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黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

千駄谷乃富士塚 #08

2007-03-09 01:22:31 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。
昨日までは、日本の霊峰全般にわたる信仰の話でしたが、
今日からは富士山そのものの信仰の話です。

◆ 富士信仰と身禄 ◆

各地の霊峰と区別して、富士山への信仰が成り立つきっかけは、
戦国時代の角行という修験者によってと伝えられています。
この修験者も、以前の記事で触れたように、富士山中でありえない修行を積み、
法力を身につけては、不治の伝染病を治す護摩賦を配ったりしていたそうですが、
実際に病が治ったので、角行の霊験にあやかろうと、
角行と富士山を信仰する民間の集まりが徐々に出来ていったそうです。

やがて江戸時代に入り、角行の六代目の弟子の身禄(みろく)が、
「生類憐れみの令」や米飢饉の救済のために、
富士山の七合五勺にあった烏帽子(えぼし)岩の近くに厨子を組み、
三十一日の断食の末、享保十八年 (1733) に入定します。

それまで霊峰富士へ登るには、百ヶ日精進が必要とされていましたが、
身禄が入定の際に弟子が書き留めた遺教『三十一日の巻』には、
正直・慈愛・愛隣・知足・堪忍の五徳を守れば、
百ヶ日精進なしで登山してよし、という教えだったため、
身禄の入定後、富士山へ登拝する人が爆発的に増えたそうです。

また身禄の弟子達は「同行」というグループを作り、
より明確に富士山崇拝の組織作りをするようにもなり、
やがて「富士講」と呼ばれる、
富士信者の集まりへ発展する母体ができることにもなったそうです。

富士塚の中腹付近に洞窟が造られ、その中に身禄像が安置されています。





身禄像は、戦後、首が落ちた状態のまま放置されていたそうですが、
案内図と同じ昭和五十七年 (1982) の修復の際に、
首も復旧されて、今の姿に戻ったそうです。

また身禄窟の横には、上述の烏帽子岩も造られています。




 
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #07

2007-03-08 08:57:42 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾、富士塚の話です。
今日からは富士山の信仰から富士塚が造られ賑わう歴史と共に、
実際に塚の中に設置されて施設や碑を見ながら、
話を進めて行きたいと思います。

◆ 浅間神社 ◆

古来日本では高い山の形容として「浅間(せんげん)」という言葉を使い、
長野と群馬の県境にある浅間山の名称の由来もここにあるそうです。
富士山も日本一の山なので、
その神様は浅間大神(せんげんおおかみ)といわれ、
富士宮市にある総本宮「富士山本宮浅間神社」をはじめ、
北口登山道(吉田口登山道)の北口本宮富士浅間神社など
山周辺のそこかしこに造られた浅間神社に祀られたそうです。

そんな浅間神社は、富士塚にもしっかりと建てられています。
正面から向かって左の裾に造られている浅間神社は、
富士塚全体を見渡して一番目立つ大きさで、
案内板でも一番大きく描かれています。



正面の登山道を少し登ったあと、左へ水平に続く道があり、
その奥に浅間神社があります。



案内図に描かれた社は、その色からして木造ですが、
現在の社は、鳥居を含めて御影石で出来ています。



鳩森八幡宮は大戦の戦渦で完全に焼失し、
戦後一時的に個人の敷地内の社屋を仮本殿にしていましたが、
その後正式に本殿が完成すると同時に、
この仮本殿を塚の麓に移して、浅間神社にしたそうです。

現在建つ浅間神社は、昭和六十年 (1985) に完成したもので、
塚内の他の施設に比べて、比較的奇麗な状態です。

◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #06

2007-03-07 02:32:11 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾の富士塚の話です。

昨日アップした正面の登山道の他に、二つの登山道があります。
東の登山道。



正面の登山道同様、
低い手すりに囲まれて蛇行しながら頂上まで続いています。

東登山道の入口から横を見ると細い道が造られていますが、
植え込まれた植物や配置された山石などとと共に、
武蔵野の風景を連想させるような、
雰囲気のある一角を作り出しています。



三つ目の登山道は山の裏側、北面に造られています。



こちらは正面や東面の登山道と違って、
それほど蛇行していません。
また塚の裏側(北面)は南面と比べて植物が少なく、
岩肌が露出していて険しい印象です。

◆ 山嶽信仰 ◆

富士塚が富士山を模造した人工築山ということは昨日アップしましたが、
ではなぜ富士山の模造品が関東一円に沢山造られたのか。
どうやらそこには日本人と日本の山の深~い関係があるようです。

古来日本には山そのものを神として崇める風習があったようで、
特に平地から見てひときわそそり立っている山は、
富士山に限らず神として敬われてきたようです。

そしてこの山の崇拝が、神道や仏教と融合して、
奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)によって宗教として確立されたのが、
時代劇などでも時々耳にする「修験道」、
その教えを実践するのが「山伏」。
山伏は日夜霊山にこもって修行を積み、
(修行と言っても一日中山の中を何十キロも歩いたりするだけみたいですが)
「法力」を身につけては、
不治の病を治したり、無くなったものを見つけたりしたそうです。

つまり超能力者になったということですね。(^.^;)

◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #05

2007-03-06 01:59:41 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾、富士塚。
前回までは千駄ヶ谷の富士塚がある、鳩森八幡宮の様子をアップしましたが、
今日からはシリーズのタイトルにもある、富士塚の話です。

境内の北東の一角に鎮座する富士塚の正面からの眺め。



鳥居の奥に植物が生い茂ってこんもりとしているのが富士塚。
春から夏にかけて、草木が生い茂るととても雰囲気があるんですが、
そうすると塚の至る所に配置された様々な碑や施設が見えなくなるので、
基本的に冬枯れの時期のものをアップしながら見ていきたいと思います。

鳥居をくぐると小さな石橋があり、
その先に低い手すりで囲まれた参道らしき道が、
塚の頂上へむかってくの字型に続いています。



塚のメインの部分は殆どが熊笹で覆われています。

◆ 富士塚とは ◆

まず富士塚とはなにか。
ご存知の方も多いかと思いますが、
その昔の、まだ電車とか車がなく、
富士山へ登りたくてもなかなか行けなかった江戸時代に、
手軽に疑似登山できるようにと造られたのが富士塚だそうです。
疑似登山というだけあって、ただ山のように造っただけではなく、
山の形に盛り上げた土の表面には、
実際の富士山から運んだ溶岩(「黒ボク」)をあしらい、
山頂や山麓には浅間神社、
また富士塚が造られるきっかけとなる僧侶、
身録が入定したと伝えられる洞窟等が配置され、
いわば富士山のミニチュアのように造られています。

富士塚の周囲には幾つかの説明板が設置されていますが、
その中に昭和五十七年 (1982) の修復の際に設置された案内図があります。
仕事場から近いので、ずっと以前から富士塚があるのは知ってはいましたが、
7年位前にこの説明板を発見し、この絵の魅力にはまって、
富士塚に興味を持たされたのを思い出します。



上2枚の画像と同じ方向からの図です。
左右を多少デフォルメし、本来は正面から見えない部分
(赤い鳥居の「稲荷社」と右上方「砂走り」の左上の「小御嶽石尊大権現」)
を書き込んでいますが、
実際正面からみえない裏側にはこの2つのものしかなく、
他には殆どなにも設置されていません。

裾野の外周が約35m、南北約10m、東西約12~3mで、高さは約5m。
これは都内を中心に関東一円に造られた数多くの富士塚の中では、
ほぼ中庸な規模のもののようです。

◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #04

2007-03-03 03:15:53 | ・千駄谷乃富士塚


お江戸探索シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚。

富士塚がある神社、鳩森八幡宮の境内にある施設の殆どは、
戦後再建されたものですが、
狛犬などの細かな物は『江戸名所図絵』に描かれたそのものも多く、
手水舎(ちょうずや)にある水盤などは、
文政三年 (1820) 晩春製です



水盤の水は、センサー反応によって注水するしくみになっていて、
柄杓も当然当時のものではないでしょうが、
近づいてよく見ると、なかなかいい感じです。



散った梅の花びらがひふたひら、水盤の水の上に浮かんでいました。



更にこの手水舎のすぐ隣に並ぶ二体の狛犬の台座には、
文化十二年 (1815) と刻まれていますが、
これは台座だけで、その上に載る狛犬は、
戦後のものだそうです。
 
さて話が江戸の年号になってきたところで、
次回からは本題の富士塚を見ていきたいと思います。

◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #03

2007-03-02 03:19:37 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾の富士塚。
千駄ヶ谷富士と呼ばれる富士塚のある鳩森八幡宮の歴史は以外と古く、
今から千百年以上も前の貞観二年 (860) にさかのぼるようです。

平成五年 (1933) に、嘗ての壮麗な姿を復元して完成した拝殿



この一帯は昭和二十年 (1945) の空襲を浴び、
1845年建立の社殿もその時に焼失していますが、
戦後復興された境内施設に納得がいかず、
平成五年に昔日の姿の復元をめざして作り替えられたそうです。
確かに平成五年築の社殿とは思えない趣があります。

境内には『江戸名所図会 (えどめいしょずえ) 』にも描かれている、
能楽殿(かつての神楽殿)が、江戸時代と同じ位置に建っています。



大祭の時には能が奉納され、
また薪能も行われる、立派な能楽堂です。

将棋会館がすぐ裏手にある場所柄、
境内には将棋堂という風変わりなお堂もあります。



道内には高さ1.2mの大駒が奉納されていて、
これは将棋の駒が伝統工芸品に指定されている、
山形県天童市の製造。
天童市は柳宗理のバタフライ・チェアの製造元でも知られる、
天童木工もありますね。
  
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #02

2007-03-01 00:26:37 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズの第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

まずは富士塚がある鳩森八幡宮へ。
JR千駄ヶ谷駅を下車し、一つしかない改札を出て、
目の前に延びる道を直進します。→Mapion



左に東京体育館、右に津田スクール・オブ・ビジネスをみながら、
その真ん中の道を進みます。

途中三叉路があるものの、道なりに進むと、
やがて鳩森八幡宮の裏門が見えてきます。→Mapion



大きな銀杏や杉系の木が鬱蒼と生い茂り、
裏門からの境内は、つねにかなり暗い状態です。

現在はメインストリートに面しているのがこの裏参道なので、
ここから参拝する人が多いですが、
表門は裏門の左手を数十メートル進んだところにあります。→Mapion



本殿にまっすぐ通じる参道の入り口にあたり、
鳥居の横にはかなり大きい鳩森八幡宮の文字が掘られた石碑も建っています。

昨日アップした『江戸名所図絵』のほぼ中央に描かれた、
「表門」にあたるのがこの場所ですが、
当時の様子を見ると、門前の通りはかなり広かったようですね。

今は車がかろうじてすれ違えるほどの、狭い車道になっています。
 
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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千駄谷乃富士塚 #01

2007-02-28 01:15:29 | ・千駄谷乃富士塚
今月、玉川上水余水路、深川江戸博物館と、
江戸時代への時間旅行をしてきたので、ついでに江戸ものをもう一つ。

第三弾は、
江戸時代、信仰と共に庶民の間に浸透し、
隆盛をみせながらも、大正以降急速に衰退し、
いまでは誰もが忘れてしまった富士塚。
その中でも、現存最古と言われる、
千駄ヶ谷の富士塚を見ていきたいと思います。



『江戸名所図会』に登場する富士塚と、
現在もその敷地内に富士塚がある鳩森八幡宮。


『鳩森八幡神社 築造富士資料』渋谷区編より。渋谷区中央図書館の許可を得て引用

江戸名所図会(えどめいしょずえ)は、
天保5年(1834)に前編の10冊、同7年に後編の10冊が完成する、
江戸の名所1,043箇所を絵とともに紹介した本です。
図絵の中央から少し右上の山状のものが富士塚。
中央左寄りが千駄ヶ谷八幡宮(現在の鳩森八幡宮)の本殿。→Mapion
境内には現在も残る神楽殿や手水舎が同じ位置に描かれ、
今とは全く異なった周囲の様子とは裏腹に、
神社の境内は当時の面影を残している事が分かります。

江戸時代、沢山の人が詣で、縁日で賑わいながら、
今では忘却の観光地と化した富士塚。
関東大震災で崩れてはいるものの、
富士塚の形を今に克明に伝えると言われる千駄ヶ谷の富士塚を、
資料的にも役に立つように、詳しく紹介していきたいと思います。

◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
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