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つれづれなるままに

沖縄メディアの異常性

2012-02-03 08:30:25 | 政治
2月5日に公示される宜野湾市長選をめぐって、沖縄防衛局長が選挙に介入したとして批判されている。こちら(本土)側にいる人間にとってはいまいちピンとこない話ではないだろうか。

ようするに、沖縄防衛局の真部局長が職員にたいして「ぜひ投票所に足を運ぶようにしていただきたい。親戚にも投票所に行くようお話ししていただきたい」と語った、ただそれだけの話なのである。

こういったことは中央、地方の首長選挙にさいして、各県庁、市役所内においてはよくあることではないかと思う。ようするに暗黙の了解で、役所としては誰々の候補のほうに当選してもらったほうが都合がいいので、みなさん協力してください、といったという、ただそれだけの単純なお話なのである。

ところが宜野湾市というか沖縄の場合は、こうしたどこにでもあることが、どうしてメディアの総スカンをくい、国会の参考人招致にまで発展するほどややこしくなってしまうのか。

このあたりの事情は以下のブログに詳細に説明してあるので、ぜひ参照していただきたい。

狼魔人日記
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925

いうまでもなく宜野湾市は米海兵隊の所属する普天間基地を擁する。

簡単にいえば、沖縄のメディアは今回の宜野湾市長選において、元市長で左派、反基地派の伊波洋一氏に落選してもらっては困るのである。対するのが現県議で保守派、基地容認派の佐喜真淳氏である。
尖閣諸島が所属する石垣市では、昨年の中国漁船の領海侵犯問題もあり、昨年は長年市政を牛耳ってきた左派の市長が落選し、保守派の中山義隆氏が就任した。中国の脅威をひしひしと感じる最前線地域であればこそ、市民としては当然の選択であろう。左翼メディアがいまだに大手を振って歩いているのは、全国的に沖縄という特殊な地域以外にないといえるが、そうした状況は変わりつつあると感じる。
であるからこそ沖縄のメディアは必死になって、基地容認派の揚げ足とりをしているのであろう。

沖縄メディアは、以下狼魔人日記に示されているように、沖縄防衛局長を批判するなら、宜野湾市職員労働組合の露骨な反基地派の市長候補に対する支持行動も批判するべきであるはずだ。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/d/20120201

ようするにかれらは基地容認派の行動は何をやっても批判するのに、反基地派の行為は何をやっても批判しないのである。あきらかに偏向報道を堂々とおこなっているのが沖縄メディアなのである。

2月12日に結果があきらかになる宜野湾市長選は要注目である。

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1 コメント

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self-will (noga)
2012-02-03 11:04:20
太平洋戦争において、日本軍が十分な軍事力を示すことができていたならば、米軍は、沖縄に近づくことはなかった。したがって、沖縄戦もなかった。力を軽視する人間には、力量の判定はできない。テクニカル・ノックアウトの判定を下す能力のない指導者が権力を握っていると、民の命はいたずらに消耗するばかりである。力は正義である。力を軽視する風潮が人命を軽視する習慣につながっている。我々が自らの力を抑止力として十分に示すことができれば、正義はわが方についてくる。(Might is right).
昔、「コーラは○○○、ボクシングはヤマトダマシィ」という宣伝文句があった。
闘争には、大和魂が有効であるということであろうか。大和魂とは、負けじ魂のことなのか。大和魂を発揮して頑張れば、その結果は沖縄戦のようになるというものであろうか。

悪くないものを悪いと言わせようとする恣意がある。これも、腹芸か、大和魂か。
その恣意が政治問題を何十年も膠着させている。
普天間基地の環境がどうしても我が国民に許しがたいものであるならば、政府は福島の第一原発のように「長期帰還困難区域」に指定すればよい。
この国の政治には、恣意の人でなく、意思の人が必要である。
さすれば、腹案ではなく、成案をもって問題は決着できる。

問題を解決する能力はないが、事態を台無しにする (ちゃぶ台をひっくり返す)力は持っている。
だから無能力の我々は、常に耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、もって万世のために太平を開かんと欲しなくてはならない。
和をもって尊しとなす。過ちは、繰り返しませぬから。
これは単なる感傷ではなく、我々自らの叡智をもって裏付ける行動に出なくてはならない。

日本人には意思 (will) がない。
意思は未来時制 (future tense) の内容である。
日本語には時制がない。
日本人には意思がない。

英米人の子供には意思がない。
この点で日本人のようなものである。
思春期を迎え、言語能力が発達すると、意思を表すことができるようになる。
英米流の高等教育 (大人の教育) が可能になる。これは、さらなる英語の教育である。
日本語脳の持ち主には、大人の教育の意味は理解できない。
日本人は英米流の大学教育を高く評価もしないし、効果も上がらない。

子どもには意思がない。
だから、子供には保護者 (chaperon) がついてきて、それを代行する。
日本政府にも、意思決定が難しい。
だから、アメリカ政府が意思決定を助けてくれる。
日本人の誰もが指摘する通り、我が国の政府は、アメリカ政府のポチである。
日本人が、この道を脱却できるかどうかは、英米の高等教育の習得の成否にかかっているといえる。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

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