、それからはまるで小さい妹のように可愛がっていた。その犬は15年生きて心臓の発作で突然死んだが、大学生になっていた息子達は激しく泣いた。その時に私は卒業生の獣医が言ったことが本当だったと分かったのだった。
学校犬のマリリンが生きている時には、子ども達は生きていること、生きているものを愛することのすばらしさを教えられたのだろうが、その死に向き合って、いっそう命の尊さが実感できたのだろうと思う。このような学校挙げての取り組みを経験した子どもは、長じても命を粗末にすることはないだろうし、ましてや「ゲーム感覚で・・・」生き物の命を奪うことなどはしないだろう。幸せな、得がたい体験をした。白鳥を殺した中学生達が、このような体験をしていたらと思う。
