黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

千駄谷乃富士塚 #11

2007-03-12 14:23:10 | ・千駄谷乃富士塚


江戸探訪シリーズ第三弾、千駄ヶ谷の富士塚の話です。

◆ 千駄ヶ谷富士の築造年代 其の壱 ◆

では千駄ヶ谷富士はいつ造られたのか?

第二次大戦中の戦火での鳩森神社の焼失と共に、
神社にあった富士塚の資料も全て無くなってしてしまったため、
千駄ヶ谷の富士塚がいつ築造されたのかは、ずっと謎に包まれていました。

昭和五十二年 (1977) の文芸春秋十一月号の特集「忘れられた石像」に、
千駄ヶ谷富士の正面登山口に対で立つ狛犬が紹介されたことがきっかけで、
その台座に刻印された年号から、富士塚築造の年が推測されましたが、
それは同時に、
その後の千駄ヶ谷富士の築造年代論争の発端とも言われています。

富士塚正面登山口の狛犬

 

左の狛犬は、口の周辺が少し崩れているのかと思いますが、
その風貌とともにいい味を出しています。

狛犬と台座の間(特に右)が、ちょっと不自然な接着に見えますが、
この件に関しては後日アップしようと思います。

右の狛犬の台座に刻まれた年号



ちょっと読みにくいですが、
享保二十年 (1735) と刻まれています。

また、浅間神社前の小さなスペースに置かれている、
宝珠や傘、火袋、中台、全てがなく、
竿だけになってしまっている灯籠(左)と、
手水鉢にもそれぞれ年号が刻まれています。



灯籠(左)と手水鉢に刻まれた年号

 

灯籠には享保十九年 (1734)、手水鉢には享保十六年 (1731)、
とそれぞれ刻まれています。

また正面登山口のすぐ脇にも、
前述のものより少し大きめの灯籠があります。



こちらは宝珠と笠はあるものの、
やはり火袋と中台は無くなってしまっています。
画像では限りなく見えにくいですが、
よくよく見るとこちらも前出の灯籠と同じ、
享保十九年 (1734) と刻まれています。

身禄入定は享保十八年 (1733) なので、
灯籠と狛犬の奉納年からすると、
入定後すぐに築造されたことになりますが、
ここで一つおかしなことは、灯籠と狛犬はいいとしても、
手水鉢は身禄入定の前に奉納されていることになります。

また2日前の記事にアップしたように
身禄入定後、故人の遺志を形に残すために、
藤四郎によって造られた高田富士 (1771) が、
最初に造られた富士塚という記録も残っているので、
この点からも疑問をはさむ余地があるようです。

ではこの千駄ヶ谷富士はいつ造られたのか?
  
◆ 千駄ヶ谷乃富士塚 ◆
> NEXT > TOP
 


最新の画像もっと見る

post a comment