やっぱり、気楽にいこう!

つれづれなるままに

吉田松陰「草莽崛起論」

2008-06-28 06:07:54 | 青山繁晴さん解説
吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付

徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらるゝこと、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。幸に上に明天子あり、深く爰に叡慮を悩されたれども、□紳衣魚も陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず、事の成らぬも固より其の所なり。列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。徒に岸獄に坐するを得るのみ。此の余の所置妄言すれば則ち族矣なれども、今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし

松蔭が安政の大獄により処刑されたのは安政6年(1859年)10月27日、これはその死の半年前、萩の野山獄にあってこれを書いた。
松蔭は常人なら絶望の淵におかれる状況で、いまだ日本の未来にたいする希望を捨てなかった。実際かれの門下からは高杉晋作などが出て、国家を救済した。

「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。」

 憲法改正問題、ロシアや中国とにおける領土問題、対北朝鮮問題、チベット問題、官僚の腐敗等、等、等・・・

「今の政治家も役人も酔人に等しいので、国家を救うすべをもっていない。草莽崛起の人を頼る以外ない。」

「草莽」とはつまり何の地位も身分もないわれわれのこと。「崛起」とは立ち上がること、声を挙げることである。



東シナ海ガス田開発のウラ、青山さんの解説

http://jp.youtube.com/watch?v=fRDSefyhBz0&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=UmmLrdwU4Gs&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=m7vzwMSf4fU&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=Ds5uk4UYFpQ&feature=related
 
『神皇正統記』を読む、更新しました。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsanpo/

憲法九条とフリーチベット

2008-06-26 11:59:44 | チベット
 今年の3月14日、ラサにおける中共による大弾圧の後、北京オリンピックの聖火リレー等において、世界中の良識ある人々がフリーチベットの声を挙げたのは何ゆえであろう。

 それは、中共の非道が世界中に白日のもとにさらされたことが契機であったことはいうまでもない。  

 であるが、ひとつにはチベットが東洋の神秘とでもいうべき、仏教思想に基づいた理性的な統治者であるダライ・ラマを頂点とする極めて特異な政治形態と、チベット仏教文化が消滅にさらされていることの世界中の人々の危機感、そして中共に国を奪われたチベット人たちへのシンパシーの表現にほかならないからであろう。
 もうひとつは未だに苛政を人民に強制する、共産主義国家への世界中の人々の嫌悪感と恐怖感の本能的な現れであると私は考えている。

 1945年、日本政府は涙をのんで、ポツダム宣言を受け入れ大東亜戦争が終結した。
 いっぽうシナにおいては日本軍との戦闘において疲弊した蒋介石の国民党軍との内部抗争において、中国共産党が勝利を収め、中共軍がシナ全土を制覇したのが1949年。

 中共はいよいよ周辺諸民族国家への侵略の野心をあらわにし、1951年5月には北京においてチベット国大臣(カロン)のアポ・アワン・ジクメーを団長とする、5人のチベット政府代表団にたいし、中国軍のチベット入りを許可し、チベットの外交権を中国政府に委譲する旨が規定する内容の、いわゆる「中共・チベット17ヶ条協定」を強制的に締結させた。
http://www.tibethouse.jp/history/19510523.html

 結果として中共軍は、同年9月9日ラサに侵攻し、これに不満をいだくチベット国民は1957年3月10日一斉蜂起し、中共軍はこれにたいして大弾圧を行い、8万7千人ものチベット人が虐殺され、ダライ・ラマ法王はインドに亡命することを余儀なくされた。以下のリンクはダライ・ラマ法王ご自身によるこの日の記述である。
http://www.tibethouse.jp/history/19590310.html

 このように日本が戦争に負けたことと、チベットが中共に侵略されたことにはおおいなる関係があるのである。

  おしむらくはチベットが隣国のネパールのように、世界情勢に細心の注意を払い、国境の軍備を固めて、防衛政策に万全の力を入れておれば、このような悲劇は回避されたかもしれない。
 チベット東部の人々は「カムパ」とよばれ、勇猛果敢で、血気盛んなことで知られるが、このような人々を中心に近代的軍隊を組織し、最新の装備と、軍事訓練を施していれば、かれらはかならず仏法とダライ・ラマを守る強靭なチベット国軍として必ずや中共軍の侵略を駆逐し、国土の防衛の任務を全うしたのに違いない。
 だが、国防に関しては吐蕃王朝滅亡以来、シナの歴代王朝に依存し、ながらく鎖国を続けてきたというチベットの特殊事情のなか、当時十代で法王に就任することとなったダライ・ラマ14世にそれを求めるのは酷というものであろう。

 このようにチベットの歴史をみれば、国家の平安というものは軍事力によって維持されることがあきらかである。

 同様に日本の戦後の平和が「憲法九条」によって守られたなどというのは幻想である。戦後60年間日本が戦争をしなかったのはたんに戦争をする必要がなかったから、という理由以上のものでも、以下のものでもない。もしも「憲法九条」を改憲したら、ふたたび日本軍が他国を侵略するかもしれない、などというような暴論がよくもまあ今日までまかり通ってきたものだと思う。

 このところチベット問題に関連して、わたしは戦前、そして戦後の日本について思いを寄せることが多い。「憲法九条」などというものは、戦前の日本の軍事力を恐れた、西欧列強や共産主義勢力が「日本人としての筋金」を骨抜きにするためにいっぽうてきに押し付けたものにすぎないのである。

足助次郎重範

2008-06-23 07:23:10 | 歴史
 私の郷土は市町村合併によって「愛知県豊田市」になってしまったが、以前は「東加茂郡足助町」であった。
「足助(あすけ)」とは初代重長から八代重政まで、南北朝時代以前に三河の国のこの地を領した足助氏一族に由来する。

 足助氏は一族郎党勤王思想の家系であったことがうかがわれる。

 承久三年(1221年)の後鳥羽上皇の倒幕計画において(承久の変)、三代足助重成はこのとき、上皇の檄に応じて馳せ参じ、京都で北条泰時の軍勢に破れて討ち死にしたという。

 特筆すべきは七代足助次郎重範である。かれは忠君愛国の烈士であった。

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒のため、山城の国笠置山で挙兵するに重範は先駆けて応じた。強弓の名手として知られた足助次郎は、参集したおよそ二千五百名のもののふの大将として笠置寺篭城戦を奮戦した。

 『太平記』によると、かれは笠置山の東口につめかけた伊賀・伊勢・尾張・三河・遠州の兵、二万五千余騎にむかって、

「三河国の住人足助次郎重範、忝くも一天の君にたのまれまいらせて、この城の一の木戸を堅めたり。前陣に進んだる旗は美濃・尾張の人々の旗と見るは僻目か」

 と名のりをあげ、強弓をひきしぼって二町あまりはなれた荒尾九郎・弥五郎親子を二矢に打ち倒したという。

 しかしながら二十日あまりの戦いの後、圧倒的な兵力を擁す六波羅軍によって笠置山は落城を余儀なくされ、後醍醐天皇は隠岐に流され、大将重範は京の六条河原で斬首された。

 さらには元弘三年(1333年)足助一族は、新田義貞の鎌倉幕府攻撃にも参加した。このとき足助三郎太郎重信、足助卿房賢尊、足助佐渡四郎重連、足助孫三郎重成等も討ち死にしたという。
 以後、足助氏の勢力は衰退し、八代重政が興国年間(1340~46年)宗良親王とともに東国に去るに及び、歴史上からその姿を消してしまった。

 この七代足助次郎重範が祀られているのが、「足助神社(愛知県豊田市足助町宮ノ後)」である。

 今日は同じく忠君愛国の士「殉国七士」の月命日である。この足助神社に詣でてから、三ケ根山の殉国七士廟に向かおうと思う。

対北朝鮮外交、青山さん解説

2008-06-20 09:20:00 | 青山繁晴さん解説
 安倍前首相が18日の講演で「政府以外の人が甘いことを言って(北朝鮮と)交渉するのは百害あって利権ありか、とも言いたくなる」と日朝国交正常化推進議員連盟の活動について批判した。

 これにたいして同議員連盟の会長である山崎 拓氏は「北朝鮮利権とは全く関係ない。誹謗中傷する政治家の人格を疑う」「(安倍氏の発言は)名誉毀損に相当する。取り消しと謝罪をもとめる」と反論したが(20日読売新聞朝刊)、人格を疑われるべきは、山崎氏のほうであると思う。

 安倍さんは全く正論を述べているのにすぎない。以下の青山さんの解説をみれば山崎氏のほうが売国奴に等しいことは明白である。福田さんも国民にたいして嘘をついていることがわかる。
 ぜひご覧になっていただきたい。

08.6.18.青山繁晴がズバリ!1/5


08.6.18.青山繁晴がズバリ!2/5


08.6.18.青山繁晴がズバリ!3/5


08.6.18.青山繁晴がズバリ!4/5



帰ってきました

2008-06-19 20:12:12 | 仏教者ネットワーク
増上寺で開催された「チベットの平和を祈る僧侶の会」から帰ってきました。
メディアの発表では160人ということだったが、そこまでいかなかったかも・・・

結果として一般のかたがたも参加できたのであるが、このことをもっと積極的にPRできれば参加者ももっと増えていたことであろう。

私は受付で外にいたため、あまり会の内容は見ることはできなかったが、会場の外では幹事の青年僧侶のかたや、尼僧さん、ボランティアのお手伝いの方、ミクシィのかたなどとだべったりして、けっこう楽しかった。

代表の熊本の蓮華院誕生寺御住職の川原英照さんはたいへん気さくなかたで安心したし、円教寺の大樹玄承さんや小林秀英さん、タシさんの募金で協力した井川さん、良道さんや、星さんとの再開はうれしかった。長野の善光寺の聖火リレーボイコットを主張された中心人物である若麻績敬史さんもいらしていてお知り合いになれた。

裏方としてがんばってくれた長野の岡澤さんや、秋田の久米さんには心からおつかれさまでしたと申し上げたい。

東京に行ってきます

2008-06-17 19:26:24 | 仏教者ネットワーク
小林秀英さんのご推薦で、いちおう幹事の末席に加えさせていただいている、増上寺で開催される「宗派を越えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」に参加するために、明日から東京に行ってきます。

http://www.geocities.jp:80/supersamgha/

特別顧問には全日本仏教会会長の松長有慶高野山真言宗管長が就任され、おなじく顧問に就任される渡辺貞夫さんの演奏もあるそうだ。来賓はチベット問題を考える議員連盟の枝野幸男さん。川原代表は、僧侶500人以上の集結を目指されており、なんだかすごい会になりそうだ。

今回は比較的時間に余裕があるので、靖国神社にもゆっくり参拝できそうだ。


「神皇正統記を読む」更新しました。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsanpo/


三ケ根山の殉国七士廟

2008-06-16 20:31:56 | 殉国七士廟
 先週の土曜日(6月14日)、三ケ根山にある殉国七士廟にお参りしてきた。

 *殉国七士とは、大東亜戦争戦争後の東京裁判において、連合国側から「A級戦犯」と決めつけられて処刑された7人の国家指導者たちのことである。

 昭和23年12月23日未明、東京裁判により、「A級戦犯」とされた七人の絞首刑が巣鴨拘置所において実行された。(この日はいうまでもなく当時の皇太子、今上天皇のお誕生日であるが、これは連合軍の嫌がらせという説もあるが、しかしかえってこのことで、この日にちは日本国民の記憶にはっきりと残るであろう。)

 七人の遺骸は、横浜市久保山火葬場において荼毘にふされ、東京裁判で被告の弁護人を務めた三文字正平弁護士、火葬場に隣接する、興禅寺住職市川伊雄師は、米軍の厳重な監視の中、七人の遺骨の一部の奪還に成功した。
 その後、この遺骨は、熱海の松井(岩根)家に移され、昭和24年5月3日、同市内伊豆山の興亜観音に密かに祀られた後、昭和35年8月16日、遺族の同意のもとに財界、その他各方面の有志の賛同を得て、松井石根大将の郷里である、三河湾国定公園三ケ根山頂に建立された墓碑に分骨され、安置されることとなったという。

 当日は東條大将のお孫さんである東條由布子さん。『日本人の知ってはならない歴史』の著者である若狭和朋先生。日本会議西三河支部幹事長の杉田謙一さん、三ケ根山の休憩施設「ゆうとぴあ三ケ根」にて殉国七士廟のお世話や無料案内を行っている伊藤 弘さん、フリーチベットイン名古屋代表の林英樹君らと「かんぽの宿三ケ根」にて食事会を行った。

 ところで東條英機元首相の名前を私が始めて知ったのは、中学生の頃、歌番組の『ザ・ベストテン』に歌手の西城秀樹が出演したおり、司会の黒柳徹子が「東條英機」の名を引き合いに出して、(東條さんは)「戦争を始めた悪い人」と紹介した時である。
 学校での日本史の授業においても東條さんの評価は似たようなもので、私が尊敬する司馬遼太郎さんでさえも東條元首相について、以下のように酷評している。

 たとえば東条英機という人は、ふつうのつまらない人であります。せいぜい町内会長が務まる程度の人でして、いまここにもし東条が生きていて、「東条さん、あなたはむちゃをやりましたね。どうゆう了見ですか」と言っても何の答えも出てきそうにない人ですね。
(『昭和という国家』より引用)

 日米開戦時の最高指導者であった東條英機元首相にたいする戦後の評価はおおむねこのような芳しくないどころか、戦争を始めた極悪人の印象が強いのではないだろうか。
 東條さんや家族のかたがたが、戦後いっさいこのことにたいして、弁明をしなかったし、戦争でひどい目に会った人々(司馬さんも含むであろう)からの怨念が東條元首相一身に向けられてしまったので、それも無理のないことであろうとは思う。
 しかし戦後教育のマインドコントロールが解けはじめた私にとって、佐藤早苗氏の東條家に関する著作や、東条由布子さんの著作を読む限り、東條元首相は、家族にたいして非常に情愛の強いかたであったことがあきらかになった。

 このようなかたが「極悪人」とは私にはとうてい思えないのである。

 東條大将の妻、勝子さんは、首相夫人に似合わないくらい素朴で気配りのあるかたであったと佐藤さんの著作には描かれていたが、お孫さんの由布子さんも、私どものようなものにお茶を入れてくださったり、丁寧な言葉をかけてくださったり、さまざまな心配りを頂いた。

 このような人々にいまなお慕われている東條大将ははたして「極悪人」であったのであろうか?「旧日本軍=悪」の図式から脱却するとともに東條大将はじめ七人の殉国者たちの再評価も行われてしかるべきであると強く感じるのである。

 ところで殉国七士廟に参拝して私が三つ決意したことをここに記す。

一、毎月、23日の殉国七士の月命日にはかならず三ケ根山に参拝する。

二、もはや高齢になられて、このままでは貴重な体験をあの世に持っていかれてしまうであろう戦争体験のあるお年寄りにはできるだけお会いして、お話を聴き、記録を後世に伝える。

三、今月の28日から岐阜市内において行われる、若狭和朋先生の勉強会に参加して戦後教育における歴史観から脱却するとともに、日本人としての誇りを回復するための歴史を新たに学ぶ。

 また、これまで私は「右翼」「左翼」という言葉がどうにもしっくり感じなかった。

 で、これからはいわゆる日本国の伝統文化を尊重し、また同様に外国の人々の愛国心をも理解に努めつつ、中共等による内政干渉を払拭し、憲法を改正して米国の軍事的束縛から脱却し、日本国民としての誇りを回復しようとする立場を「憂国派」、戦前の日本軍国主義を悪とし、米国におしつけられた東京裁判史観と憲法九条の堅持をよしとし、中共等におもねる立場を「自虐派」と呼称しようとおもう。


*殉国七士(職名は終戦時のもの)

東條英機元首相、陸軍大将。

松井石根中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、陸軍大将
(上海事変、および南京事変時の総司令官)

土肥原賢二第12方面軍(国内)兼東部軍管区司令官、第1総軍(国内)司令官、陸軍大将
(北京語に堪能で、華北分離工作を推進し、満州国建国に携わる)

広田弘毅元首相
(外交官、外務大臣として「共和外交」を推進。二・二六事件後首相に就任し、軍部大臣現役武官制を復活させた。支那事変勃発時の近衛内閣の外相であり、このことで文官として唯一の死刑判決を受けた)

板垣征四郎第七方面軍(シンガポール)総司令官、陸軍大将
(満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣等を務めた。石原莞爾らと謀り、「満州事変」を実行した。「頭に祭り上げられる型の軍人」と評する声もある。

木村兵太郎ビルマ方面軍司令官、陸軍大臣
(東条内閣における、東条陸軍大臣のもとで次官を務めた。ビルマ戦線において、隷下部隊や、日本が支援したビルマ政府のバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース主席や日本大使館員や民間人を置き捨ててラングーンを航空機で脱出し、敵前逃亡したことで有名。)

武藤 章第14方面軍(フィリピン)参謀長、陸軍中将
(盧溝橋事件において、参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張し、中支那方面軍参謀副長として赴任した。陸軍省軍務局長として対米開戦を推進し、近衛第2師団長、第14方面軍参謀長を歴任し、参謀軍人として著名な司令官のもとで軍務に尽くした。)

おばさんたちの非常識 NHK番組改編訴訟

2008-06-13 09:49:23 | 社会
 従軍慰安婦問題を取り上げたNHKの番組が放送前に改編されたとして、取材に協力した市民団体「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」(バウネット、東京)が、NHKと制作会社二社に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が十二日、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)であった。横尾裁判長は、事前説明通りの番組になるという取材対象者が持つ期待(期待権)は「原則として法的保護の対象とはならない」との初判断を示した。その上でNHKなど三社に賠償を命じた二審東京高裁判決を破棄、原告側の請求をすべて退けた。バウネットの逆転敗訴が確定した。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/98442.html

 それにしても原告の人たちは非常識な人だと思う。

 テレビ局が、自分たちの都合のいいように、番組を編集することなど当たり前のことだからだ。逆にいえば視聴者は、テレビの、特に報道番組とはそのようなものだと割り切ってみなければならないということだ。
 このような裁判が一審、二審とも原告側の勝訴に終わっていることも非常な驚きである。いちいちこのような訴えが裁判で認められていたら、テレビ局などというのは存続できなくなるか、そうでなければ自由な報道など完全に不可能となることだろう。
 この裁判が原告敗訴に終わってよかったことはよかったのであるが、最高裁まであがってきてしまったことにそら恐ろしさを感じる。この裁判の恐ろしさは人権擁護法案にもつうじるからだ。もしも人権擁護法が成立してしまったら、怪しげな「人権団体」による申し立てでも、日本国民は受け入れなければならない法的根拠が生じてしまうからだ。

 原告の人たちは非常識な人たちだ。しかしやっていることは確信犯的だ。もしもこの番組がいわゆる「従軍慰安婦問題」について戦前の政府を徹底的に糾弾する内容であれば、ぜったいに訴訟などしなかったはずだからだ。

 ところで「従軍慰安婦」などという言葉をメディアはもう使わないで欲しい。そもそもそんなものは絶対に存在しなかったはずだからだ。若狭和朋氏の著作にはこのようにある。

 私の老母(94歳)は南支那派遣軍広報第一陸軍病院の総婦長を命じられ、三年間の戦地勤務を経験している。老母は「従軍慰安婦」の語を嘆いてやまない。
従軍記者、従軍カメラマン、従軍技師・・・これらは軍属である。当時には「従軍慰安婦」などバカげた言葉は存在しなかった、と老母は今日の日本人の無知を嘆く。高校教師の私には「生徒さんには正確に教えよ」と訓戒する。
以上引用

「従軍」と名のつく職業は、いわゆる「軍属」(戦闘任務以外の軍に必要な用務に従事する人達を総称した用語で)であり、れっきとした国家公務員であったそうだ。
 旧日本軍は、春を売る人々を、公務員として採用していたのか?まったくバカげた話である。逆にいえば公務員としてそのような女性たちを採用していたのなら、彼女たちの人権を侵害していることには全くならないではないか。

 私は性風俗業は立派な職業だと思っている。もちろん人によって好き嫌いはあるであろう。私がそうゆうところに好んでいくというわけでもない。けれどもたとえば身体に障害をもつかたを相手にするこのような職業の人々はある意味崇高な存在に思える。
 このような訴訟を起こしたいわゆる「左翼空想平和主義おばさん」たちの偏向した考え方からは、性風俗に従事する女性たちにたいする差別意識が垣間見えてくる。


軍国主義ってなんだ?

2008-06-11 17:47:46 | 歴史
「日の丸は戦前の軍国主義を思い出させる」

日教組の教師や、左翼空想平和主義おばさんらの定型フレーズである。

だけど「軍国主義」っていったいなんだ?

私たちはいままで、歴史の授業等で、無批判に戦前の日本は「軍国主義」体制であったとおもわされてきた。

広辞苑の「軍国主義」の定義によると「一国の政治、経済、法律、教育、などの組織を戦争のために準備し、軍事力による対外発展を重視し、戦争をもって国家威力の発現と考える立場。ミリタリズム。」
とある。

ならば戦前の欧米列強すべてが軍国主義ではなかったのか。つまり戦前の世界では「軍国主義」こそグローバルスタンダードだったのである。

みんな同じことをやっていたのに、たまたま戦争に負けた日本、ドイツ、イタリアの枢軸国側ばかりが反省させられて、勝ったほうの連合国側など、まったく反省もしていないし、植民地とした国々に謝罪の一言も述べてはいない。

たとえば日本にたいしては、米軍の大都市空襲による民間人の大量殺戮や原爆投下、日ソ不可侵条約違反にして、しかも終戦直前を知りながらのソビエト軍の満州および北方領土への侵攻など、これら戦勝国の明白な戦時法違反、非道行為が各種軍事法廷においていっさい不問にふされているのである。
特に米軍による原爆投下など、ナチスのユダヤ人迫害に匹敵するほどの「平和にたいする罪」「人道にたいする罪」以外の何ものでもない。


あれから60年たっても「勝てば官軍」の一言ですましてしまっては、私たちはあの戦争で命を落とされた人々にたいしてあまりにも申し訳のないことである。

であるから靖国神社の重要性は日に日に高まっていくのである。

天皇陛下の御親拝、そして日本国首相が堂々と靖国に参拝することが切に望まれてならない。



「神皇正統記を読む」更新しました。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsanpo/