江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。
正面登山口の鳥居をくぐり、昨日アップした石橋を渡ると、
緩やかな傾斜で続く登山道のすぐ左に、
「参明藤開山」と彫られた、木の切り株状の碑がたっています。
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この碑は、正面から見ると切り株に見えますが、
後ろ半分がすっぱりとなく、上から見ると半円筒形の形をしています。
背面には
「昭和十年五月成 柵工事寄付 講員一同 烏帽子岩總講社」
そして工作者として十四人の名前が彫られています。
画像の碑の背後に写る、登山道を囲う低い手すりが、
この碑文に記された柵です。
江戸時代に築造された富士塚の多くは、
この「参明藤開山」の碑は、山頂にあることが多いそうですが、
この千駄ヶ谷富士の場合は、工事記念碑として山麓にあります。
「参明藤開山」碑の位置
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以前アップした記事で触れたように、
塚には沢山の講碑がたてられていますが、
これは江戸時代の末期からの傾向だそうで、
講(あるいは同行※講と同義)そのものの碑をはじめ、
修復や寄進の碑、さらには他講から贈られた碑もたっています。
上述の以前アップした記事では3つの講碑をとりあげていますが、
2番目の丸嘉同行の碑が他講から贈られた碑で、
これは同時に講同士の友好関係も表しているそうです。
「参明藤開山」碑から少し進み、くの字に曲がる登山道の、
「く」の左にでっぱった頂点の位置には、
「南無妙法蓮華経」と彫られた碑がたっています。
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「南無妙法蓮華経」碑の位置
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かつて日蓮が百日の行をした霊地といわれる経ヶ嶽を表しているそうですが、
以前アップした小御嶽石尊大権現の石碑同様、
具体的な形としての祠などを置かず、
石碑によってその場所や風景を想像させる造りは、
枯山水の庭とはまた全然違った意味で、
謎解き的な感覚があって面白いものだと思います。
そしてこの事は、この記事の最初にアップした「参明藤開山」の碑
にもいえることではないかと思います。
本来「富士開山」が正しいのだと思いますが、
それをあえて「藤」の字を当てたのは、
勿論音読みの際に同じ発音ということもあるのでしょうが、
それよりも以前の記事でも触れた富士講の開祖と言われる角行が、
正式には角行藤仏という名前なので、
その「藤」を表しているのかとも思います。
もっともこの角行という人、素性はっきりしないものの、
長崎出身の長谷川左近という人らしいので、
もともとこの人の「藤仏」自体が掛詞だったのかもしれませんね。
手元の資料に、この事に触れた記述がなかったので勝手に想像しましたが、
富士講からは、はなんとなくそんなトリック使いのにおいを感じます。
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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