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足助次郎重範

2008-06-23 07:23:10 | 歴史
 私の郷土は市町村合併によって「愛知県豊田市」になってしまったが、以前は「東加茂郡足助町」であった。
「足助(あすけ)」とは初代重長から八代重政まで、南北朝時代以前に三河の国のこの地を領した足助氏一族に由来する。

 足助氏は一族郎党勤王思想の家系であったことがうかがわれる。

 承久三年(1221年)の後鳥羽上皇の倒幕計画において(承久の変)、三代足助重成はこのとき、上皇の檄に応じて馳せ参じ、京都で北条泰時の軍勢に破れて討ち死にしたという。

 特筆すべきは七代足助次郎重範である。かれは忠君愛国の烈士であった。

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒のため、山城の国笠置山で挙兵するに重範は先駆けて応じた。強弓の名手として知られた足助次郎は、参集したおよそ二千五百名のもののふの大将として笠置寺篭城戦を奮戦した。

 『太平記』によると、かれは笠置山の東口につめかけた伊賀・伊勢・尾張・三河・遠州の兵、二万五千余騎にむかって、

「三河国の住人足助次郎重範、忝くも一天の君にたのまれまいらせて、この城の一の木戸を堅めたり。前陣に進んだる旗は美濃・尾張の人々の旗と見るは僻目か」

 と名のりをあげ、強弓をひきしぼって二町あまりはなれた荒尾九郎・弥五郎親子を二矢に打ち倒したという。

 しかしながら二十日あまりの戦いの後、圧倒的な兵力を擁す六波羅軍によって笠置山は落城を余儀なくされ、後醍醐天皇は隠岐に流され、大将重範は京の六条河原で斬首された。

 さらには元弘三年(1333年)足助一族は、新田義貞の鎌倉幕府攻撃にも参加した。このとき足助三郎太郎重信、足助卿房賢尊、足助佐渡四郎重連、足助孫三郎重成等も討ち死にしたという。
 以後、足助氏の勢力は衰退し、八代重政が興国年間(1340~46年)宗良親王とともに東国に去るに及び、歴史上からその姿を消してしまった。

 この七代足助次郎重範が祀られているのが、「足助神社(愛知県豊田市足助町宮ノ後)」である。

 今日は同じく忠君愛国の士「殉国七士」の月命日である。この足助神社に詣でてから、三ケ根山の殉国七士廟に向かおうと思う。

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