黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

向山炭鉱の全貌

2012-11-28 00:46:37 | 産業遺産
以前の記事で一度取り上げたことのある、
佐賀県伊万里市にある向山炭鉱跡。
その時は海岸線の遺構しかわからず、
小規模な炭鉱だったんではなかいと思っていました。
しかし、先日『向山』というタイトルの、
おそらく閉山時かそれ以降に編纂されたと思われるアルバムを発見し、
実は向山炭鉱が巨大な炭鉱施設だったことを知りました。

向山炭鉱跡

これがその表紙です。
閉山記念ともなんとも書かれておらず、
また奥付にも年号のクレジットがないので、
いつ何の為に作られたアルバムかはわかりません。





向山炭鉱跡

しかし表紙をめくると最初に織り込みの地図があり、
なんとそこに向山炭鉱の全貌が書かれてあります。
※クリックすると施設名が読めるサイズの画像が見れます。
※小さい場合は、拡大や「実際のサイズで見る」にすると見れます。
この地図を見る限り、海岸から内陸に向かって、
少なくとも3km奥まで炭鉱施設があったように書かれています。
また坑口もざっと見ただけで3つはあったようで、
その規模の大きさがうかがえます。

なお地図の中央左よりに制作者のかたのコメントがありますが、
それを見ると「昭和63年(1988)」の年号があり、
また地図の作成者の成坂さんは、
奥付に「撮影・複写・編集」のクレジットがあることから、
恐らくこの写真集はその頃印刷されたものではないかと思います。





向山炭鉱跡

向山炭鉱の創業は大正元年(1912)にまで遡ります。
写真集ではただ「坑口」と書かれ、向山の最初の坑口とありますが、
果たしてそれが何と言う坑口かはわかりません。





向山炭鉱跡

地図のほぼ中央に「本坑口」の表記がありますが、
この写真が本坑口のようで、
確かに入坑口のアーチ上には「本坑」と書かれています。





向山炭鉱跡

写真集には「一枚坑坑口」と書かれた写真もありますが、
地図を見る限り、そのような名称の坑口はみあたらず、
逆に地図には「西坑口」(下より) や「新坑口」(上部右より) などがあり、
坑口もかなり造られていたことが分かります。
なお巻末の略年表を見ると、一枚坑という坑道は、
閉山間際の昭和35年(1960)に開発された坑道のようなので、
この地図に描かれた様子は、造られる直前のものなのかもしれません。





向山炭鉱跡

坑内も複線軌道だったようですね。





向山炭鉱跡

降炭エンドレス軌道。
エンドレスとはエンドレス状態のロープを回転させ、
そのロープに付いた引っかけに車輛を連結して運搬する方法。
写真を見る限り、地上施設もかなりの規模だったことがうかがえます。
またトロッコが木製なのが時代を感じさせてくれます。





向山炭鉱跡

そのほか、主に女性が従事した、
掘り出された鉱石から、石炭とそれ以外の廃石を選り分ける、
手選と呼ばれる作業場の光景や、





向山炭鉱跡

バウム水洗機と呼ばれる、近代的な石炭の選別機など、
炭鉱施設の詳細がわかる写真が多く掲載されています。
残念なのは、全ての写真に撮影年月などが書かれていないので、
どれがいつ頃の写真かまったく分からないことです。





向山炭鉱跡

これは地図で言うと右上寄りに書かれた新坑口付近の様子だと思います。
画面中央から左に目を移すと、縦に黒いものが蛇行して並んでいるのが見えますが、
これが石炭等を運搬するトロッコの車列で、
その最下部のちょっとクネっと左に曲がった所が新坑口です。
そして海に向かって桟橋が延び、その先に船積み施設が見えますが、
これがまさに以前の記事でアップした、
海上に残骸として残る遺構の部分です。
また画面左上寄りに白く四角い建物のようなものが見えますが、
これが坑道からトロッコを引き上げる捲上機がある施設。
そして、以前の記事の2番目にアップしてある画像が、
その施設の土台だったところになります。





向山炭鉱跡

また写真集には炭鉱のものばかりでなく、
当時の生活を伝える写真も多数掲載されています。
写真の下には「川南工業各工場対抗」の野球大会とあり、
昭和21年8月25日の日付も見えます。
川南工業とは、通称「伊万里造船所」の名でも知られる、
伊万里湾に面した海岸沿いにあった巨大造船所のこと。
昭和12年(1937)に、向山炭鉱は、
川南工業に譲渡され、以降川南工業の経営下になります。

そしてこの記念写真の背景に写る建物が、
おそらく川南工業造船所の建物だと思いますが、
完全な迷彩塗装の跡が見てとれます。

川南造船所は、戦中、軍用船の製造を行ない、
特に末期には特殊潜航艇の製造を行なっていたので、
当然、迷彩塗装を施す必要があったのだと思います。

この造船所に関しては、拙ブログでは特に詳しくアップしていませんが、
iPadやiPhoneをお持ちの方は、
iOSアプリ廃墟百花『さよなら、川南造船所』
をご覧になって頂ければと思います。(無料です)





向山炭鉱跡

「配給所内部」と書かれた写真。
男性の服装、そして配給所という言葉から、
恐らく戦中のものではなかと思いますが、
随分と充実した品揃えの配給所のように見えます。





向山炭鉱跡

浴場の風景。
子供たちが入っていることから、住宅棟内の浴場だと思いますが、
なんと24時間いつでも入浴可、さらに薬湯まであったと書いてあります。
例えば拙ブログでもよく取り上げる軍艦島こと端島炭鉱などを例にあげると、
住宅棟内の共同浴場は16時から21時と時間制限があり、
ましてや薬湯があったとは、一度も聞いたことがありません。
向山炭鉱の裕福な暮らしぶりがうかがえます。

向山炭鉱は昭和38年(1963)に閉山しますが、
約50年にわたる操業ですから、その期間も決して短くはありません。

もし機会があったら、
地図を頼りに向山炭鉱跡を探索してみたいと思います。

長崎産業遺産視察勉強会~池島炭鉱編2~

2012-11-25 00:25:04 | 池島炭鉱
前回の記事に引き続き、
今年の7月に行なわれたJ-ヘリテージ主催の、
『長崎産業遺産視察勉強会』に参加した時のリポートです。

J-ヘリテージは、現代社会が抱える様々な問題点を、
近代化遺産を振り返ることでその解決の糸口を模索しようとするNPO団体で、
様々な遺産の見学会を開催したりメディアで遺産の必要性を訴えている団体です。

そんなJ-ヘリテージが主催した『長崎産業遺産視察勉強会』は、
軍艦島の非見学エリアと池島特別見学コースの視察という、
とても内容の濃いものでした。
今回は池島炭鉱の視察のリポート後半です。

池島炭鉱跡

午後はおもに坑道内の見学。
6月にアップした池島の記事の冒頭で触れたトロッコに乗って、
ゆっくりと坑道の中へ入って行きます。
この坑道は地表と水平に作られた坑道で、
もともとはボタを棄てるトロッコの為の坑道でした。
なので、見学のために作られたあとずけのものではなく、
リアルな坑道です。





池島炭鉱跡

人数が40人と多かったので、
坑道内は二班に分かれての見学です。
ガイドをして頂いたのは、池島でお仕事をされていた堀之内さん。
電気関係のお仕事が専門でしたが、
炭鉱のあらゆる施設を熟知されています。
坑道に入るとまずパネルが設置されていて、
池島のあらましを知ります。
堀之内さんが指し示しているのは、
港が池だった時の池島。
この池には龍がいました!と超まじめお顔でお話されます。





池島炭鉱跡

その次は主に掘削作業に使う機器の見学。
画像の右に写るのはロードヘッダーという掘削機。
この機器に関しては以前の記事の中頃で触れているので、
そちらをご覧下さい。





池島炭鉱跡

その先にはドラムカッターとう大型の機械が動態保存されています。
この機器は、あるときは野外展示、ある時は坑外の建物の中と、
見学に来るたびにいつも異なった場所に置かれています。
そして今回は、坑内に設置されていました。
坑道内に模擬の炭層を造り、掘削の様子が具体的に分かる仕組みになっています。
左寄りに写る白いとんがりが沢山付いている部分で石炭層を削り、
中央下のコンベアへ落として行きます。
右寄り上部に写る白っぽい天井は自走枠とよばれる装置。
掘削機が掘り進むのに合わせて、
同じ方向へ進みながら作業スペースを確保する機器です。





池島炭鉱跡

自走枠の天井を見ると無数の水滴。
坑道内は湿度が高く、過酷な労働環境だということが分かります。





池島炭鉱跡

数々の掘削機を見た後は、
保安や安全に関する設備のコーナー。
画像はエアーマントと呼ばれる装置。
普段は黄色いパイプの左端に写る様に、
小さな袋が吊るさってるだけですが、
袋を拡げるとポンチョのような状態になり人が入れます。
黄色いパイプを通して頭上から空気が送り込まれます。
坑内で酸欠やガスが発生する等の、
非常事態の時の救命装置のひとつです。





池島炭鉱跡

画像はベルを鳴らすスイッチ。
例えば停止していたコンベアを再度動かす時に、
周囲の注意を促す為に、下の紐を引っ張りベルを鳴らしたりします。
ご覧になっておわかりのように、かなりぼってりしていますが、
これは爆発を防ぐ防爆型と呼ばれる装置で、
この小さな装置一つで10万円だそうです。
坑内の装置は、電話からスイッチ等、
殆どの装置が防爆型で作られているので、
それだけでも相当の設備投資が必要なことが分かります。





池島炭鉱跡

防爆スイッチの奥には小学生の習字が展示されています。
これらは島内に唯一ある学校の生徒のもので、
お父さんに元気をあたえるため、
作業場の様々なところに張り出されていたそうです。
ところで名前がダナやラーハンなど日本人の名前じゃないものがみえますが、
これは2001年以降東南アジアから研修で来た家族の子供の作品。
ラーハンさんは3歳の頃日本に来て、
池島で10年過ごしたので、本国より日本の方が良く知っています。
結局ラーハンさんの家族は研修終了後に本国には帰らず、
そのまま日本に残って仕事をしているそうです。





池島炭鉱跡

そして今回特別に見学コースに入っていたのが、
竪坑の下部から上を見上げる場所。
炭鉱の坑道はガスが発生し易く、
操業が終わるとすぐに埋めたり水没させたりして閉鎖しますが、
池島はこうしてまだ坑道を使える様にしているので、
通気の為の竪坑だけは現在もそのままの状態です。
遥か上方に蓋のようなものが見えますが、
この上に竪坑櫓が聳えたっています。
そして蓋のすぐ手前に横穴があり、
その穴が前回の記事で取り上げた扇風機に接続し、
坑内の空気を排気する、というしくみです。

サーチライトを消すと漆黒の闇。
かつては周囲に設置されたガイドレールに沿ってケージが上下し、
この暗闇の中を、地底何百メートルも下へ降りて行きました。
炭鉱の竪坑がこうして残っていて、
しかも見学出来るのは極めて希少なものです。

そのあとは岩盤を打ち砕いて坑道を造る、
発破の作業の行程等を説明して頂きましたが、
発破に関しても以前の記事で取り上げているので、
そちらをご覧下さい。→この記事の中頃





池島炭鉱跡

こうして丸1日の池島視察は終わりました。
参加された皆さんも、この濃い2日間から、
産炭地のかかえる問題や素晴らしさなど、
多くのことを持ち帰られたのではないでしょうか。

地底産業の実際を見られる機会は殆どありませんが、
池島にはその全てが残っています。
池島を見るということは、明治以降の日本が造り上げて来た、
技術の叡智を知る旅です。
そして地底という漆黒の自然環境との戦いの歴史を知ることです。

軍艦島では主に住宅棟を巡り、
坂本さんの生活に根ざした感情寄りのお話。
そして池島では主に炭鉱施設を巡り、
元炭鉱マンの方の炭鉱に根ざした技術的なお話でした。
これらの両方をセットで見て聞いて、
はじめて炭鉱とはどんな所だったのかを知ることができると、
今回の長崎産業遺産視察勉強会に参加して思いました。

長崎産業遺産視察勉強会~池島炭鉱編1~

2012-11-24 05:50:50 | 池島炭鉱
前回の記事に引き続き、
今年の7月に行なわれたJ-ヘリテージ主催の、
『長崎産業遺産視察勉強会』に参加した時のリポートです。

J-ヘリテージは、現代社会が抱える様々な問題点を、
近代化遺産を振り返ることでその解決の糸口を模索しようとするNPO団体で、
様々な遺産の見学会を開催したりメディアで遺産の必要性を訴えている団体です。

そんなJ-ヘリテージが主催した『長崎産業遺産視察勉強会』は、
軍艦島の非見学エリアと池島特別見学コースの視察という、
とても内容の濃いものでした。
今回は池島炭鉱の視察のリポート前半です。

池島炭鉱跡

池島炭鉱は長崎県中部の外海側にある小島で、
かつて島内に大きな池があることから池島と呼ばれていましたが、
1950年代の後半、炭鉱の開発によって池は港に改築され、
島の多くが炭鉱とその住宅施設に変貌した島です。
約40年にわたって操業した池島は2001年に閉山し、
その後約10年、東南アジアの研修所として使われ、
現在では全ての操業が停止しています。

軍艦島の視察は昼過ぎからの約2時間で、その足で池島へ。
軍艦島の視察中は運良く晴れていたましたが、
池島へ向かう途中、雲行きは再び怪しくなり、
フェリーから見る池島の上空には、重たい雨雲が乗っていました。





池島炭鉱跡

しかし島に着く頃にはまたまた運良く晴れ出し、
以降2日に渡る池島視察中は、ずっと晴天に。
港にはいつものように沢山の猫がいます。
島民が減少の一途にある池島では、
もはや島民より猫の方が多いと言われる程、
猫島化している島でもあります。





池島炭鉱跡

この日は夕方遅くに島に到着したので、
特に見学とかはなかったので、ちょっと島内を散策。
島の奥に建つ8階建てのアパートが、
夕日に照らされたオレンジ色に染まっていました。



夜は懇親会が開かれ、
約40人の参加者が自己紹介を兼ねて、
ご自分の活動等のPRをすることになったのですが、
みなさん、情熱的な方ばかりで話にも熱が入り、
結局それだけで終わってしまいました。
ご自分に関係のある地域活性化の活動をされている方や、
産業遺産の保存を考えている方等、
みなさん素晴らしい活動をされている方々でした。





池島炭鉱跡

翌朝の朝ご飯は、島内で唯一常営している食堂、
「かあちゃんの店」のまかないで合宿気分です。





池島炭鉱跡

午前中は坑外施設、つまり炭鉱の坑道以外の施設の見学です。
繰込所(あるいは発進所)は、
坑道へ仕事で入る前に待機して、装備の点検や準備をするところ。
正面には「あとでよりいまが大切 点検と確認」と、
いかにも炭鉱らしい標語が掲げられていますが、
実はこの掲示は、今年の夏池島でロケが行われた、
映画『池島譚歌』のロケ用に新しく設置されたものです。
※もしかしたら映画『信さん・炭坑町のセレナーデ』の時かも…
でも、本物より本物っぽいですね。





池島炭鉱跡

繰込所の建物の一階には、
操業時の写真が展示されたスペースがあります。
右側に写るのは上から三枚目の画像の8階建てのアパート。
もう今では灯りがともることのないアパート群に、
沢山のあかりが灯っています。



この後、様々な坑外施設を見学するのですが、
多くは以前の記事で既に触れているので、
そちらをご覧になって頂ければと思います。
・繰込所のある建物内の炭鉱風呂や管理室(この記事の中頃)
・繰込所のある建物の隣の第二竪坑の捲座(この記事の終わり頃)
・斜坑人車の捲上機(この記事の冒頭)
などなど





池島炭鉱跡

そんな中、
以前の見学時には外観だけを横目で見ていた画像の施設を、
今回はじっくりと説明して頂きました。
この施設は扇風機と言って、坑内の空気を循環する為の施設です。
下部に写る黒い筒の中に大型の扇風機が設置され、
坑道に繋がっている左側から右に写るラッパ状の吹出口の方向へ、
空気を排出する装置です。
炭鉱では、空気を送り込むのではなく、
排出することによって、別の坑口から自然に空気が入る様に作られています。





池島炭鉱跡

上画像の左側を見た所。2つの同じ構造物があります。
右は鉄の板があり左にはないように見えますが、
ないのではなく、下に降りています。
鉄の板が弁の役割を果たし、
今は右側の方が通気出来る状態にあることを示しています。
万が一右の扇風機が故障した際には、
即座に右の鉄の板を降ろし、左の鉄の板を引き上げて、
左側で通気を行なう仕組みになっています。
通気は坑道の中で働く炭鉱マンの命綱。
24時間、決して休むこと無く動き続ける必要があります。





池島炭鉱跡

坑外施設の見学の後は住宅棟エリアの見学です。
炭鉱アパートの中に一部屋だけ、
見学出来る様に解放された部屋があります。
内部はちょっと作り込みが多く、
あまり当時のリアルな生活を偲ぶことはできませんが、
それでも間取りやトイレ事情等、
炭鉱アパートがどのようなものだったかを知ることはできます。
それを見る限り、決して炭鉱アパートの部屋は広くはなく、
たとえ高給取りだったとしても、
その生活は派手なものではなかったんだと思います。





池島炭鉱跡

玄関のノブの下には、
「ヨシ!」と声をあげる炭鉱マンのイラストシールが貼られています。
このかけ声は炭鉱での仕事で、安全を確認する時のかけ声です。
後貼りかそれとも当時から貼ってあったものかはわかりませんが、
炭鉱アパートならではですね。





池島炭鉱跡

そのほか島内を周回する道も一回りし、
その周囲にある施設も一通り見学。
気になったのは画像の汚水処理施設。
汚水といってもいわゆるし尿処理。
果たしてこの装置がどう処理してくれるか想像もつきませんが、
島という環境は、
陸続きの生活以上の苦労がつきものなのだと実感します。

次回、池島炭鉱の後半は坑道内の見学です。

長崎産業遺産視察勉強会~軍艦島編~

2012-11-23 21:31:32 | 軍艦島(端島)
今年の7月に行なわれたJ-ヘリテージ主催の、
『長崎産業遺産視察勉強会』に参加した時のリポートです。

J-ヘリテージは、現代社会が抱える様々な問題点を、
近代化遺産を振り返ることでその解決の糸口を模索しようとするNPO団体で、
様々な遺産の見学会を開催したりメディアで遺産の必要性を訴えている団体です。

そんなJ-ヘリテージが主催した『長崎産業遺産視察勉強会』は、
軍艦島の非見学エリアと池島特別見学コースの視察という、
とても内容の濃いものでした。
まずは軍艦島の非見学エリアの視察のリポートです。

軍艦島

軍艦島の非見学エリアに関しては、
拙ブログで既に何度もお伝えして来ましたが、
今回はNPO法人軍艦島を世界遺産にする会の理事長、坂本道徳さんの案内による見学です。
坂本さんは小学校の時に筑豊の炭鉱から軍艦島へ来られ、
高校が終わる頃まで軍艦島で生活された方。
坂本さんとは個人的にも長くおつきあいさせてい頂いてますが、
実は住宅棟エリアを一緒に巡るのはこれが初めて。
果たしてどんな軍艦島が見えて来るのか、楽しみです。
見学会は、もしかしたら一般見学コースの、
第五見学所になっていたかもしれない、
小中学校のグランドからスタートです。





軍艦島

グラウンドを囲む堤防の内側に作られたモザイク。
左に写るのが坂本さんの奥様(奥様も軍艦島のご出身)の学年の卒業記念、
そして右に写るのが坂本さんの学年の卒業記念のモザイク。
ということは以前から坂本さんにうかがってましたが、
このモザイクを作るにあたって、技術科の先生が堤防の隅で試作をし、
うまくいったので卒業制作にすることにしたエピソードは知りませんでした。





軍艦島

そして小中学校に隣接して建つ、
島内最大の建物であり、坂本さんが閉山まで住んだ65号棟へ。
65号棟が戦中に建てられた建物であることから、
壁面の迷彩塗装にふれていました。
この日、上陸の直前まで雨が降っていたので、
棟の壁面が程よく濡れていて、
迷彩の様子がいつになくはっきりと確認できました。
65号棟は基本的には幅の広い黒斜線で塗られていましたが、
この建物の端にあたる部分は、
細い縦線で塗装されていたようです。





軍艦島

そして65号棟の9階にある、
かつて坂本さんがお住まいになっていた部屋へ。
玄関にはかつて坂本さんが作られた木製のポストが、
今も残っています。





軍艦島

そして玄関の脇には、
アルファベットを覚えたての妹さんが書いた自分の名前。
妹さんは、三年前に亡くなられたそうです。
坂本さんは、感涙を堪えながらお話されていました。
こうして妹さんの思い出が島内に残っているのは、
嬉しくもあり悲しくもあると思います。





軍艦島

65号棟ではその後屋上へ出て、屋上保育園を見学。
保育園の横にある園児が主に使う男子トイレには、
他のトイレにはない捕まり用のバーが設置されています。
初めて知りました!
おそらく戦後のことだと思いますが、
島内の細かなところを見て行くと、
荒くれ者の炭鉱街というイメージとは裏腹な、
ヒューマン・コンシャスな心遣いがそこかしこにあります。





軍艦島

65号棟の中庭でも、
中庭の奥にある床屋で中学から丸坊主にしなければならない話、
学校の校歌に軍艦島という言葉は出てこない話、
棟の壁面に残る金網が落下対策の張り出し網だったこと、などなど
坂本さんの話は止まりません。





軍艦島

そして地獄段を体験しながら島頂上の端島神社へ。
神社では今なお残る神殿の前に供えられた沢山のお神酒を取り上げ、
拙ブログでも何度もお伝えした、
軍艦島の民間研究家で3年前に亡くなられた小島さんのことに触れました。
じつはこのお神酒の殆どは小島さんが供えたものです。
ある意味、島の出身者よりも軍艦島を愛した人がいたことを、
忘れないでください。とおっしゃてました。
これが坂本さんの気持ちですね。





軍艦島

神社から下ったところにある日給社宅に残る足付きテレビでは、
なぜ沢山の家電が残されたままなのか、のお話。
閉山から3ヶ月という短い期間で島を出なければならなかったこと、
高給取りだったので、新天地で新しい家電を買えばいいと思ったこと、
そしてこの島はもう無くなるとおもっていたこと。
とその理由を挙げ、
閉山後三菱が島を売りに出していたことに触れ、
もしかしたら産廃のしまになっていたかもしれないと言及。





軍艦島

公民館の前では、島内唯一の死亡事故のお話。
島にはオート三輪が一台ありましたが、
かつて一度だけ子供を壁に挟んでしまったことがありました。
そして崩れた映画館からお寺をみあげ、
拙ブログでも以前の記事で取り上げた、
31号棟横の堤防の崩壊に付いて。
後年増築されたコンクリートの堤防が崩れても、
その中にしっかりと残る明治時代の堤防には、
やはり坂本さんも明治の土木技術の高さに関心されていたようです。

この後30号棟から鉱業所をまわって小中学校のグラウンドへ戻り、
約2時間の非見学エリアの視察会は無事終了しました。



話を聞きながら島内を回っていて一番感じたのは、
瓦礫の軍艦島からまったく瓦礫感を感じなかったということです。
話を聞きながら目の前の施設や建物を見ていると、
まさにそこに話の光景がありありと甦って来ます。

これこそが産業遺産の再生だと感じました。

建造物を奇麗に立て替えても、
そこにストーリーや体験談がなければ、
それはもの言わぬ廃墟と同じです。
逆に、どんなに瓦礫の状態でも、
底に語りという魂が吹き込まれると、
生き生きと再生して来るのを感じます。

せっかくここまで残しているのだから、
是非とも、こういった非見学エリアのツアーを、
これからもどんどん行なって行くのがいいと痛切に感じました。

『地形を楽しむ東京暗渠散歩』発売

2012-11-21 15:13:06 | ・東京暗渠
拙ブログのトップ記事にも取り上げている、
ムック『東京ぶらり暗渠探検』が好評につき、
地形で楽しむ東京暗渠散歩』として書籍化されました。



収録暗渠数が大幅に増量、
ムックで取り上げられた渋谷川、神田川、目黒川の支流の暗渠に加えて、
石神井川、吞川、玉川上水系の支流暗渠も取り上げ、
東京の山の手エリアの暗渠を殆ど網羅したものとなっています。
さらにムックで取り上げていた暗渠も、
その後の近況を含めて最新のものに書き換えられた内容です。

ムックでは殆どの画像が白黒でしたが、
今回はオールカラーなので、見応え満点です。

さらに『アースダイバー』以来人気のある地形の読み解きをとりあげ、
今回の書籍化では、地図が地形図に変わっています。
あたりまえのことですが、かつて東京に流れた数多の細流が、
すべて谷沿いに流れていたのが一目でわかって面白いです。

執筆陣もムック時の、
本田創氏(『東京の水 2009 fragments』)、庵魚堂氏(『世田谷の川探検隊』)、
三土たつお氏(『三土フォリオ』)、そして私に加えて、今回は
lotus62氏『東京peeling!』とnama氏『暗渠さんぽ』のお二方も参加。
尚、書籍化にあたり暗渠マスター本田氏の編・著のクレジットとなりました。

リンク先をご覧になってお分かりかと思いますが、
殆どの皆さん、暗渠だけを調べている方々ばかり。
ある意味、東京暗渠のエキスパートが結集した、
レファレンス・バイブル的な本になったのではないかと思います。

私はというと、たまたま神田川の笹塚支流と玉川上水の余水吐(よすいばけ)が、
個人的に意味のある暗渠だったんで、調べてみたまで。
この本に収録されているのも不思議な気がしますが、
ムック同様上記2つの暗渠で、スペシャル・リポートとして参加させて頂いてます。

ムックの発売から2年、今年の夏に、書籍化に向けて再探索に出かけると、
暗渠沿いには小さいながら様々な変化がおきていて、
静かな都市の鼓動を感じました。



地形を楽しむ東京「暗渠」散歩

著者 本田 創 編著
出版年月日 2012/11/26
ISBN 9784800300041
判型・ページ数 A5・240ページ
定価 本体2,400円+税

序 東京の暗渠
かつての川がたどってきた歴史とそこを探索する意味/暗渠探索のポイント

◎Ⅰ 渋谷川支流の暗渠 山の手地区南側を代表する川筋から都心部の地形を感じる
渋谷川(上流域)/玉川上水原宿村分水/河骨川/
宇田川初台支流(初台川)/宇田川/いもり川/笄川
Special Report 1 白金分水・玉名川・白金三光町支流を歩く

◎Ⅱ 神田川支流の暗渠 井の頭公園の池を源に、多くの支流を集める
桃園川/井草川/江古田川(上流域)/弦巻川/水窪川/蟹川/紅葉川/谷端川・小石川
Special Report 2 歴史が凝縮された東大下水をたどる
Special Report 3 神田川笹塚支流(和泉川) 時代の重なりを味わう
Special Report 4 存在わずか数十年 善福寺川支流・松庵川

◎III 目黒川支流の暗渠 世田谷全域と目黒区北部の水を集めた
北沢川/空川/蛇崩川/谷戸前川/羅漢寺川
Special Report 5 水源の池を求めて烏山川をさかのぼる

◎Ⅳ 呑川支流の暗渠 暗渠と開渠が交互に現れ、短いながらも多彩な表情を見せる
呑川(上流域)/九品仏川/駒沢支流・洗足流れ 

◎Ⅴ 石神井川支流の暗渠 中流域で支流の水を集め、下流域で多くの用水とつながっていた
貫井川/エンガ堀/田柄川/谷田川・藍染川

◎Ⅵ 上水・用水の暗渠 動脈と静脈の関係にあった上水・用水と山の手の川
玉川上水(暗渠区間)/千川上水/品川用水/三田用水
Special Report 6 玉川上水余水吐 遺跡の宝庫をめぐる

Extra Report 外堀通り下の暗渠 水道橋分水路を行く



iOSアプリ『軍艦島黙示録』vol.03 リリース

2012-11-18 00:33:24 | 軍艦島(端島)
iProductアプリ『軍艦島黙示録』

O project | RuinsAnthem for iProducts
軍艦島黙示録
Vol. 03『1972 青春 軍艦島』外伝

軍艦島を様々なアプローチで解き明かす、
iProduct用アプリの軍艦島黙示録シリーズ。
レティナ画像やiPhone5の画角変更への対応で、
かなり時間がかかりましたが、
vol.03をやっとリリースいたしました。

これまでのvol.01、02は、
オープロジェクトが撮り貯めた画像に、
オープロジェクトが自ら解説する内容でしたが、
今回は、ゲストをお迎えし、お話を伺う内容です。
ゲストは、写真家の大橋弘さんです。

iProductアプリ『軍艦島黙示録』

大橋さんは、軍艦島の閉山が近い頃、
組と呼ばれる下請けの仕事で、島に暮らしたことのある方です。
写真専門学校を出てから全国を放浪し、
行き着いた軍艦島に驚き、写真に記録しました。
その時の写真は、既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、
『1972 青春 軍艦島』(新宿書房) から出版されています。
この写真集がとても面白く、もっと話を聞いてみたいと想い、
今回の黙示録のテーマにしました。

iProductアプリ『軍艦島黙示録』

第1章では、
写真家、大橋弘さんの写真家になるまでのいきさつ。
そして第2章から第4章は、
軍艦島の普通では聞けない裏話満載のお話。
組に暮らす人々の人間模様や、破天荒な生活、
そして軍艦島でのお葬式の様子まで、
軍艦島のアナザーサイド。

iProductアプリ『軍艦島黙示録』

そして第5章では、37年後、
再び軍艦島を訪れた時の写真とともに、
今、軍艦島をどうお感じになっているかに迫ります。
37年後の軍艦島の写真は、
一部『1972 青春 軍艦島』の第二版にも収録されていますが、
今回、アプリのためにご提供頂いた70枚を、
全てギャラリーに収録してあります。



iProductアプリ『軍艦島黙示録』

更に今回から、本編とは別にシリーズコラムとして、
「知られざる軍艦島」をスタート。
軍艦島のあまり知られていない部分に焦点をあて、
毎回少しずつ紹介・解説していくコーナーです。
第1回は「65号棟の地下施設 その1」
島内最大の建物65号棟の中の、戦中に建てられた古い棟の地下は、
果たしてどうなっているのか。



尚、今回は大橋さんの撮下し写真を収録しているので、
一部無料ダウンロード後、残りは800円でのadd onとなります。
ただし発売記念として、、12/01まで450円でご提供。



ユニバーサル・アプリなので、iPad&iPhone、両方ご利用頂けます。



SCA talking book
O project | RuinsAnthem for iProducts
軍艦島黙示録 vol. 03 『1972 青春 軍艦島』外伝

著者:オープロジェクト
写真とお話:大橋 弘
画像と聞手:オープロジェクト
音楽:黒沢 永紀
開発:アトトック
企画・制作:エス・シー・アライアンス

iProductアプリ『軍艦島黙示録』

vol.01「軍艦島ベストビューコメンタリー」(完全無料) (左) と
vol.02『昭和のタイムカプセル』(一部無料) も、好評ダウンロード中!

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酉の市

2012-11-14 14:53:06 | 東京 URBEX
学生時代から毎年足を運んでいる、
花園神社@新宿の酉の市。
毎年、たいがい三の酉あるいは二の酉に行くが、
今年はスケジュールの都合上一の酉へ行くことにした。



熊手の飾り物を買って、主に商売繁盛を祈願する酉の市。
境内には100を越える熊手屋が軒を連ね、
購入者に贈られる、拍子木による三三七拍子が、
そこかしこから聴こえてくる。
場所柄客層は歌舞伎町界隈での店の経営者や従業員が多く、
境内は野外のホストクラブとキャバクラといった様相になる。







熊手を買わず、お祭り気分だけを味わいに来た客も、
参拝だけはしていくので、拝殿の前はいつも長蛇の列。
奉納金に応じて掲げられた行灯には、
伊勢丹や花園饅頭など、新宿で知られた店舗のものが並ぶ。







ごったがえす参拝客とせめぎあう様に、
露天も半端ない数が軒を連ねる。
焼きゾバやお好み焼きなどの定番の露天も多いが、
中にはここでしかお目にかかれない不思議な露天も出る。
20年以上ずっと同じ場所で営業する「フライ」と書かれた暖簾の店。
フライ…果たしてなんのフライなのだろうか?
一本100円の串カツの様なものだが、
100円で提供出来るフライの肉とは…
と、よからぬ想像を張り巡らせてしまう。







着席して飲食出来る居酒屋仕様の店も、
これまた沢山の数がひしめきあう。
ご祝儀の千円札を簪状に刺した粋な姉ちゃんがいる店など、
日常ではなかなか味わえない体験ができるのも、
また酉の市の魅力。







様々な出店が並ぶ花園神社の酉の市の中で、
ひときわ異彩を放つのは見世物小屋だ。
現在、国内で唯一定期興行をしている「大寅興行社」
こびとの方が太鼓を叩く呼び込みから、
鏡を使ったトリックによる首だけの生きた犬の展示、
そして大蛇や牛女の演目。
80年代の初頭に、初めて見た見世物小屋に、
それまで味わったことのない衝撃を受けたのを覚えている。
特に牛女と呼ばれる、膝の関節が逆に曲がる病気の方が、
舞台を徘徊する出し物の記憶は、
しばらくの間トラウマになっていた。







いつの頃からか牛女は出演しなくなった。
身体障害者の出演に規制がかかったのか、
また亡くなったのかはわからないが、
その後、ヘビ女と呼ばれるお峰さんがメインを勤めていた。
「好きで食べるのか病で食べるのか」のナレとともに、
生きたヘビを食べる演目は前座で、
本命は束ねた蝋燭の蝋を口にためて一気に火炎噴射する、
「口中火炎のうつし」
近年では、小雪さんという若い方が後継者として活躍されている。
また、牛女の時代からいて、当時は黒子的な役割をし、
牛女亡き後、ヘビの鼻通しの芸を一生懸命マスターし、
小雪さんが登場するまでの時代を繋いだ、
はるちゃんも重要なキャストだ。(今もいいるのかな)

かつて唐十郎の赤テントが掛かったことで知られる花園神社。
今では酉の市の時だけだが、大寅興行の見世物小屋が掛かる。
国内で唯一の異空間を、是非体験して欲しい。

大寅興行社の見世物小屋は、
毎年11月の酉の市@新宿花園神社で掛かる。
今年は11/20が二の酉。

足尾銅山 #10 選鉱場2

2012-11-13 08:34:56 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

前回に引き続き通洞選鉱場。

足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

前回の最後に触れた重液選鉱によって選別された鉱石は、
ボールミル[磨鉱機]と呼ばれる、
鋳造された硬質な玉が1000個入っている装置に入れられ、
0.3m以下まで粉砕される。
すなわちここでほぼ粉状態になる。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

上画像の反対側真横からの外観。
ボールミルもクラッシャー同様大きく、
立ち位置目線で機械の約半分の高さなので、
総高は約3mということになるだろうか。
重液で選別された鉱石は左から入り、
粉状となって右へ排出されるが、
左側の鉱石の注入口付近を見ると、





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

硫酸銅が大量に付着していた。
子供の頃、緑青は毒だと聞かされたが、
どうやら昭和の都市伝説だったらしい。
それにしても、銅が酸化した青緑色には、
不思議な魔力を感じる。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

ボールミルの頭上高くには、
床面のそこかしこに穴が空いている、
取って付けた様な部屋があった。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

中を見ると、壁一面にコントロールパネルがあるので、
どうやら集中管理室のようだ。
この部屋は選鉱場の立屋の中にあるのだが、
なぜか天井が抜け落ち、床一面に植物が繁茂している。
部屋の奥にはナショナルのNRシリーズの冷蔵庫。
思えばこれまで見て来た足尾は、
産業にまつわる遺構が織りなす異空間ばかりで、
時代を感じることは無かったが、
この冷蔵庫は足尾で初めて感じた時代感覚だった。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

ボールミルで細かく砕かれた鉱石は、
浮遊選鉱と呼ばれる行程へと進む。
ボールミルがあるレベルから一段下を覗くと、
浮遊選鉱の装置の上部が見える。
冷蔵庫で時代を感じたのもつかの間、
再び産業遺産の異空間へと引き戻される。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

足尾銅山の主要な鉱石は黄銅鉱だが、
こまかく砕かれた鉱石には石英が多く含まれているため、
それを分離する必要がある。
浮遊選鉱は、石英が水となじみやすく、
黄銅鉱が水と分離しやすい特質を利用し、
必要な鉱石だけを選別する装置。
粉状の鉱石を水の入った木箱に入れて撹拌すると、
黄銅鉱は泡とともに浮いてくる。
この泡を回収したものが精鉱と呼ばれる。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

浮遊選鉱によって抽出された精鉱は、
その後ドルシックナーと呼ばれる沈殿槽で分離される。
実際に精鉱の沈殿に使われたシックナーは、
時間が無く見学出来なかったため、
選鉱場内にある別のシックナーをアップするが、
形状は殆ど同等のものだ。





池島炭鉱・オリバーべルトフィルター
池島炭鉱・オリバーべルトフィルター

シックナーで沈殿した精鉱は、その後フィルターで脱水される。
フィルター装置の見学もやはり時間がなく出来なかったため、
参考として池島炭鉱に残るフィルター装置をアップしておく。
形状は足尾銅山で使用されていたものと少し違うが、
大きなドラム状の回転機にキャンバス地の濾過布が付けられていて、
水分を濾過し、必要な精鉱成分だけを抽出する。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

こうして抽出された精鉱は、
選鉱場の上部に運ばれ貯蔵される。
画像は貯蔵場を上から見た光景。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

貯蔵場の側面。
操業時は手前に軌道があり、
貯蔵庫から貨車に積み込まれて運び出されていた。
そして精鉱は本山まで運ばれ、次の製錬の工程へと進む。



以前に空調関連の会社のサイトを制作したことがあるが、
オリバーフィルターなど、炭鉱・鉱山で知った単語の説明が必要だった。
化学系や産廃、そして都市鉱山のプラントなどでは、
いまでも鉱山が開発して来た技術が進化し応用されている。
現代の豊かな生活が、
20世紀の鉱山や炭鉱で培われた技術によって支えられていると思うと、
感慨深いものがある。





足尾銅山・橋本康夫写真展
足尾銅山・橋本康夫写真展

足尾歴史館で2っ月に渡って行なわれた、
橋本康夫氏の追悼写真展は無事終了した。
館の話だと、異例の来館者数だったという。

写真展に先立って、橋本氏の奥様の発案で、
追悼写真集も出版されていた。
そのタイトルは『ヤマと暮らしと人と』
今回、「ヤマ」の一端を見ることはできたが、
鉱住が殆ど残っていない足尾から、
「暮らし」をかいま見ることは殆どできなかった。
次回足尾を訪れる機会があったら、
是非「暮らし」そして「人」を知れたらいいと感じた。

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足尾銅山 #09 選鉱場1

2012-11-12 02:59:23 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

駆け足で見て来た足尾銅山。
最後に取り上げる場所は、選鉱場と呼ばれる、
掘り出した鉱石を選り分ける施設。
選り分けると一言で言っても、その行程は複雑を極め、
資源の採掘産業が、ただ掘り出せばいい、
という問題ではないことがよくわかる。
選鉱場は足尾のシリーズを始めた頃の記事で触れた通洞にある。
かつては小滝、そして本山にもそれぞれ選鉱場があったが、
大正9年(1920)に小滝が、その翌年には本山がそれぞれ閉鎖され、
選鉱は通洞の施設に一本化された。

足尾銅山・選鉱場外観
足尾銅山・選鉱場外観

選鉱場の立屋外観。
炭鉱や鉱山に共通して言えることだが、
鉱石や石炭を選別する施設は、
頑丈な鉄筋コンクリート等ではなく、
以外にもトタン壁で作られていることが多い。
また選別の施設は、主に傾斜した土地を生かし、
上から下へと落としながら行なわれるものが多く、
ここ足尾の選鉱場もその造りを採用している。
画像に写るのは選鉱場の中間部付近。
橋本氏の写真展の撤収作業があるので、
今回はこの中間部しか見ることはできなかったが、
機会があれば選鉱の全行程を見てみたいものだ。





足尾銅山・選鉱場外観
足尾銅山・選鉱場外観

見上げると、上部の選別施設が遥か高くまで作られている。
採掘された鉱石はコンベアなどでこの最上部に運ばれ、
まず大雑把に破砕される。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

大雑把に破砕された鉱石は、
スクリーンと呼ばれる施設を通過する。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

一つ前の画像の上部に写る施設。
左下に写るのがスクリーン。
この穴の大きさより大きい鉱石を右へ、
小さい鉱石を下へ落とすことによって、
いわばアナログな寄り分けが行なわれる。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

スクリーンを通過した鉱石は、
粗鉱ビンと呼ばれる施設に貯蔵される。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

またスクリーンより大きかった鉱石は、
コーン・クラッッシャーと呼ばれる破砕機で、
適切なサイズに破砕される。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

これも上記同様鉱石を破砕する、ジャイレトリー・クラッシャー。
この装置はほぼ身長大だが、
上記のコーン・クラッシャーは、身長の2倍以上はある、
とても巨大な施設だ。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

選鉱場の内部は複雑な迷路状態と化している。
画像の様に、屋外に面した施設の床面には、
人糞サイズの糞がおおく散見出来るが、
おそらく猿のものだろう。
操業を終えた鉄のジャングルは、
今では猿の憩いの場なのかもしれない。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

大きさの揃った鉱石は、再び貯蔵され、次の行程へと進む。
破砕が行なわれた最終段階の場所には、大きな貯蔵庫があり、
その下にずらっと並ぶ吐き出し口は壮観。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

均一なサイズに整えられた鉱石は、
重液選鉱と呼ばれる選別行程へと進む。
この選別方法は、
昭和23年(1948)に足尾銅山が国内で最初に採用した方法で、
比重の大きな液体に鉱石を投入し、
浮いた石は棄て、沈んだ石(黄銅鉱)だけを回収するシステム。
このシステムの導入に寄って、
女工による手で選り分ける手選の作業が廃止されたという。

これまで見て来た施設は全て、
一番上の画像の道を挟んで右側のものだが、
この画像は道の左側にあたる。
選別の順番から考えると、
このスペースに重液選鉱の施設があったと考えられるが、
現在では施設はなくがらんとしているので、
その詳細は今後継続して調べて行きたい。





足尾銅山・選鉱場外観
足尾銅山・選鉱場外観

斜面の下を見下ろすと、
施設の屋根が階段状に作られているのがよくわかる。
次回は選鉱場の後半の行程を見て行く。

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足尾銅山 #08 本山地区

2012-11-09 17:28:12 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

足尾銅山・本山鉱山神社
足尾銅山・本山鉱山神社

前回アップした本山坑(有木坑)の道向かいには、
本山鉱山神社へ通じる道があるが、
道も路傍も、鬱蒼と茂る草に覆われ、
あまり人が訪れていないことがわかる。
鳥居はあるが、扁額がなく、
すでに神社の役割を終えていることを物語っている。





足尾銅山・本山鉱山神社近辺
足尾銅山・本山鉱山神社近辺

神社へ通じる道の途中には、
かつて職員の社宅があったようだが、
今はその痕跡が残るばかりで、
往年の賑わいを感じることはできない。





足尾銅山・職員家族浴場
足尾銅山・職員家族浴場

唯一、草むらの中に残る職員家族浴場の浴槽の跡が、
かつてここに人が住んでいたことを今に伝えている。
楕円形の大小の浴槽が2つ並んでいた。
恐らく大きい方が女性用で小さい方が男性用だろう。
以前アップした、小滝の浴槽よりはゆっくり入れそうだが、
それでも池島の記事で触れた浴槽よりは遥かに狭く、
ゆっくり入る感じでなかったと想像出来る。





足尾銅山・本山鉱山神社近辺
足尾銅山・本山鉱山神社近辺

奥へ進むと、
規模の大きめな建物の廃墟が一軒だけあったが、
往年の姿を想像するには、崩れすぎている。
この建物を越えて先に進み、
沢の小橋を渡った先の丘の上に神社はあるようだが、
既に橋はなく、また次の撮影の予定もあるので、
社殿の見学は次回へ見送ることにした。





足尾銅山・本山動力所
足尾銅山・本山動力所

神社へ通じる道を戻り、本山坑に隣接する道を東へ進むと、
道沿いに動力所や変電所が建ち並んでいる。
この傾いた建物は、本山動力所と呼ばれる、
削岩機の動力源である圧縮空気を作り出す施設。
ここまで傾きながらもよく持ちこたえていると思うも、
木造なため、その崩壊は時間の問題かもしれない。





足尾銅山・コンプレッサー
足尾銅山・コンプレッサー

動力所の中には今も大正3年(1914)に設置された、
ドイツ製のコンプレッサー「インガーソルランドPE-2」が、
静かに眠っている。
重油の香りを伴った黒光りする鉄の塊は、
堂々とした産業遺産の風格を漂わせていた。





足尾銅山・製錬所
足尾銅山・製錬所

更に東へ進むと、足尾銅山最大の施設の一つ、
本山製錬所がある。
製錬所は既にその多くの施設が解体され、
その全貌はもはやかつての写真などでしか知ることができない。
やはり時間がなく、製錬所の見学も次回の楽しみとなったが、
入口ゲート付近に建つ精鉱庫の壁面には、
以前の通洞の記事でも触れた、
戦中に塗られた迷彩塗装の跡がはっきりと残っていた。
この建物は細長い形をしているが、
昭和30年(1955)の写真を見ると、
建物の中央部分約1/3は完全に塗りつぶされ、
いわばのり巻きせんべいの様な状態が写っている。





足尾銅山・古河橋
足尾銅山・古河橋

精鉱庫の横には、
明治23年(1890)に架けられた古河橋が今も残っている。
竣工してほどなく、
国内初の実用電気鉄道を敷設したそうだが、
現在は木製床の歩道橋として使われている。
バランスのいいトラスと雰囲気のある木製の床面は、
感動すら覚える美しさだ。





足尾銅山・砂防ダム
足尾銅山・砂防ダム

製錬所から北へ行くと、
やがて足尾砂防ダムへと通じる。
仁田元沢、松木沢、久蔵沢の3河川が交わり、
(記事最下部の地図参照)
ひとたび大雨が降ると、濁流が集中し、
渡良瀬川は大氾濫をおこしたので、
その対策として明治時代に作られたダム。





足尾銅山・松木地域
足尾銅山・松木地域

この日は秋の初めの渇水期だったせいか、
ダムの上流には殆ど水が溜まることは無く、
3河川の川の流れだけだった。
中央に写る土が露出した嶺は、
手前を流れる久蔵沢と奥を流れる松木沢をわかつ嶺。
画像のほぼ中央奥の、山肌が剥げているあたりが松木村。
かつて製錬所が操業していた頃、
その排煙はおもに上流の川の谷にそって遡上し、
特に松木沢の谷間沿いには甚大な被害をもたらしたという。

かつては付近一帯のすべての山が、
排煙によって禿げ山と化していた足尾だが、
閉山後の緑化が功を奏して、
現在では殆どの山々に緑が戻って来ている。

しかしその中で、松木地域だけは、
今も禿げ山の痕跡が残り、
かつての排煙被害を今に伝えている。

googlemap有木坑

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足尾銅山 #07 本山坑

2012-11-01 02:29:14 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

足尾銅山で一番の主力坑道だった本山坑、またの名を有木坑の坑口。
これまで見て来た通洞坑や小滝坑のように周囲をコンクリートで固めていないが、
よく見ると、特に左側に半円形のくり抜きの跡が見てとれる。
本山坑も他の坑口同様、周囲を積み上げた丸太で囲っていたのが分かる。

明治10年(1877)に操業を開始した古河は、
当初有望な鉱脈がみあたらず苦戦を強いられたそうだが、
この付近に点在する、江戸時代から掘られていた鷹の巣坑や本口坑で、
相次いで有望な鉱床を発見し、発展の礎となった。
やがてこれらの坑口を本山坑にまとめ、
閉山まで主力坑道として使われ続けた。





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

閉山まで使用されていただけあって、
その規模も大きく、作りもしっかりしているが、
周囲には前述の鷹の巣坑や本口坑の他、
鑿ひとつで手掘りした、規模も小さいたぬき堀りの跡も、
沢山残っていると案内板に書いてある。





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

坑口の横に残る小さな変電所。
いや、トランスなどがないので、
スイッチ室かもしれない。





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

坑口から少し離れた岩肌沿いに軌道が残っていた。
斜めに傾斜する軌道は、
坑道から出て来たトロッコが移動するためのものだと思うが、 





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

その先を見ると建物があり、
建物の内部2階部分にはホッパーの跡があった。





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

更に建物の1階には、
ホッパーからの吐き出し口の様な構造も残っていた。
これらから、坑道から出て来たトロッコが、
鉱石をホッパーに入れ、
この建物から選鉱所へ搬出されていたと考えられるだろう。
しかし、道に掲示された案内板には、
ちょうどこの建物の付近に、音楽堂と書かれてあった。





足尾銅山・本山坑浴場
足尾銅山・本山坑浴場

建物の前には浴場があった。
今はもう上屋は無くなってしまっているが、
小滝の浴場よりは遥かに規模も大きく、
また床面のタイルが残っているので、
なるほど浴場だったんだと納得がいく。





足尾銅山・本山坑スケート場
足尾銅山・本山坑スケート場

案内板を見ると、浴場の横にスケート場と書いてある。
鉱口のすぐ近くに浴場というのはわかるが、
スケート場とはどういうことだろうか?
実際にその場所を見てみると、
確かに周囲をコンクリートで固めた浅いプールのような構造が残っている。
大きさは25m四方くらいだろうか。
スケートをするにはちょうどいい大きさだ。
しかしなんでまたスケート場なのだろうと思うも、
橋本氏の写真展が開催されていた通洞の足尾歴史館の横の敷地も、
かつてはスケートリンクだったそうだ。
足尾とスケート、その繋がりは気になるところだ。





googlemap有木坑

本山坑周辺の施設跡は、地図のちょうど5の付近にあたる。

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