今年の7月に行なわれたJ-ヘリテージ主催の、
『長崎産業遺産視察勉強会』に参加した時のリポートです。
J-ヘリテージは、現代社会が抱える様々な問題点を、
近代化遺産を振り返ることでその解決の糸口を模索しようとするNPO団体で、
様々な遺産の見学会を開催したりメディアで遺産の必要性を訴えている団体です。
そんなJ-ヘリテージが主催した『長崎産業遺産視察勉強会』は、
軍艦島の非見学エリアと池島特別見学コースの視察という、
とても内容の濃いものでした。
まずは軍艦島の非見学エリアの視察のリポートです。
軍艦島の非見学エリアに関しては、
拙ブログで既に何度もお伝えして来ましたが、
今回はNPO法人軍艦島を世界遺産にする会の理事長、坂本道徳さんの案内による見学です。
坂本さんは小学校の時に筑豊の炭鉱から軍艦島へ来られ、
高校が終わる頃まで軍艦島で生活された方。
坂本さんとは個人的にも長くおつきあいさせてい頂いてますが、
実は住宅棟エリアを一緒に巡るのはこれが初めて。
果たしてどんな軍艦島が見えて来るのか、楽しみです。
見学会は、もしかしたら一般見学コースの、
第五見学所になっていたかもしれない、
小中学校のグランドからスタートです。
グラウンドを囲む堤防の内側に作られたモザイク。
左に写るのが坂本さんの奥様(奥様も軍艦島のご出身)の学年の卒業記念、
そして右に写るのが坂本さんの学年の卒業記念のモザイク。
ということは以前から坂本さんにうかがってましたが、
このモザイクを作るにあたって、技術科の先生が堤防の隅で試作をし、
うまくいったので卒業制作にすることにしたエピソードは知りませんでした。
そして小中学校に隣接して建つ、
島内最大の建物であり、坂本さんが閉山まで住んだ65号棟へ。
65号棟が戦中に建てられた建物であることから、
壁面の迷彩塗装にふれていました。
この日、上陸の直前まで雨が降っていたので、
棟の壁面が程よく濡れていて、
迷彩の様子がいつになくはっきりと確認できました。
65号棟は基本的には幅の広い黒斜線で塗られていましたが、
この建物の端にあたる部分は、
細い縦線で塗装されていたようです。
そして65号棟の9階にある、
かつて坂本さんがお住まいになっていた部屋へ。
玄関にはかつて坂本さんが作られた木製のポストが、
今も残っています。
そして玄関の脇には、
アルファベットを覚えたての妹さんが書いた自分の名前。
妹さんは、三年前に亡くなられたそうです。
坂本さんは、感涙を堪えながらお話されていました。
こうして妹さんの思い出が島内に残っているのは、
嬉しくもあり悲しくもあると思います。
65号棟ではその後屋上へ出て、屋上保育園を見学。
保育園の横にある園児が主に使う男子トイレには、
他のトイレにはない捕まり用のバーが設置されています。
初めて知りました!
おそらく戦後のことだと思いますが、
島内の細かなところを見て行くと、
荒くれ者の炭鉱街というイメージとは裏腹な、
ヒューマン・コンシャスな心遣いがそこかしこにあります。
65号棟の中庭でも、
中庭の奥にある床屋で中学から丸坊主にしなければならない話、
学校の校歌に軍艦島という言葉は出てこない話、
棟の壁面に残る金網が落下対策の張り出し網だったこと、などなど
坂本さんの話は止まりません。
そして地獄段を体験しながら島頂上の端島神社へ。
神社では今なお残る神殿の前に供えられた沢山のお神酒を取り上げ、
拙ブログでも何度もお伝えした、
軍艦島の民間研究家で3年前に亡くなられた小島さんのことに触れました。
じつはこのお神酒の殆どは小島さんが供えたものです。
ある意味、島の出身者よりも軍艦島を愛した人がいたことを、
忘れないでください。とおっしゃてました。
これが坂本さんの気持ちですね。
神社から下ったところにある日給社宅に残る足付きテレビでは、
なぜ沢山の家電が残されたままなのか、のお話。
閉山から3ヶ月という短い期間で島を出なければならなかったこと、
高給取りだったので、新天地で新しい家電を買えばいいと思ったこと、
そしてこの島はもう無くなるとおもっていたこと。
とその理由を挙げ、
閉山後三菱が島を売りに出していたことに触れ、
もしかしたら産廃のしまになっていたかもしれないと言及。
公民館の前では、島内唯一の死亡事故のお話。
島にはオート三輪が一台ありましたが、
かつて一度だけ子供を壁に挟んでしまったことがありました。
そして崩れた映画館からお寺をみあげ、
拙ブログでも以前の記事で取り上げた、
31号棟横の堤防の崩壊に付いて。
後年増築されたコンクリートの堤防が崩れても、
その中にしっかりと残る明治時代の堤防には、
やはり坂本さんも明治の土木技術の高さに関心されていたようです。
この後30号棟から鉱業所をまわって小中学校のグラウンドへ戻り、
約2時間の非見学エリアの視察会は無事終了しました。
◆
話を聞きながら島内を回っていて一番感じたのは、
瓦礫の軍艦島からまったく瓦礫感を感じなかったということです。
話を聞きながら目の前の施設や建物を見ていると、
まさにそこに話の光景がありありと甦って来ます。
これこそが産業遺産の再生だと感じました。
建造物を奇麗に立て替えても、
そこにストーリーや体験談がなければ、
それはもの言わぬ廃墟と同じです。
逆に、どんなに瓦礫の状態でも、
底に語りという魂が吹き込まれると、
生き生きと再生して来るのを感じます。
せっかくここまで残しているのだから、
是非とも、こういった非見学エリアのツアーを、
これからもどんどん行なって行くのがいいと痛切に感じました。
『長崎産業遺産視察勉強会』に参加した時のリポートです。
J-ヘリテージは、現代社会が抱える様々な問題点を、
近代化遺産を振り返ることでその解決の糸口を模索しようとするNPO団体で、
様々な遺産の見学会を開催したりメディアで遺産の必要性を訴えている団体です。
そんなJ-ヘリテージが主催した『長崎産業遺産視察勉強会』は、
軍艦島の非見学エリアと池島特別見学コースの視察という、
とても内容の濃いものでした。
まずは軍艦島の非見学エリアの視察のリポートです。
軍艦島の非見学エリアに関しては、
拙ブログで既に何度もお伝えして来ましたが、
今回はNPO法人軍艦島を世界遺産にする会の理事長、坂本道徳さんの案内による見学です。
坂本さんは小学校の時に筑豊の炭鉱から軍艦島へ来られ、
高校が終わる頃まで軍艦島で生活された方。
坂本さんとは個人的にも長くおつきあいさせてい頂いてますが、
実は住宅棟エリアを一緒に巡るのはこれが初めて。
果たしてどんな軍艦島が見えて来るのか、楽しみです。
見学会は、もしかしたら一般見学コースの、
第五見学所になっていたかもしれない、
小中学校のグランドからスタートです。
グラウンドを囲む堤防の内側に作られたモザイク。
左に写るのが坂本さんの奥様(奥様も軍艦島のご出身)の学年の卒業記念、
そして右に写るのが坂本さんの学年の卒業記念のモザイク。
ということは以前から坂本さんにうかがってましたが、
このモザイクを作るにあたって、技術科の先生が堤防の隅で試作をし、
うまくいったので卒業制作にすることにしたエピソードは知りませんでした。
そして小中学校に隣接して建つ、
島内最大の建物であり、坂本さんが閉山まで住んだ65号棟へ。
65号棟が戦中に建てられた建物であることから、
壁面の迷彩塗装にふれていました。
この日、上陸の直前まで雨が降っていたので、
棟の壁面が程よく濡れていて、
迷彩の様子がいつになくはっきりと確認できました。
65号棟は基本的には幅の広い黒斜線で塗られていましたが、
この建物の端にあたる部分は、
細い縦線で塗装されていたようです。
そして65号棟の9階にある、
かつて坂本さんがお住まいになっていた部屋へ。
玄関にはかつて坂本さんが作られた木製のポストが、
今も残っています。
そして玄関の脇には、
アルファベットを覚えたての妹さんが書いた自分の名前。
妹さんは、三年前に亡くなられたそうです。
坂本さんは、感涙を堪えながらお話されていました。
こうして妹さんの思い出が島内に残っているのは、
嬉しくもあり悲しくもあると思います。
65号棟ではその後屋上へ出て、屋上保育園を見学。
保育園の横にある園児が主に使う男子トイレには、
他のトイレにはない捕まり用のバーが設置されています。
初めて知りました!
おそらく戦後のことだと思いますが、
島内の細かなところを見て行くと、
荒くれ者の炭鉱街というイメージとは裏腹な、
ヒューマン・コンシャスな心遣いがそこかしこにあります。
65号棟の中庭でも、
中庭の奥にある床屋で中学から丸坊主にしなければならない話、
学校の校歌に軍艦島という言葉は出てこない話、
棟の壁面に残る金網が落下対策の張り出し網だったこと、などなど
坂本さんの話は止まりません。
そして地獄段を体験しながら島頂上の端島神社へ。
神社では今なお残る神殿の前に供えられた沢山のお神酒を取り上げ、
拙ブログでも何度もお伝えした、
軍艦島の民間研究家で3年前に亡くなられた小島さんのことに触れました。
じつはこのお神酒の殆どは小島さんが供えたものです。
ある意味、島の出身者よりも軍艦島を愛した人がいたことを、
忘れないでください。とおっしゃてました。
これが坂本さんの気持ちですね。
神社から下ったところにある日給社宅に残る足付きテレビでは、
なぜ沢山の家電が残されたままなのか、のお話。
閉山から3ヶ月という短い期間で島を出なければならなかったこと、
高給取りだったので、新天地で新しい家電を買えばいいと思ったこと、
そしてこの島はもう無くなるとおもっていたこと。
とその理由を挙げ、
閉山後三菱が島を売りに出していたことに触れ、
もしかしたら産廃のしまになっていたかもしれないと言及。
公民館の前では、島内唯一の死亡事故のお話。
島にはオート三輪が一台ありましたが、
かつて一度だけ子供を壁に挟んでしまったことがありました。
そして崩れた映画館からお寺をみあげ、
拙ブログでも以前の記事で取り上げた、
31号棟横の堤防の崩壊に付いて。
後年増築されたコンクリートの堤防が崩れても、
その中にしっかりと残る明治時代の堤防には、
やはり坂本さんも明治の土木技術の高さに関心されていたようです。
この後30号棟から鉱業所をまわって小中学校のグラウンドへ戻り、
約2時間の非見学エリアの視察会は無事終了しました。
◆
話を聞きながら島内を回っていて一番感じたのは、
瓦礫の軍艦島からまったく瓦礫感を感じなかったということです。
話を聞きながら目の前の施設や建物を見ていると、
まさにそこに話の光景がありありと甦って来ます。
これこそが産業遺産の再生だと感じました。
建造物を奇麗に立て替えても、
そこにストーリーや体験談がなければ、
それはもの言わぬ廃墟と同じです。
逆に、どんなに瓦礫の状態でも、
底に語りという魂が吹き込まれると、
生き生きと再生して来るのを感じます。
せっかくここまで残しているのだから、
是非とも、こういった非見学エリアのツアーを、
これからもどんどん行なって行くのがいいと痛切に感じました。
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