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つれづれなるままに

福島原発問題におもう

2011-08-18 06:02:49 | 動画
ひさびさの更新です。

先日、教区の施餓鬼法要の控えの間で、福島原発の事故の話題になったので、私が常々思っていたことではあるが、「日本は広島と長崎に2発も原発を落とされたのにもかかわらず、見事に復興したのだから、それほど心配することはないんじゃないんですかねえ。」

と発言したら、ある私と同年代の住職さんに、「バカなことをいっとってはいかん。今回の福島の事故の放射線量は広島、長崎にも匹敵するか、それ以上という説もある」

と反論された。あまりこうゆう法要の場で喧々諤々やるのも、はばかられたので、私の対応は「あ~そうなんですか」みたいなあっさりしたものであったが、釈然としない感情が残った。

ちなみに「施餓鬼」というのは、不幸な、成仏できない霊たちに、施餓鬼の儀式によって食事を供養することの善行によって、施主の先祖やご縁の諸精霊に回向せんとする、禅宗独特の法要のことである。
曹洞宗ではいつのころからかこの法要が「施食(せじき)」という名称にさせられてしまった。なぜかというと「餓鬼」などという言葉は差別用語であり、このような言葉を使うのはとんでもないという解放同盟の横やりがあったからである。横やりはなかったかもしれないが、解放同盟にビビって宗門が自主的にこの名称に変えてしまったのかもしれないが、どちらにしても誠に情けなく、憤懣やるかたない。
いうまでもないが「餓鬼」という言葉は差別用語などでは決してなく、立派な仏教用語である。臨済宗ではもちろんいまでも「施餓鬼」という名称を用いている。臨済宗がよくて、なんで曹洞宗ではだめなのか。全く馬鹿げたことだ

それはともかく、広島、長崎、やチェルノブイリや中国の核実験等古今の核事象について比較研究しておられる高田純先生というかたがおられることを知って、先生の主張を拝聴してみた。内容は以下のビデオを見ていただけるとだいたいわかると思う。

【高田純】福島原子力発電所の行方[桜H23/3/15]


コメントの欄をみればわかるが、まさに喧々諤々で賛否両論がすさまじい。
賛否両論あってよいと思うが、いっぽうで「核アレルギー」という言葉がある。それはある特定のイデオロギーの信奉者に顕著なことはあきらかな事実であったと思う。核、といえばしゃにむに嫌悪感を示すような輩のことだ。
昨日北海道の泊原発の再開のニュースを見たが、高橋知事に向かって「私たちを殺すつもりかー」とエクセントリックに叫ぶ団体がいた。あきらかにプロ市民である。こうゆう連中はとにかく思考停止的に「核」といえばアレルギー反応を生じさせる。

で、くだんの住職さんの発言であるが、高田教授の主張を聞けば、広島、長崎と福島では天と地程の放射線量の違いがあることがわかった。このかたは私とは違って、立派なご住職であるから、檀家さんは用意に福島の被害が重篤だと信じ込んでしまうであろう。このようなことをほんとうの風評被害というのであろう。