さらにいえば日露戦争の場合は、わが国は当時膨張主義のロシアの南下を防ぐべく、純粋な防衛戦争に辛勝したのであり、日本の国土と文化を守り、西洋列強に虐げられているアジアやユーラシアの国々に希望を与えたからである。
それにたいして大東亜戦争の場合は軍人が政権を掌握し、侵略する必要のない中国や東南アジアを侵略し、結果として旧日本軍はアメリカ等連合国にけちょんけちょんにやられてしまい、あげくのはてに無数の主要都市を空爆され、さらに核兵器を二発も落とされて国家を灰燼に帰せしめただけでなく、明治以来の先人たちの奮迅の努力によって西洋列強に肩を並べたわが国の威信を著しく低下させたからである。
つまり戦争には、結果としてではあるが、国益となった戦争と、国益を損なった戦争がある。
しかしだからといって国家は、戦争がいかなる性質のものであれ、戦さで命を落とした人々の全てにたいして何の報いも与えないというようなことがあってはならない。
いつの時代であれ、どんな戦争であれ、司令官から一兵卒に至るまで、軍人たちは命をかけて戦場に赴くものである。これは並大抵のことではない。
戦場で功績をあげ、帰還した兵士たちに国が報いを与えるのはいともたやすい。しかし命を失った兵士たちに国が報いることは物理的に不可能である。であるならば少なくとも国家はかれらを最高の栄誉をもって慰霊する責任と義務があるはずである。
そうゆう施設は靖国神社以外に存在しない。別に国立の追悼施設をつくるなどというのは明治以後の日本史を知らぬ者たちの論外中の論外である。
嘉永6年のペリー来航以来、わが国が文字どうり血みどろになって近代化を進めてくるうえで、戦場にて非業の死を遂げた英霊たちが靖国神社で眠っている。であるから極論すれば靖国神社を否定することは明治維新を否定することになる。
国が現代の日本のような平和な状態であればあるほど、悲惨な戦争で命を落とした軍人や兵士たちに私たちは思いをよせなければならない。よって日本国の首相をはじめとする国政の責任者たちは、隣国に何をいわれようが、また歴史を知らない国民にどのような批判を受けようが、かならず靖国神社に参拝し、英霊たちを慰霊する責任と義務があるのである。
それにたいして大東亜戦争の場合は軍人が政権を掌握し、侵略する必要のない中国や東南アジアを侵略し、結果として旧日本軍はアメリカ等連合国にけちょんけちょんにやられてしまい、あげくのはてに無数の主要都市を空爆され、さらに核兵器を二発も落とされて国家を灰燼に帰せしめただけでなく、明治以来の先人たちの奮迅の努力によって西洋列強に肩を並べたわが国の威信を著しく低下させたからである。
つまり戦争には、結果としてではあるが、国益となった戦争と、国益を損なった戦争がある。
しかしだからといって国家は、戦争がいかなる性質のものであれ、戦さで命を落とした人々の全てにたいして何の報いも与えないというようなことがあってはならない。
いつの時代であれ、どんな戦争であれ、司令官から一兵卒に至るまで、軍人たちは命をかけて戦場に赴くものである。これは並大抵のことではない。
戦場で功績をあげ、帰還した兵士たちに国が報いを与えるのはいともたやすい。しかし命を失った兵士たちに国が報いることは物理的に不可能である。であるならば少なくとも国家はかれらを最高の栄誉をもって慰霊する責任と義務があるはずである。
そうゆう施設は靖国神社以外に存在しない。別に国立の追悼施設をつくるなどというのは明治以後の日本史を知らぬ者たちの論外中の論外である。
嘉永6年のペリー来航以来、わが国が文字どうり血みどろになって近代化を進めてくるうえで、戦場にて非業の死を遂げた英霊たちが靖国神社で眠っている。であるから極論すれば靖国神社を否定することは明治維新を否定することになる。
国が現代の日本のような平和な状態であればあるほど、悲惨な戦争で命を落とした軍人や兵士たちに私たちは思いをよせなければならない。よって日本国の首相をはじめとする国政の責任者たちは、隣国に何をいわれようが、また歴史を知らない国民にどのような批判を受けようが、かならず靖国神社に参拝し、英霊たちを慰霊する責任と義務があるのである。