神代のむかし、天照大神は、弟のスサノオノミコトの乱暴狼藉に心底お怒りになって、天岩戸に引きこもってしまわれた。そのため神々の世界と人間の世界は真っ暗となってしまい、様々な災いが現出した。
赤松元農水相は、今年の1月4日、1965年以来慣例となっている首相、農水大臣、食糧庁長官による伊勢神宮参拝に不参加。3月11日の衆議院農林水産委員会で稲田朋美議員の質疑に対し「1月4日は愛する妻と子供と3人でグアム島にまったくのプライベートで行っていた。」「(伊勢神宮参拝は)職務として行けという話は聞いたことが無く、前例を調べるつもりもなかった。」「ただ単に純粋に、(公式な)日程のなかった1月2日から1月4日を使って行ったということで、そんなに悪いことをしたという意識は無い。」と述べた。(ウィキペディアより)
一説に天岩戸が存在したとされるのが、日向の国は天岩戸神社、口蹄疫が深刻化したのも同じく宮崎県。これは偶然の一致であろうか?
一国の農業漁業林業を司る役所の最高責任者が、恒例となっていたこれもまた日本の国民の命と食を守る最高神である天照大神と豊受大御神のまします伊勢詣でを、個人的なバカンスを理由にサボるなどということは、「不敬」であると誹られても仕方がないであろう。マルクス主義に傾倒している赤松元大臣にしてみれば、きっと神々にたいする畏れなどというものはたいしたものではないのに違いない。
先日、首相が菅直人氏に変わって、一夜にして民主党の支持率が跳ね上がったことは、驚くべきことであるが、内閣改造にともなって、口蹄疫問題の最大最高責任者である赤松元農相が何の責任も取らず、こっそりと閣僚を去っていったことのずるさ、姑息さを指摘するメディアはこれもまた驚くほど少ない。
管内閣の組閣に当たって、口蹄疫問題で緊急な対応が求められる農水相の椅子が、最後まで空いたままであったということも、民主党の危機管理意識のなさが露呈したといっても過言ではない。結局地元の五島列島で牧場を経営する山田正彦氏が大臣に昇格したが、「中国から牛を輸入したい」などと公言するなどある種の胡散臭さが感じられて仕方がない。
西村真悟さんが、
「しかし、私はこの頃、日本人でありながら日本のことを「この国」ということに違和感を感じ、「この国」という言葉が鼻についてきた。何故だろうか。
そのようなとき、本日の産経朝刊のコラム欄に、外務省出身の「外交評論家」という肩書きの人が、「再び明治の開放性を」と題する文章を書いており、その末 尾を次のように結んでいる。
「・・・もう一度開放系の社会に戻り、異なった国の人々の才能と文化を受け入れなければ、この国は前へ進まない。」
この結びの「この国は前に進まない」のところに来て、「鼻につく」どころか、自国のことを他人事のように表現するこの風潮に「こんちくしょう」という気持 ちになった。」
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=499
とおっしゃっているのを読んで、私はまったく同感し、これからは「この国」といわず「わが国」という言葉を使おうと思った。
にも関わらず、内実は、普天間の問題も、口蹄疫の問題も、疲弊し続ける財政問題も、この国を貶める法案の問題も、政治とカネの問題も、何ら解決せず、本質は全く変わっていないにもかかわらず、政権の頭がすげ変わっただけで、支持に転じてしまう「この国」の国民っていったいなんなんだろうかと思う。正直、私は胸を張って「わが国」ということを躊躇してしまう気持ちある。
私は管氏という人物について全く期待しておらず、鳩山氏と似たようなものであると思うが、鳩山氏にくらべて意固地、強情である部分さらに悪いかもしれない。民主党としてはいずれ明らかとなるに違いない管首相のボロが出ないうちに参院選を済ませてしまいたいのであろうが、野党は決してそうは問屋がおろさせないよう頑張ってもらいたい。政局を読むことにかけては天才的な小沢氏にしても、いまのところ表にでないほうが得策と考えているに違いないが、参院選が終われば当然のごとくふたたび鎌首をもたげてくるであろう。
それにしても今年は天候が不順である。春先の冷えと長雨のせいで、例年ならばいまたわわに実を結んでいる梅園の梅の実も、今年は極端に成りが悪い。他所でもそうと聞く。このまま冷たい夏に突入すれば稲作には深刻な影響がでるであろう。まさか赤松元大臣のお伊勢さんにたいする不敬が影響しているとは考えたくないが、天岩戸の神話と、大臣のサボタージュと今年の気象状況について、神々からの符号は一致するように思えてならない。
赤松元農水相は、今年の1月4日、1965年以来慣例となっている首相、農水大臣、食糧庁長官による伊勢神宮参拝に不参加。3月11日の衆議院農林水産委員会で稲田朋美議員の質疑に対し「1月4日は愛する妻と子供と3人でグアム島にまったくのプライベートで行っていた。」「(伊勢神宮参拝は)職務として行けという話は聞いたことが無く、前例を調べるつもりもなかった。」「ただ単に純粋に、(公式な)日程のなかった1月2日から1月4日を使って行ったということで、そんなに悪いことをしたという意識は無い。」と述べた。(ウィキペディアより)
一説に天岩戸が存在したとされるのが、日向の国は天岩戸神社、口蹄疫が深刻化したのも同じく宮崎県。これは偶然の一致であろうか?
一国の農業漁業林業を司る役所の最高責任者が、恒例となっていたこれもまた日本の国民の命と食を守る最高神である天照大神と豊受大御神のまします伊勢詣でを、個人的なバカンスを理由にサボるなどということは、「不敬」であると誹られても仕方がないであろう。マルクス主義に傾倒している赤松元大臣にしてみれば、きっと神々にたいする畏れなどというものはたいしたものではないのに違いない。
先日、首相が菅直人氏に変わって、一夜にして民主党の支持率が跳ね上がったことは、驚くべきことであるが、内閣改造にともなって、口蹄疫問題の最大最高責任者である赤松元農相が何の責任も取らず、こっそりと閣僚を去っていったことのずるさ、姑息さを指摘するメディアはこれもまた驚くほど少ない。
管内閣の組閣に当たって、口蹄疫問題で緊急な対応が求められる農水相の椅子が、最後まで空いたままであったということも、民主党の危機管理意識のなさが露呈したといっても過言ではない。結局地元の五島列島で牧場を経営する山田正彦氏が大臣に昇格したが、「中国から牛を輸入したい」などと公言するなどある種の胡散臭さが感じられて仕方がない。
西村真悟さんが、
「しかし、私はこの頃、日本人でありながら日本のことを「この国」ということに違和感を感じ、「この国」という言葉が鼻についてきた。何故だろうか。
そのようなとき、本日の産経朝刊のコラム欄に、外務省出身の「外交評論家」という肩書きの人が、「再び明治の開放性を」と題する文章を書いており、その末 尾を次のように結んでいる。
「・・・もう一度開放系の社会に戻り、異なった国の人々の才能と文化を受け入れなければ、この国は前へ進まない。」
この結びの「この国は前に進まない」のところに来て、「鼻につく」どころか、自国のことを他人事のように表現するこの風潮に「こんちくしょう」という気持 ちになった。」
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=499
とおっしゃっているのを読んで、私はまったく同感し、これからは「この国」といわず「わが国」という言葉を使おうと思った。
にも関わらず、内実は、普天間の問題も、口蹄疫の問題も、疲弊し続ける財政問題も、この国を貶める法案の問題も、政治とカネの問題も、何ら解決せず、本質は全く変わっていないにもかかわらず、政権の頭がすげ変わっただけで、支持に転じてしまう「この国」の国民っていったいなんなんだろうかと思う。正直、私は胸を張って「わが国」ということを躊躇してしまう気持ちある。
私は管氏という人物について全く期待しておらず、鳩山氏と似たようなものであると思うが、鳩山氏にくらべて意固地、強情である部分さらに悪いかもしれない。民主党としてはいずれ明らかとなるに違いない管首相のボロが出ないうちに参院選を済ませてしまいたいのであろうが、野党は決してそうは問屋がおろさせないよう頑張ってもらいたい。政局を読むことにかけては天才的な小沢氏にしても、いまのところ表にでないほうが得策と考えているに違いないが、参院選が終われば当然のごとくふたたび鎌首をもたげてくるであろう。
それにしても今年は天候が不順である。春先の冷えと長雨のせいで、例年ならばいまたわわに実を結んでいる梅園の梅の実も、今年は極端に成りが悪い。他所でもそうと聞く。このまま冷たい夏に突入すれば稲作には深刻な影響がでるであろう。まさか赤松元大臣のお伊勢さんにたいする不敬が影響しているとは考えたくないが、天岩戸の神話と、大臣のサボタージュと今年の気象状況について、神々からの符号は一致するように思えてならない。