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やっぱり、気楽にいこう!

つれづれなるままに

自然界からの警鐘

2008-05-13 09:26:11 | 仏教
ビルマのサイクロン、そして昨日の四川省の大地震と、どうしてこのようなタイミングで、人々の抑圧されている地域を焦点に大災害が起こるのだろう。

自然界からの警告としか思えない。

同地域に住む人々は為政者により、甚大なる人権侵害を受けつつ、生活していることは間違いない。誤解を恐れずにいうならば、死んだほうがまし、と考えている人々も少なくないであろう。もちろん親や子供などの親族を亡くして、深い悲しみの淵に落ちている人々も無数におられることであろうが、そうした人々も一緒に死んでしまいたかったと思っているのに違いない。
そうした庶民にとっては、死によって地獄のような現実から、来世に待っているであろう、少しでもましな世界に旅立つことができるはずであるからだ。

仏教の戒律では「不殺生戒」が一番最初にくるように、自分を殺すことである「自殺」は絶対に許されない。であるからこの世がどのように不条理なものであろうと、苦しみにみちたものであろうと、自らを殺すことでそこから逃避することは許されない。人はそれぞれ、現世において克服すべき課題をもってこの世に生まれてくるのであるからだ。
今回の大災害で命を落とされた多くのかたがたには、そのような意味で、苦しみの多い現世から、少しでも安楽な来世への旅立ちに際して、心から冥福を祈りたいと思う。

もうひとつ仏教についていうと「因果応報」を説く。
つまり善い行為を行ったものには、善い結果があり、悪しき行為を行ったものには必ず悪しき結果が待っているのである。
それは行った行為の報いを現世で受ける「順現報受」、行った行為の報いを来世で受ける「順次生受」、行った行為の報いを来世以降で受ける「順後次受」のいわゆる「三時業」の考え方である。

道元禅師のお言葉をお借りすると、
「仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならいあきらむるなり。しかあれば多くあやまりて邪見におつるなり。ただ邪見に堕つるのみにあらず、悪道に堕ちて長時の苦を受く」
ということである。
つまりビルマやチベットで圧政を行っている為政者たちは、いつか必ずこの悪業の報いを受けなければならない。かれらは仏教を知らない。まことに気の毒なことといわざるをえない。

自然界からの警告は外国だけに限らない。
「花粉症」などというのもまさにそれであり、日本の山林の惨状というものを、親切に自然は私たちに教えてくれているのにも関わらず、いっこうに政府はこれに耳を貸そうとはしない。
また5月の田植え時期のこの低気温は、全世界で穀物危機がおきつつあり、食料自給率が40パーセントをきっている危機的といえる我が国の食料事情にも関わらず、なんらの農業対策もとらない政府への重大な警鐘にほかならない。

この報いをわれわれ日本人は必ず受けねばならないであろう。

禅の道場 安泰寺

2006-07-01 07:40:55 | 仏教
 たまたま名古屋テレビでやっていたお笑い番組『銭形金太郎SP大自然究極ビンボーさん生活体験』という番組をみていたら、兵庫県美方郡の 安泰寺僧堂がでてきたので思わずみいってしまった。ここは宗門ではいわずと知れた丘宗潭、岸澤惟安、衞藤即應、澤木興道、内山興正といった明治以来の曹洞宗の錚々たる大宗匠、大学匠が歴代の住職を務めた禅の道場である。

 安泰寺といえば、檀家なし、自給自足で坐禅をもっぱらとする、宗門ではある種独特の宗風をもった僧堂であることで知られ、こんなお笑い番組にでてはいけないはずの禅道場である。
 ちなみに組寺院の綾度の平勝寺さんが長らくこちらで修行をされておられたので、ありがた迷惑かもしれないが、「安泰寺がテレビにでてますよ」と電話で一報差しあげた。

 現在の安泰寺の住職は、現在38才という、ネルケ無方師という若いドイツ人のかたが務めておられることにも驚いたが、参禅者はほとんどが白人の外国人であり、一見すると不良外国人のたまり場のようにもみえるが(失礼)、実際はそのようなことはなく、きちんと坐禅や作務の修行が行なわれているれっきとした道場であった。

 ドイツ人の若い住職はお笑い芸人のつっこみにも当意即妙な対応をされ、気張ったところもなく、実に自然体で魅力的なかたであった。テレビ局がこのような修行道場を取材する場合、警策(きょうさく)で参禅者の背中をびしびしたたくなど、厳しい修行場所というステレオタイプの演出をするあまり、表面的なものしか伝わらない傾向があるが、この場合お笑い番組だけにそうする必要はなく、その分この道場の自由闊達な雰囲気が伝わってきた。
 安泰寺のホームページには住職のネルケ無方師が大阪城公園でホームレスとして坐禅したことなどがアップしてあって面白い。ホームレス体験などは各地の僧堂で修行としてどんどんやったらいいと思う。

 古来禅の祖録には、猫を殺す話や、瓦を磨いて鏡にしようとする話など、洒脱な逸話が伝えられているが、いわゆる「禅」とは本来安泰寺のような自由な雰囲気をもったコミュニティであったかもしれず、葬式仏教をもっぱらとする現代日本の仏教界において、国内の欧米型禅堂として、むしろ今まで以上にここが現代的禅道場として今後大きな可能性をもっているのではないかと期待した。

宗教的情操

2006-06-21 09:04:44 | 仏教
 先日、役場のかたから電話があり、豊田市内都市部のある小学校から、山村への農業体験を目的とする児童のホームステイを受け入れてくれないか、という依頼があった。
 私は少し考えて、うちはお寺だから、お勤めのお経は読むし、また少しはお釈迦様や仏教についての話を子供たちにするかもしれませんけど、それでよろしいでしょうか?というとちょっと確認してみますということでのちほど連絡があり、こんかいは見合わせていただきますという結論であった。
 ことなかれ至上主義のお役所さんの対応もむべなりと思ったが、それはともかくとして、いま一般家庭の子供たちが、とくに都市部においては、宗教的情操に触れる機会は皆無といってもいいのではないだろうか?
 家に仏壇があるわけでもない、どこかのお寺の檀家であるわけでもない、またおじいちゃんやおばあちゃんに地獄極楽の話を聞くわけでもない、だいいちいまのおじいちゃんやおばあちゃんたちじたいが宗教的情操のない環境で生活し、老年をむかえつつあるのであるから、孫に仏様の教えやあの世の話を話せるはずもないのである。
 そうしたおじいちゃんやおばあちゃんが臨終をむかえれば、葬式をしなければならないが、葬儀屋にくっついてやってくる、人々に仏教を説く重要な役割を担っているはずの坊さんは、お経を読んで、お布施をもらうだけでさっさといってしまう。まことに寒々とした光景である。

 宗教的情操とは簡単にいえば、人間の目でみえない世界、人間の尺度ではかれない世界についての価値観ということである。

 朝起きてくると、おばあちゃんが仏壇の前に座って、ご先祖様にろうそくと線香を供え、一心に念仏を唱えている。おばあちゃんは孫に向かっては、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるぞ、因果は応報だぞ、悪いことをすると地獄に堕ちるぞ、とことあるたびに言って聞かす。
 こんなおばあちゃんについてお寺に行くと、お寺の本堂には恐ろしげな地獄絵図が掲げられており、悪いことをしたものは血の池に落とされたり、針の山をはだしで歩かねばならないと住職に説教され、おばあちゃんのいうとおりだなと何となく思う。

 このような日常で培われた宗教的情操というものが社会秩序を維持するうえでも、また個人の内面を平安にするうえでも非常に大きな効果があることは否定できないと思う。

掲示板

2006-06-03 08:44:42 | 仏教
仏壇屋のさーくんとセメントをこね、汗だくになりながら掲示板を設置しました。
ほんとはここに毛筆でいろいろ掲示できたらいいけど、習字に自信がないので行事の連絡のほか、法話のようなものも張っておくことにしました。
このブログにも随時アップします。
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ちょこっと法話  壱  因果応報

陰惨な事件が多いです。何故なのでしょう?
それはそうした凶悪事件の犯人が来世の存在を知らないからです。
もしもかれらが自分の行なったすべての行為には、かならずその報いがあることを知ったなら、恐ろしくて陰惨な犯罪に手を染めることなどできないでしょう。
かれらは、たとえばじぶんが殺人を犯した後、どのようなむくいがあるかということを想像できないのです。殺人を行なう、警察につかまる、厳しい取り調べを受ける、刑に服す、そしてかりに刑務所を出所したとしてもよほど改心しない限り、世間の厳しい目の中でまともな一生を送ることはできないでしょう。
これが因果応報ということです。因果の理とはお釈迦様が教えられたことなのでぜったいに間違いはないのです。
善くも悪くも自らの行いは、は今生においてだけではなく、来世の有様にも確実に影響を与えていき、永遠に消えることはないのです。

仏教後進国

2006-06-01 08:44:27 | 仏教
 このごろの豊田市内あたりの坊さんはやたら忙しそうだ。日本国民の出生率が減少し、死亡率が増加して人口が減少に転じたという先頃の報道もむべなるかなである。
 それにしても、親戚の葬式や法事などで、お経をすませるとさっさといってしまう坊さんを見ていると、そのうち葬式には坊さんなどいらなくなるに違いないと思わざるをえない。
 一般の見解では僧侶は葬式のときに葬儀屋さんにくっついてくる人、くらいの印象でしかないようで、個人の葬儀を仕切っているのは完全に葬祭業者であり、坊主の出る幕はお経を読む以外あまりない。都市部の葬祭業者の中には、特に信仰のなさそうな顧客には、坊主抜きの仏式によらない葬儀を進める業者もふえてきたそうであり、それも当然の時勢の流れのようにも思える。

 いうまでもないことだが、お釈迦様は僧侶は葬式を行なえ、などとはおっしゃらなかったのであり、事実はむしろ逆で葬式のような俗事は在家の人に任せておきなさいと教えられた。

 田舎ではまだまだうちのお寺さん、というこだわりがあり、僧侶抜きの葬儀など、神道を奉ずる家以外では考えられないが、それも僧侶と檀家との普段からのいろいろなおつきあいがあり、お互いが信頼関係を持っているので、それが成り立つのであり、もしも坊さんがお経だけ読んで、高額のお布施を要求するだけの存在であれば、そのうち愛想を尽かされるに違いない。

 日本というのは、西洋や中東のキリスト、イスラム教国、またはアジアの仏教国など、宗教的情操の強い外国から見れば、実に不可思議な国にみえるに違いない。
 日本古来の神道、古くにとりいれた仏教、そして明治以降に西洋から入ってきたキリスト教を融通無碍に、時と場合によって使い分ける。言葉を変えれば、実にいい加減であり、結婚式は教会で、初参りはお宮さんに、葬式は坊さんにやってもらうなど無茶苦茶である。
 それでありながらほとんどの日本人は自分が無宗教だと思っている。にもかかわらず、日本人が宗教を不必要と考えているのかといえば、神社や仏閣が無数に存在し、それ以外の新興宗教、新宗教が雨後のタケノコのごとく乱立していることを思えばけしてそうは思えないのである。

 タイやビルマやスリランカなどの上座部や、チベット仏教のお坊さんは人々から大変な崇敬をうけているのにたいして、葬式しかやらない日本の坊さんはもういらないのじゃないかと考えられ始めている。そうゆう意味では日本仏教が極めて長い歴史を持ちながらも、日本は仏教後進国とされても仕方がないのではないか。

最近チベットに関連して仏教について考えることの多い私であるが、長らくほったらかしになっている、仏教に関するブログ楞厳山報をなんとかしようと思っている今日この頃である。