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やっぱり、気楽にいこう!

つれづれなるままに

明日、ママがいない

2014-01-24 08:34:56 | Weblog
児童養護施設、里親制度に関わる人々や、このような施設の子供たちにたいする差別を助長しかねないとして、芦田愛菜主演のこのドラマが批判されている。

最近、テレビは真面目にみないが、もともとはテレビ中毒なので、いちおう各局のドラマ改変期には新作ドラマの初回は録画してチェックするようにしている。ほとんどのドラマは見るに耐えないので、初回で録画を中止してしまうのだが、はっきり言ってこのドラマは面白い。出色のできだと思う。

ちなみに最後まで録画して見たのは、思いつくままにいくつかあげると、放送時期は前後するが、『スペック』『闇金ウシジマ君』『書店員ミチルの身の上話』『ダンダリン』そしてやっぱり『半沢直樹』等々。

『明日、ママがいない』はたしかにセンセーショナルな表現が多いので、抗議する人の気持ちはわかるが、果たして日本テレビはこれに屈するのであろうか?「学会」だとか「同盟」のような圧力団体からの抗議であれば、メディアは容易に屈するであろうし、そのような団体を刺激しかねない作品ならば、最初から企画は却下されるであろう。

このドラマに抗議している人々や、団体は圧力団体とはおもえないので、第2作目はとりあえず放送はしたようである。圧力団体からの批判には、容易に屈するのに、そうでない一般人からの批判は黙殺するのがメディアの常套である。そうゆうテレビ局の姿勢に納得できない思いはあるが、残念ながらこのドラマは面白い。

このドラマの面白さの本質はある種『水戸黄門』や『半沢直樹』におけるそれと同質のものだと思われる。つまり虐げられたものが、最後には逆に相手をやっつけ、見返してやるというカタルシスの快感である。水戸黄門においては「葵の印籠」であり、半沢直樹においては「倍返し」である。
芦田愛菜などの子役の演技も、文句なく「ウマい」と思う。

このドラマが差別を助長するものであり、非道徳的であるかどうかはともかく、「孤児」という社会的弱者をテーマとしている点では、たとえばさきほど挙げた『闇金ウシジマ君』が同じく「不良債務者」という社会的弱者をテーマとしている点で似通っているが、表現の点では『闇金ウシジマ君』も相当センセーショナルな作品であったが、これが批判されなかったのは深夜枠に放送されたからであったろう。センセーショナルとは「人々の関心を強くひくようなさま」とあるが、はたしてセンセーショナルでない作品に人々は感情移入できるであろうか?

ともかく日本テレビの今後の対応が注目されるが、放送中止という事態になれば、テレビがまた一段とつまらなくなっていくだろうことは間違いない。

日記ブログ開設

2010-06-28 15:27:38 | Weblog
2008年のチベット暴動を契機に、このブログのタイトルを「気楽にいこう」から「気楽にいけない」に変更したのはいいのだが、なんとなく硬い話題以外書きにくくなってしまったので、個人的な日記やどうでもいいことを書き込むために新しいブログを開設した。

覚え書きの記
http://blog.goo.ne.jp/takigahora

庭の植物や動物のこと、旅行や食べ物のことや、毎日のささいなこと、どうでもいいことを綴っていこうとおもいます。
よろしければご訪問ください。

NHK「龍馬伝」攘夷悪玉論と外国人参政権

2010-03-08 16:37:42 | Weblog
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の視聴率が良いようだ。

ビデオリサーチhttp://www.videor.co.jp/data/ratedata/backnum/2010/index.htmによる視聴率調査によると常に20パーセント以上の高視聴率をマークしているようだ。

ところが気になる事がある。

昨日の第10回の放送「引きさかれた愛」にしても前回の第9回「命の値段」にしても、いわゆる幕末の「攘夷思想」をテーマにしたものであったが、それが悪者にされているような気がして仕方がないのだ。

このドラマの中では武市半平太率いる土佐勤王党の藩士たちは狂信的な「攘夷信者」として描かれる。
「攘夷」とはいうまでもないが、「外国人を、武力で打ち払う」という単純な考え方である。黒船来航によって、強烈なインパクトを受けたこの国の幕末のサムライたちは、この考え方が単純であるが故に、将軍にかえて天子をかつぎ、黒船に象徴される西洋列強を打ち払うべしという、尊王攘夷論を熱狂的に支持し、そして水戸で産声を上げ、薩長、そして土佐に伝染した攘夷活動が倒幕、そして明治維新の大きな原動力になった事は歴史的事実である。

NHKドラマ「龍馬伝」第9回「命の値段」では、後年日本ハリストス教会の日本人初の司祭となり、ニコライ堂の創建にも関わったという、土佐藩士山本琢磨らが、酒に酔い町人を脅してからかった際に、町人が落としていった金時計を不法に古道具屋に売って咎められ、切腹を命じられるという内容であった。
 切腹を命じたのは藩の上士の意を受けた、武市半平太であったという設定なのだが、それは仲間のうちからこのような罪人が出る事は「攘夷」の妨げになるから、というような理由からであった。このドラマでは徹底的な「いいもの」善人である坂本龍馬が、こっそりと山本を逃がしてやった設定になっている。

しかしWikipediaの「沢辺(山本)琢磨」の記述では、「訴追を逃れるために龍馬や半平太の助けを得て江戸を脱出。東北各地を流れ回った末、新潟にたどり着いたところで出会った前島密に箱館(現・函館市)に行くことを勧められ渡道し函館に落ち着く。」となっている。

いったいどちらが真実なのであろうか。少なくとも脚色が当たり前のドラマが史実という事はありえないと思う。

第10回「引きさかれた愛」はどうかというと、龍馬が幼なじみの平井加尾にようやくプロポーズして、ふたりの恋愛が実った直後、やはり攘夷思想にかぶれる加尾の兄、収二郎の差し金で、龍馬と相思相愛の加尾は土佐藩主の縁戚でもある尊王攘夷派の過激公卿である三条実美のもとへ出仕させられる事になり、恋は引き裂かれてしまうという筋立てになっていた。
ようするに「攘夷」のためにこの恋は引き裂かれてしまったのである。

ところで坂本はこのドラマの中では、武市や平井収二郎などの狂信的攘夷派にたいして批判的な立場の存在として描かれる。

はたしてそうであろうか?

龍馬も土佐時代、平井や岡田以蔵と同じく、武市を盟主とする土佐勤王党の一員であった事は明らかである。さらに坂本が千葉道場の重太郎とともに開国論者の勝海舟を斬るつもりで押し掛けていって逆に勝に説得されて帰って来るという有名な話はこのドラマの設定より、後年の事である。龍馬もこの回のドラマの時点では攘夷思想にかぶれていたのではないのだろうか。

ようするにNHKは「攘夷思想=外国人排斥思想」を悪玉に仕立てようとしていると考えるのは勘ぐりであろうか。
民主党政権が、政治と金の問題や、首相の二枚舌、米軍基地問題の迷走、閣内不統一、マニフェスト無視、バラマキをはじめとする支離滅裂な経済対策等等、ようやく一般国民にも化けの皮が剥がれて、いまこれほど酷いものでなかったら、この時期、「外国人地方参政権を付与する法案」はとっくに国会に上程されているのではないだろうか。
そのための世論形成のために、このドラマ「龍馬伝」における攘夷悪玉論が演出されているのだとしたら、NHKのいかにもやりそうなことではないだろうか。

心苦しい限りである

2010-03-06 08:51:48 | Weblog
先週の風邪から回復した皇太子ご夫妻の長女、敬宮愛子さまが、「腹痛や強い不安感」により、今週は 火曜日(2日)の4時限目の国語の授業を除き、学習院初等科に通学されていないことが野村一成東宮大夫の会見で明かされたという
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/100306/imp1003060701004-n1.htm

まことに心苦しい。

高校のとき、親父に「学習院を受ける」といったら「おまえは馬鹿か!と」猛烈に反対された。

もともと学習院というのは、皇族や華族のような「やんごとない」かたがたと、われわれのようなシモジモの人間とを隔離するためにつくられた教育機関であったはずである。

親父はいわゆる全共闘世代で、学生時代には付き合いで学園闘争にも参加していたらしいが、それでも戦前生まれで、「学習院」というものにある種特別の感情を持っていたのであろう。 
東京オリンピックの年に生まれ、経済復興期のリベラルというか民主主義的な教育の中で育った私には、とうじ親父の言葉に相当な反発があったが、今となっては妙に納得できるものである。

大学時代には部活の関係で学習院の学生とも付き合いがあったが、とくに「やんごとない」ふうでもないふつうの連中であり、年代的にもそのころ学習院には、秋篠宮さまや、同親王妃殿下さまがたも在学されていたように思い、時代が時代なだけに皇室にたいする敬意というようなものは、学習院の学生たちにも特に感じられなかったが、しかしながら学習院の教員や職員の意識の中には「皇族を守る」という信念が強固に存在していた事は疑いないと思う。

愛子内親王殿下はたまたまではあるが、うちの娘と同い年でいらっしゃるが、このような事態が報道される事は誠に心苦しい事と思わざるを得ない。「皇族をお守りする」という教員や職員の意識もいまや時代とともに希薄になっているのかもしれない。

ようするにいまでは、学習院でさえもふつうの「クソガキ」が存在するのであるともいえようが、ほんらいならば皇室というような日本国にとって最尊貴な存在はこのような「クソガキ」とは隔離されていなければならない。
戦後民主主義教育のひとつの大きな弊害の側面がここに顕著にあらわれているようにおもう。
さらに勘ぐるならば皇太子様と中国の要人が、中共軍のオペラを学習院で観劇するなど、この学校はいまなんだかおかしな事になっているのかもしれない。

共産主義のバカさかげんを知るために格好の映画

2009-10-25 05:27:41 | Weblog
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
http://www.discas.net/netdvd/goodsDetail.do?pT=0&titleID=1104056799

をビデオで見た。

非常に不愉快なものであるが、これは共産党だとか、革命だとかにシンパシーを感じる人々に是非見てもらいたい映画である。コミンテルンにしろ、中国共産党にしろ、朝鮮労働党にしろ、クメールルージュにしろ、共産主義の本質はこのように馬鹿げたものなのである。トロッキーやチェ・ゲバラがまだましなのは、革命途中で死んでしまったからである。共産党の指導者というのは、独裁者となるか、粛正されるかのどちらかである。

同じ若松孝二監督の『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』という赤軍派の重信房子が登場するという、アラブゲリラの日常を描いたドキュメンタリー映画のツタヤのレビューにこんなコメントがあった。
http://www.discas.net/netdvd/goodsDetail.do?pT=0&titleID=1131043837

「ええなあ かっこいいなあ 基本的に異議な~し!なんだけど 半世紀も人間やってると考え方も変わるね いまだにパレスチナ・ゲリラもIRAも赤軍派にもシンパシーを感じるけど ボク的には戦争だけは絶対やっちゃだめってとこに落ち着くね 中国あたりに侵略されても戦争せず属国として300年くらい過ごしてもいいんじゃないかな 日本人の精神構造はいつまでたっても変わんないからね」

頭がクラクラするほどバカだ。

日本に生まれてきてよかったー

2009-03-04 06:02:32 | Weblog
きのう晩飯の時、オーストラリアに語学留学経験のある嫁が、「オーストラリアでは水が貴重だから食器を洗う時は、洗面器に少量の洗剤を溶かしておいて、そこで食器を軽くすすいで汚れを取ったらそのままふいて戸棚にしまってしまう」といった。

「中国の田舎のほうでは洗剤が貴重で、水洗いしかしないから、ただでさえ油っぽい料理なので、食卓に並んでいる食器はべとべとする。だからみんな紙で油をふいてから使う」 と私がむかし中国に行った時の経験を話すと、小学1年生になる愛娘が思わず、

「日本に生まれてきてよかったー」

といった。日本には八百万の神々に守られた、豊かな自然があり、清潔な水がふんだんにある。そして日本人は勤勉で今のところ経済的に豊かな生活を送ることが出来る。

これは世界でも希有なことである。

われながらよい教育をしているなあと思った。

うちでは子供から「日本で一番偉い人は誰?」と聞かれると、一も二もなく、「天皇陛下」と教える。

これは間違いなく支那の戦線に衛生兵として出征したおじいちゃんの影響である。

祖父は仏弟子の印である「絡子らくす」という簡易袈裟をもって出征したが、戦友が亡くなるとこれを胸に掛けて読経し感謝されたそうだ。このぼろぼろになった絡子を祖父は持ち帰り、宝物のようにしていた。

祖父はテレビに裕仁天皇陛下が登場すると、おもわず居ずまいを正して正座するような人だった。祖父だけでなく特定の悪しき思想にだまされていない普通の明治の日本人はみんなそうであっただろう。
この祖父の口癖になっていたただひとつの自慢は「天皇陛下から勲章をもらった」ということだった。
晩年はボケ気味だったが、しっかりしていたころは細川隆元の「時事放談」を毎週欠かさず見ていたので、私が祖父と同じく天下の素浪人ながら政治ネタ好きなのも祖父の遺伝子を受け継いでいるのだろう。

しかしながら団塊の世代であり、終戦時に幼少であった両親はご多分に漏れず、戦後のいわゆるウォーギルトインフォメーションプログラム(GHQによる日本と日本人にたいする贖罪意識の植え付け)の犠牲となり、亡くなった父親はかつて学生運動のトリコとなり、母は教員として日教組の影響をもろに受けた。
おそらく今ナベツネのごとく、政官界、経済界、そしてメディア業界を長老として牛耳っているのはこの団塊の世代ではないだろうか。それが安倍、麻生おろしにも関係しているはずだ。

にもかかわらず、わたしが健全な愛国心をもち、子供たちにもそれを教え、皇室を尊崇し、靖国や三ケ根山の英霊たちに心から感謝できるのも戦争体験のある明治生まれの祖父のおかげであるとおもうのだ。

明治の人たちが、命をかけて日清、日露の大戦を戦ってくれなかったら、今の日本は間違いなく存在しない。そしてこの明治と戦前の昭和は寸断もなくつながっているのである。
戦前は悪い悪いと日教組にだまされたけれどもそれは全く嘘なのだ。むしろ敗戦によって日本人の魂、大和魂は分断されてしまった。

欧米列強の侵略を阻止するのための明治維新における日本近代化のための戦い、
ロシアの南下を阻止するための明治の戦い、
そして非白人の国である日本が強大となりすぎてしまったために、出る釘を打つために欧米列強によってしかけられた昭和の戦いで命を落とした人々が靖国に祀られている。

だからわたしは靖国を貶める人たちとはもう口もききたくないし、顔も見たくもないし、つきあいたくもない。皇室と、日の丸、君が代を尊び、靖国の英霊に感謝するだけで「右翼」とよばれる。実にバカげた話である。こうしたバカが日本には半分ぐらいいることが実に嘆かわしい。


本当の売国奴はだれか

2009-02-22 07:36:33 | Weblog
読売新聞を購読している。

麻生さんや、中川さんが好きな私はこのところ精神衛生上よくない。本当は産經新聞を購読したいのだが、田舎に住んでいるので近くに取り扱っている新聞屋がない。その産經新聞でさえこのところ政権批判をやめない。中川さんの件ではとうとう中川(酒)などというニックネームがシャレにならない事態になってしまったことがとても悔しい。

IMFのストローカン事務理事は、日本政府がIMFに9兆円をも拠出したことを「人類の歴史上、最大の貢献だ」と謝意を表明した、のにもかかわらずどこのテレビ局も、新聞社もこれを報じない。

麻生さんには、この四面楚歌の状態でどれほど心を痛めておられるのだろうかとおもうと気が気ではない。マスゴミはここまで追いつめておいてかりに首相退陣という事態にでもなれば、さらに「政権放り投げ」と追い打ちをかけるのに違いない。もはやこの国には「惻隠の情」「武士の情け」という言葉は存在しない。

大久保利通と吉田茂の血を受け継ぐ、麻生さんがこの状態の中で信念を貫いたとすれば、後世の歴史はかならず麻生総理を史上まれに見る宰相であったと賞賛するだろう。
だからといって頑張ってほしいなどと私にはいう資格はない。なぜなら普通の人間ならば、おそらくこのプレッシャーに耐えうる神経など持ち合わせているはずはないと思えるからだ。

ネットばかりで情報をあつめていると、やはり自分の好みのサイトばかりに行く傾向があるので、世間のメディアの論調を知るためには、四大新聞を購読するのもいいかもしれない。
しかしこのごろは新聞も、どのチャンネルのニュースやバラエティ番組を見ていても、結局出演者は金太郎飴で同じようなことしかいわない。無意識な人はこのような垂れ流しの情報を鵜呑みにして、知らず知らずのうちマスメディアの罠にはまっていくのであろう。

読売のキングナベツネは、「読売グループの総力あげて麻生を潰す」と中国のメディアに語ったという。
http://d.hatena.ne.jp/essa/20070918/p1

これが真実であるとしたら、この国の本当の売国奴はマスメディアであるということになる。

ところで読売の19日の朝刊の経済欄には「激震経済 GDPマイナス12パーセント  対策遅れ状況悪化」という記事の中で、政府の迷走によって国の景気対策が遅れている」と麻生政権の批判をおこなっている。

とんでもない記事である。政府を迷走させ、国の景気対策を遅らせているのはいっこうに予算審議を進展させない民主党とマスメディアの根も葉もない政権攻撃の責任ではないか。いったい世界中に存在する国の中で、政権与党がこれほど予算成立に苦労しなければならない国がどこにあるのか。

持ち上げておいて、こき下ろす、こんなことを何回マスコミは繰り返すのか。この国の首相の頭を何度もすげ替え、政治を不安定にしているのは疑いなくマスコミである。

出雲しうるわし

2009-01-07 05:29:12 | Weblog
職業柄、世間様が忙しい時はヒマで、世間様が遊んでいらっしゃる時は多忙なことが多いが、年頭から所用が立て込んでしまい、波乱を感じさせる年明けであったが、今日からようやく自由の身になった。

毎年のお年頭の行事で檀家さんを廻らしていただくが、たまたまもはやずいぶん高齢になられた、近所に住んでいる、霊感のあるおばあちゃんに、「おっさん、ちょっと寄っていかっせ(三河弁)」と呼び止められたたので、他のかたなら「すいません、先があるので」と遠慮するところだが、大好きなおばあちゃんだったので、ずうずうしく縁側からあがらしてもらって、みかんをいただきながらお話をうかがった。

ところ、今年は私の運がいいそうだ。世間様が不況で、「派遣村」などというものが話題になっているときに、運がいいとはこれはどうしたものかと思ったが、とりあえず新年早々悪くない話をうかがった。司馬遼太郎さんの歴史小説が好きだったこともあって、何となく昔から自分には「乱世」のほうがふさわしいと漠然と考えていたが、今年はまさしく乱世の幕開けの予感がしてならない。

というわけで新年の予定が狂ってしまったが、今日から毎年恒例の出雲大社詣でにやっと出かけることができます。

年頭にあたって、ふたたび吉田松陰「草莽崛起論」

2009-01-01 01:26:17 | Weblog
あけましておめでとうございます。

今年も心意気だけでもこのようにありたいと思い、再掲載いたします。

「吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付

徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらるゝこと、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。幸に上に明天子あり、深く爰に叡慮を悩されたれども、 □紳衣魚も陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず、事の成らぬも固より其の所なり。

列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。徒に岸獄に坐するを得るのみ。此の余の所置妄言すれば則ち族矣なれども、

今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」

松蔭が安政の大獄により処刑されたのは安政6年(1859年)10月27日、これはその死の半年前、萩の野山獄にあってこれを書いた。

松蔭は常人なら絶望の淵におかれる状況で、いまだ日本の未来にたいする希望を捨てなかった。実際かれの門下からは高杉晋作などが出て、国家を救済した。

「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。」

 憲法改正問題、ロシアや中国とにおける領土問題、対北朝鮮問題、チベット問題、政財官の附着、腐敗等、等、等・・・

「今の政治家も役人も酔人に等しいので、国家を救うすべをもっていない。草莽崛起の人を頼る以外ない。」

「草莽」とはつまり何の地位も身分もないわれわれのこと。「崛起」とは立ち上がること、声を挙げることである。

ことしも宜しく御願いいたします。

今年一年をふりかえって

2008-12-28 21:03:11 | Weblog
今年は3月14日のラサ蜂起、そして中共によるチベット人弾圧に始まった。

矢も楯もたまらず、名古屋のフリーチベットの運動に参加した。そして多くのチベット人や、圧政に苦しんでいる現在の中国の民のことを知った。

祖国を奪われてしまったチベットの民のことについて思えば思うほど、祖国日本のことを思った。そしてわが国の歴史を思うとき、むしろ峻険なヒマラヤの高山に守られたチベットの国以上に、薄氷を踏むような国難に難度となく遭遇しながらも、かろうじて国防を全うしてきたわが国の偉大な先人たちのことを思った。

活動を通じて、多くのチベット人にも出会った。彼らは一様に祖国を奪われ、家族を殺された苦しみ悲しみと、中国人にたいする憎悪を口にした。またあるアメリカに住むチベット人男性と日本人女性の間に生まれた子供たちが自分がチベット人であることを隠したいと考えていることを知った。ダライ・ラマ法王は世界中の知識人や政治経済界、芸能界から尊崇を受け、そしてチベット仏教は現実に生きた大乗仏教として世界の仏教界における珠玉であるのにもかかわらず、そのように考えている子供がいることを知って私は衝撃を受けた。

自分の国に誇りを感じることが出来ない人間が多ければ多いほど、国家は滅亡に近づいていく。政治家や、経済界が目先の利益だけにとらわれて、国益のことを忘れ去ったとき国は腐っていく。

戦後の日本というのは、まさしくそうした道筋をたどった。

しかし主にインターネットによる情報によって、マスメディアが黙殺する、私たちと同じ仏教徒であるチベットやウィグル人たちへの圧政、虐殺を目の当たりにして、東京でも、大阪でも、名古屋でも、長野でも、日本全国でいままで政治活動に縁のなかった市井の人々が立ち上がった。

心ある日本人は中共の圧政を知ることで、みな祖国日本の素晴らしさに目が覚めたのである。

そして中共に祖国を奪われたチベットの国と民を見ることにより、私たちの先人が命を賭けて祖国を守ってきたことを考えたはずである。そして国家というものの尊貴なこと、現在の日本の平和と繁栄は、そうした先人たちの血と汗と涙によって獲得されたものであることを確信したのである。

それにたいして残念ながら、今の日本の政財界は、隣国のチベット人がどれほど迫害されていても、北京オリンピックを前に、中国との交際という目先の利益にとらわれて、抗議の声さえ発することが出来ないのを私たちは目の当たりにした。普段は「人権」「人権」と喧しい左派勢力にしても同様である。

未だ政財界には私たちの声は届かない。けれども必ず日本のことを思い、国益のことを思う無数の市井の人々の胎動は必ず国を動かすまでに成長するであろう。かつて社会党の女性党首が「山は動いた」と語ったような浅薄な意味ではけっしてなく。

来年は、中華人民共和国の建国60周年で、天安門事件から20年。そしてチベット蜂起並びにダライ・ラマ法王の亡命から50年。 そして金正日の健康問題。
さらに未曾有のアメリカ発経済危機の中発足する、非WASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のオバマ政権。

来年人類は未だかつてなかった経験をすることであろう。しかし常に国難を天佑に転じてきた日本人の叡智を私は信じたいと思う。