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つれづれなるままに

日本人の死生観について

2010-03-09 09:42:28 | 宗教
日本人の根源的な死後の世界観をあらわすに象徴的なものは『古事記』にあらわれる以下のような叙述であろう。

国生みの神話の主人公であるイザナギノミコトは、火の神を生んだことで病となり、亡くなった妻のイザナミノミコトを慕って黄泉国(よもつくに)に旅立つ。
そこで出会った妻イザナミのすがたは、ウジ虫に食われて変わり果てた姿であった。その姿を見たイザナギは恐れをなして、即座に逃げようとしたが、イザナミは「私を恥ずかしい目にあわせた」といって、黄泉国の醜女に夫を追っかけさせた。

古代の日本人にとって、死後の世界とはこのように不愉快で、不潔で、恐るべき存在であったのであろう。黄泉の世界とは、この神話にあらわれるように、この世の地下にあって、じめじめして、人間にとって好ましくないものであった。日本人が死を穢れと考え、忌むべきものと考えたのは『古事記』のこの記述が原点にあることはあきらかである。

死を好ましくないものと考えたのは私たちや古代の日本人は現世に執着があったからであろう。私たちはこれを当たり前と思っているが、世界的にはどうであろう。

たとえばキリスト教のような一神教では、神の教えを守り、死後天国に行くことを目標とする。天国とはひたすら快楽な世界である。イスラム教でもそうである。ユダヤ教でもそうであろう。
イスラム原理主義のテロリストたちは、おそらく嫌々ながら自爆テロを行なうのではなく、喜々としてそれをおこなっている。何故かというと、神を冒涜する連中を抹殺すれば、天国にいって何でも好き放題なことが出来ると教えられるからだ。具体的にいうとイスラームの聖典コーラン(クルアーン)には、殉教者は天国に行ってそこで「黒い瞳の72人の処女たち」と「交わる」と書いてあるそうだ。イスラム教では性交渉に関しては極めて厳格である。このコーランの教えはイスラムの若者たちにとって極めて魅力的なものであろう。

つまりこうした一神教では、死後の世界は、われわれの観念とは異なり、ひたすら好ましい世界であった。それはこうした一神教が生まれたイスラエルの地が、岩石と砂漠に象徴される不毛で過酷な環境で、しかも戦乱の絶え間ないところであったことと無関係でないであろう。

仏教もそうであろう。初期仏教教典の『スッタニパータ』には「寒さと暑さと、飢えと、渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、これらすべてのものに打ち勝って犀の角のようにただ独り歩め」(中村元『ブッダのことば』より)とある。

これがインドの自然環境である。インドでは輪廻ということが現実として考えられているが、その根底にあるのは現世への嫌悪と、来世への憧憬であろう。仏教においても後ほど大乗仏教において極楽を説く浄土思想が生まれて来たのも、このように過酷なインドの自然環境とは無関係ではないであろう。日本人についていえば、私たちは仏教を知ることにより、死後の恐怖を緩和することが出来たのである。

古代の日本人が現世を肯定し、死後の世界を必要以上に恐れたのは、その豊かな自然環境と、和の考え方による快適な人間関係と生活環境にあったことは想像するに難くないとおもう。

NHK「龍馬伝」攘夷悪玉論と外国人参政権

2010-03-08 16:37:42 | Weblog
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の視聴率が良いようだ。

ビデオリサーチhttp://www.videor.co.jp/data/ratedata/backnum/2010/index.htmによる視聴率調査によると常に20パーセント以上の高視聴率をマークしているようだ。

ところが気になる事がある。

昨日の第10回の放送「引きさかれた愛」にしても前回の第9回「命の値段」にしても、いわゆる幕末の「攘夷思想」をテーマにしたものであったが、それが悪者にされているような気がして仕方がないのだ。

このドラマの中では武市半平太率いる土佐勤王党の藩士たちは狂信的な「攘夷信者」として描かれる。
「攘夷」とはいうまでもないが、「外国人を、武力で打ち払う」という単純な考え方である。黒船来航によって、強烈なインパクトを受けたこの国の幕末のサムライたちは、この考え方が単純であるが故に、将軍にかえて天子をかつぎ、黒船に象徴される西洋列強を打ち払うべしという、尊王攘夷論を熱狂的に支持し、そして水戸で産声を上げ、薩長、そして土佐に伝染した攘夷活動が倒幕、そして明治維新の大きな原動力になった事は歴史的事実である。

NHKドラマ「龍馬伝」第9回「命の値段」では、後年日本ハリストス教会の日本人初の司祭となり、ニコライ堂の創建にも関わったという、土佐藩士山本琢磨らが、酒に酔い町人を脅してからかった際に、町人が落としていった金時計を不法に古道具屋に売って咎められ、切腹を命じられるという内容であった。
 切腹を命じたのは藩の上士の意を受けた、武市半平太であったという設定なのだが、それは仲間のうちからこのような罪人が出る事は「攘夷」の妨げになるから、というような理由からであった。このドラマでは徹底的な「いいもの」善人である坂本龍馬が、こっそりと山本を逃がしてやった設定になっている。

しかしWikipediaの「沢辺(山本)琢磨」の記述では、「訴追を逃れるために龍馬や半平太の助けを得て江戸を脱出。東北各地を流れ回った末、新潟にたどり着いたところで出会った前島密に箱館(現・函館市)に行くことを勧められ渡道し函館に落ち着く。」となっている。

いったいどちらが真実なのであろうか。少なくとも脚色が当たり前のドラマが史実という事はありえないと思う。

第10回「引きさかれた愛」はどうかというと、龍馬が幼なじみの平井加尾にようやくプロポーズして、ふたりの恋愛が実った直後、やはり攘夷思想にかぶれる加尾の兄、収二郎の差し金で、龍馬と相思相愛の加尾は土佐藩主の縁戚でもある尊王攘夷派の過激公卿である三条実美のもとへ出仕させられる事になり、恋は引き裂かれてしまうという筋立てになっていた。
ようするに「攘夷」のためにこの恋は引き裂かれてしまったのである。

ところで坂本はこのドラマの中では、武市や平井収二郎などの狂信的攘夷派にたいして批判的な立場の存在として描かれる。

はたしてそうであろうか?

龍馬も土佐時代、平井や岡田以蔵と同じく、武市を盟主とする土佐勤王党の一員であった事は明らかである。さらに坂本が千葉道場の重太郎とともに開国論者の勝海舟を斬るつもりで押し掛けていって逆に勝に説得されて帰って来るという有名な話はこのドラマの設定より、後年の事である。龍馬もこの回のドラマの時点では攘夷思想にかぶれていたのではないのだろうか。

ようするにNHKは「攘夷思想=外国人排斥思想」を悪玉に仕立てようとしていると考えるのは勘ぐりであろうか。
民主党政権が、政治と金の問題や、首相の二枚舌、米軍基地問題の迷走、閣内不統一、マニフェスト無視、バラマキをはじめとする支離滅裂な経済対策等等、ようやく一般国民にも化けの皮が剥がれて、いまこれほど酷いものでなかったら、この時期、「外国人地方参政権を付与する法案」はとっくに国会に上程されているのではないだろうか。
そのための世論形成のために、このドラマ「龍馬伝」における攘夷悪玉論が演出されているのだとしたら、NHKのいかにもやりそうなことではないだろうか。

心苦しい限りである

2010-03-06 08:51:48 | Weblog
先週の風邪から回復した皇太子ご夫妻の長女、敬宮愛子さまが、「腹痛や強い不安感」により、今週は 火曜日(2日)の4時限目の国語の授業を除き、学習院初等科に通学されていないことが野村一成東宮大夫の会見で明かされたという
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/100306/imp1003060701004-n1.htm

まことに心苦しい。

高校のとき、親父に「学習院を受ける」といったら「おまえは馬鹿か!と」猛烈に反対された。

もともと学習院というのは、皇族や華族のような「やんごとない」かたがたと、われわれのようなシモジモの人間とを隔離するためにつくられた教育機関であったはずである。

親父はいわゆる全共闘世代で、学生時代には付き合いで学園闘争にも参加していたらしいが、それでも戦前生まれで、「学習院」というものにある種特別の感情を持っていたのであろう。 
東京オリンピックの年に生まれ、経済復興期のリベラルというか民主主義的な教育の中で育った私には、とうじ親父の言葉に相当な反発があったが、今となっては妙に納得できるものである。

大学時代には部活の関係で学習院の学生とも付き合いがあったが、とくに「やんごとない」ふうでもないふつうの連中であり、年代的にもそのころ学習院には、秋篠宮さまや、同親王妃殿下さまがたも在学されていたように思い、時代が時代なだけに皇室にたいする敬意というようなものは、学習院の学生たちにも特に感じられなかったが、しかしながら学習院の教員や職員の意識の中には「皇族を守る」という信念が強固に存在していた事は疑いないと思う。

愛子内親王殿下はたまたまではあるが、うちの娘と同い年でいらっしゃるが、このような事態が報道される事は誠に心苦しい事と思わざるを得ない。「皇族をお守りする」という教員や職員の意識もいまや時代とともに希薄になっているのかもしれない。

ようするにいまでは、学習院でさえもふつうの「クソガキ」が存在するのであるともいえようが、ほんらいならば皇室というような日本国にとって最尊貴な存在はこのような「クソガキ」とは隔離されていなければならない。
戦後民主主義教育のひとつの大きな弊害の側面がここに顕著にあらわれているようにおもう。
さらに勘ぐるならば皇太子様と中国の要人が、中共軍のオペラを学習院で観劇するなど、この学校はいまなんだかおかしな事になっているのかもしれない。