蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

神楽坂研究(1)   (bon)

2016-02-23 | 日々雑感、散策、旅行

 お馴染み、神楽坂にお住いの“若さん”から、大変面白い、そしてユニークな研究成果が届きました。 いくつかのシリーズ風に展開されるようですが、先ずは、その第1弾を・・。

 話題の範囲が広く、最新情報なども入っていて、私にはややついて行きにくいところもありますが、番号が付られていて、文末の参考記事と対応付けされていますので、それにより何とか理解が進んだりするところもあります。

 若さんの記事は、先に、「東京と米国都市との違い」(2016.2.1)でご覧いただきましたが、彼のアメリカでの生活やその後のアメリカ滞在などの経験からのポイントが述べられていました。今回からのシリーズでは、長年、神楽坂に住んで、多方面に出撃するうちに、いろんな人々とのかかわり合いの中に一つの人生を描いているように感じられました。

 まぁ、前置きはこれくらいにして、じっくりとどうぞ・・。

 

 *****若さんの神楽坂研究(1)*****

 

 みんな知ってる 誰も知らない 神楽坂

星、食いしん坊 そして 3.5+*1 たくさんあって、好きです!

         
       愛犬ルル(2015年10月逝去)   ミシュランガイド         石かわ(三ツ星)

 神楽坂は、靖国神社から早稲田大学、高田馬場に通じる“早稲田通り”の一部です。毎朝10年間、市谷砂土原町の長屋から、朝霞荘(損保ジャパン接待寮)辻・田中邸(田中角栄妾宅)と最高裁長官邸(東北地震で使用中止)裏手の若宮町を抜け、袋町*2肉の29、大村さんの(勝沼)ルバイヤート、赤坂から移転した“もりのいえ”、Tちゃんのパラドール、三ツ星“石かわ”のある毘沙門通り(大手門通り)を抜け、毘沙門天でお経を、唱えてから折り返すのが愛犬との散歩コースでした。同じルートで犬散歩の、最後の予科練生、龍公亭の先代に愚連隊と呼ばれた八十歳過ぎの大先輩になぜか先輩と呼ばれていました(笑)夜は犬抜きで出撃。散歩路途中にある、チーズバーCABANEに集う欧州人達(仏、スイス、ベルギー)は “A small town in the big city”だから好きだといっています。(同感)仏人が多く住み働く街です。漫画にはまり来日する若手も時々います。GHマムシャンパン(F1勝者がかけあう)のMさんはサミット開催の洞爺湖ウインザーホテル勤務経験者(5年)で“なまら”北海道弁うまい仏人です。アンステイチュ・フランセ(オランド大統領も来訪の旧日仏会館)もあり石畳と坂道の街のたたずまいを”Petit Paris“と呼んでいます。犬のうんちがなく臭いもない、清潔で安全な街を気に入っています。新しく転居してきた仏人が愛犬散歩で始末しないと、塀や電柱に、フランス語のイエローカード掲示です。一方、異口同音に言うのは、パリは危ない、パリは行くまでがすばらしいと。震災後、フランスは地震がないからと帰った人もいたけれど、また戻ってきています。開店直後から個人的に応援している店のオーナーとミシュランビブグルマンもらって一緒に喜んでいます。袋町アルベリーニの鉄平ちゃん(イタリア13年修行)は僅か3か月。剛ちゃん(NY生まれ)の”あげづき“も2年目でした。味は勿論、”つき“をあげる(開運かつ)として今年すでにTVに2回登場です。

 

その昔、飯田橋と神楽坂下は…歴史を感じます。

       
 
    牛込見附跡のJR飯田橋西口    桜の名所、牛込掘り     神田川舟遊び船着場 
                                         (右法政大学)

  縄文時代、神楽坂下、飯田橋辺りは東京湾の入り江。文治5年(1189年)に源頼朝(初代征夷大将軍、鎌倉幕府を樹立)は、鎌倉から軍勢を率い北上し奥州藤原征伐に行く途中、若宮八幡神社(アグネスホテルの西隣、鎌倉から直線45km恐らく行軍2日目)の地で戦勝祈願、1km程北東の牛天神北野神社(文京区春日町)で石に腰掛け休憩、王子方面に抜けていった跡が残っています。毘沙門天前の鳥茶屋横の兵庫横丁*3(クレープのブルターニュ、白鷹の伊勢藤、料亭幸本、貸席八仙、旅館和可菜)は、鎌倉古道の名残理です。江戸時代になると海岸線は京浜東北線沿い辺り迄移動、日比谷が海の入り江。牛込城(袋町光照寺、神楽坂を含む一帯の地名由来)望楼は、標高40m近くあり湾を航行する帆船が見え、江戸城全体も見渡せたそうです。(坂下は標高約5m)神楽坂の東側に、揚場町そして軽子坂という坂があります。明治になり汽車、電車が通るまでは、神田川の水利を使って神楽河岸(飯田掘)に物資が集められ陸に揚げ、軽子(軽籠持の略称)という担ぎ手が坂を上り内陸へ輸送する拠点でした。浅草の芝居見物にいく船宿もありました。数年前、神楽坂30年の友人Iさんと赤坂の芸者さん達と神田川を御茶ノ水、柳橋と下り隅田川に出て、日本橋川、首都高下を上って戻るボートクルーズを体験。(神田川舟遊び*4上右)東京都心はほとんどが海面下だったと実感できます。芝居見物の往きから酒飲み語らい、復路も芝居や役者の話題で盛り上がる江戸や明治の旦那衆の粋な舟遊びを疑似体験できます。本郷、小石川、牛込(神楽坂)、市谷は元祖山の手。多くの文豪、文士、学者、芸人、役者が住んでいました。夏目漱石は早稲田駅近く喜久井町に生まれ、幼少の頃は養子に出されたりして2番目の小学校は愛日小学校*5 (東京で3番目の開校)でした。神楽坂の寄席、花街に通ったことが知られています。漱石は胃腸が弱かったようですが、フルーツパーラー洋食の田原屋(2002年閉店)はお気に入り、菊池寛、佐藤春夫、永井荷風先生達にも人気でした。

 

 角榮、都市伝説、毘沙門天の石柱にロッキード事件の痕跡?*6

       
        田中角栄(64代総理大臣) 神楽坂踊りの芸者衆     毘沙門天山門
                                                         (右に児玉誉士夫建立の碑文)

 神楽坂は全国でここだけ?といわれている珍しい逆転式一方通行の道です。零時からお昼までは都心方向に、午後から早稲田方向に切り替わります。長嶋が4打席4三振デビュー、東京タワー開業した1958年(昭和33年)から実施されました。田中角栄が郵政大臣2年目でした。昭和30年代は高度成長まっただ中、交通事故死亡者が日清戦争の戦死者を超え、交通戦争勃発!都心道路はマヒ寸前、渋滞が常態化。昭和39年のオリンピック開催に向け、土木工事だらけの東京でした。本宅(目白御殿=政界交流の表の拠点、小平も訪問)から自宅前の目白通りをひたすら霞が関に抜けるより、神楽坂を一方通行で九段上に抜ける方が、渋滞回避し時間短縮できたと思われます。帰りは、妾宅か料亭にまっすぐ寄るためとまさに通勤、帰宅の道として一方通行を有効活用していました。元旦は目白、二日は神楽坂だったそうです。この一方通行は、角栄が決めたとわれる背景はそういう状況があったからでしょう(実際地元の人は“角栄通り”と呼んでいました)…タクシー運転手さんが広めた都市伝説です。田中角栄の事業家(田中土建工業)政治家としてのスタートは飯田橋、接待営業の拠点は新橋、柳橋でなく神楽坂にありました。毘沙門天と三菱UFJ銀行(東都三大老舗と呼ばれたそばの名店春月跡)との間、ミシュラン三ツ星“石川”にぬける大手門通り(毘沙門横丁)の奥には最盛期“松ケ枝”という神楽坂一の料亭がありました。角栄が頻繁に使った料亭です。毘沙門天には、ロッキード事件のフイクサー、児玉誉士夫建立、昭和46年(1971年)と彫られた、山門の石柱(大手門通り側から移設?)が残っています。ちょうど角栄が通産大臣の頃で、翌年“日本列島改造論”発表、総理大臣に就任しました。ロッキード社の秘密代理人だった児玉が政界工作を角栄の妾宅で行っていたことを象徴するような石柱の碑文です。後に、ロッキード社からの児玉、丸紅へ流れた30億のコンサルタント料から5億円が角栄に渡ったとして、S58年(1983)一審有罪判決を受け政界引退の引き金になりました。しかしロッキード事件に関する解説等々を読むと資源外交で米国の虎の尾を踏み、田中を排除するCIAの陰謀で、事件はでっち上げられた。元総理中曽根康弘が、キッシンジャーからあれはやりすぎだったと聞いたというのは本当のような気がします。田中、児玉の関係は事件報道では語りつくせない深い関係が続いているような気がします。料亭松ケ枝は、後に小佐野賢治が買い取り、今はマンションです。

 

角栄を虜にした神楽坂芸者
 
  辻和子著“熱情”       東京逓信病院        田中角栄と真紀子
 
  田中は、源氏名“円弥”という人気の芸者との間に2男1女をもうけ、牛込掘りを見渡せるお屋敷町の一角に敷地350坪の家に住まわせました。手当は月100万円(参考:サラリーマン年収、S40年45万円→S60年365万)そこには、政治家、政治部記者等が頻繁に出入りし昭和の待合政治、政界の裏面的臭いが漂います。本名辻和子は、晩年“情熱…田中角栄をとりこにした芸者“を出版(講談社α文庫、上左)。文中、田中がS60年(1985年)脳梗塞で倒れ飯田橋東京逓信病院に2か月入院してから亡くなるまで8年間(1993年/H5年慶応義塾大学病院で没)田中真紀子の意向で一度も会えなかった、電話も2回だけでしたと書いています。憶測ですが、元首相が脳梗塞で倒れて緊急入院するのに本宅からほぼ変わらない距離に東大、慶応、医科歯科等々の名だたる病院があるのになぜ東京逓信病院(上中)を選択したのでしょう?なぜ入院先を早々と切り上げ、本宅リハビリに切り替えたのでしょうか?脳梗塞の発作で救急、病院の手配したのは政務秘書だと想像できます。その直後、政務秘書早坂、越山会の女王佐藤昭子(愛人)は罷免されました。反対した病院への入院を真紀子がよほど気に入らなかったようです。病院選択の際、秘書と真紀子の間にあった対立理由は逓信病院には、自民党に敵対する党のスパイがいるから...ということだったそうです。東京逓信病院は、昭和60年までは郵政省の職域病院、元担当大臣/首相の入院治療に全力投球体制。場所は外堀の内側千代田区富士見町、別宅からは牛込堀越し目と鼻の先です。政務秘書としては、大事な”おやじ“の看護に和子さんを期待した、あるいは”おやじ“が呼べと云うだろうと考え大臣時代からの縁もあり、とっさに反応したのではないでしょうか。マスコミがつめかけ、白衣を着た記者がカメラを隠して侵入したそうです。私は、東京逓信病院に命を2度(頸動脈狭窄、癌)助けていただきました。入院経験からいうと、正面/救急受付口以外にいくつも出入り口がある近代版忍者屋敷みたいな構造です。正面から24時間張り込み中のマスコミの前を和子さんが入るのは顔が割れていて無理だったでしょう。病院東側の道をへだてた別棟から地下道(特別区道)をぬけ本館病室で角栄の看護に和子さんも加わった!?手当を即打ち切って関係断絶にしたのに、それを知り、真紀子が激高、短期退院自宅リハビリそして二人の古参秘書解雇の引き金にしたシナリオもあるのでは!?銀座Mデパ地下で真紀子先生にかなりの頻度で遭遇、お供なしの買い物姿は愛想のよい山の手の奥様といった印象でした。一方、所轄省庁の役人を罵倒、言語明瞭意味不明な答弁をしている大臣としての顔は対照的です。角栄入院時、郵政大臣、事務次官にねじ込み病院長解任要求、自宅療養後の目白御殿でのワンマン独裁ぶりが漏れ聞こえてきます。神楽坂金満津で真紀子の七五三の祝いの準備を手伝い、幼少の頃から知っていて、角栄が手を焼いていたことも良く知っていた和子さんは目の前の病院に角栄がいるのに、本当に近づけなかったのかも。彼女は、敷地の一部に建てた牛込掘りを見渡すマンションに住み、角栄と同じ脳梗塞で倒れ、同じ病院に入院しました。角栄全盛期、衆議員秘書をしていた同級生のW君の話です。同じ自民党なので角栄、佐藤昭とは何度も会ったとのこと。国会内をのし歩く角栄には異常なオーラ(熱気)を感じたそうです。越山会女王(昭)と面会時、胸の谷間に感動、知人の秘書に語ったところ、直ちに通報され”面白い秘書さんね、今度飲みましょう“といわれ飛び上がったそうです。政界情報については地獄耳、女王様のインテリジェンス(情報収集力)恐るべし!別の同級生で議員秘書のMちゃんいわく、真紀子先生にオーラなかったといっていました。角栄が認知した二男一女は牛込・神楽坂の人たちとのつながり色々あるようで、信頼できる筋によれば、今年政界進出も狙っているとのこと。

 

本多横丁は三年坂*7に呪われている。大殺界御殿が…!

       
           本多横丁町並み    三年坂のつきあたり築土八幡    歌舞伎忠臣蔵      
                                                                堀部弥兵衛、安兵衛

 坂下から上ると右手に“中華饅“に行列ができる”五十番“が右手にあります。(1月、坂上に移転)右に折れると本多横丁です(上左)。”本多修理屋敷脇横町通り“に由来してつけたとのこと。神楽坂から軽子坂までの通りに約50店の飲食店、料亭が軒を連ねた石畳の風情のある神楽坂最大の横丁です。鰻の老舗”たつみや”*8は、ジョンレノン、ヨーコオノも来店。向かいのバーのUちゃんは、勘三郎が前を通ると手を挙げ挨拶した横丁の重要人物。坂道を下ると軽子坂で石畳終了、それからの先細りのアスファルトの道は、築土八幡(上中)に通じていて“三年坂”と呼ばれています。堀部安兵衛が高田馬場の決闘(西早稲田)に駆け下りた坂道です?(右上)この地名は、寺社、墓地そばの坂道につけられ、坂道で転ぶと3年以内に亡くなるという迷信があります。江戸後期、嘉永5年の地図をみると、軽子坂に向かって右側(東南)一帯が本多家屋敷、左側(西北)は行元寺(アインスタワー、寺内公園)境内(借地)に建てた小さな武家屋敷が並んでいました。突きあたり手前左に西照寺そして築土八幡です。当時の神楽坂は毘沙門天まで、そこからまっすぐ上る赤城神社までは両側に寺社仏閣が連なる門前町でした。“本多修理屋敷脇横町通り”は地名として長すぎ、ふさわしくありません。神楽坂から築土八幡に下る坂道全体(神楽座3丁目、4丁目境界)は“三年坂”です。東京大空襲で、市ケ谷台参謀本部から神楽坂の一帯は灰塵と化し、戦後復旧期、一時期スズラン通りでした。縁起悪い名をさけ、スズランではいかにも新興商店街的なので本多横丁をあとで被せたのでしょう。ある時期、本多横丁の全寿司店(K,Y,Sの3店)の板さんがほぼ同時期に病で昇天。1軒は廃業、1軒は寿司の看板あげながら長年、握りが出せない寿司屋さんでした。T商店では書くに忍び難い超悲劇。長年人気の珍味菓子屋さんは、店を鉄筋ビルに建て替え途中で業者倒産、工事中断のまま廃業。常に、非劇が付きまとう横丁なのです。そこへ神楽坂を東京の拠点にしている占い師H先生の、大殺界ビルが今年完成。呪われた横丁に面しています、先生は呪いを信じていないか、殺気を防御した構造にしているのでしょうか?みんな不思議というか不気味に思っています。横丁の呪いを祓ってくれればと願います。話はとびます、京都清水寺参道の三年坂には迷信対策グッズが昔から売られています。厄除けひょうたん、転んでも起き上がるひょうたん等々を売っている“瓢箪屋”です。納戸町のワインバー(1月末閉店)の京都出身英語、モロッコ方言(語)に達者なママ(M)のおばあちゃんの実家です。

 

勘三郎にオーラ感じたけれど、ジョブス*9はなかった。

       
         Jobsと私SFC Masa’sで   CABANE(英語でCabin/小屋)  十八代中村勘三郎  

 
 旧後楽園球場前を記者団に囲まれて歩く長嶋茂雄の一団の上には後光のような輝きを見ました。振り返ると、駐車場から出て来た歴代登板数3位の角と40位の定岡とばったり遭遇、オーラゼロのお兄さん達でした。赤坂TBS会館前にいた夏目雅子からはあきらかに遠目でも光線が昇るのを感じました。赤坂の日本一の親子丼屋で昼食時、隣席に松坂慶子、美人だと思いましたがゼロでした。昭和天皇崩御、平成に変わった1989年だったと思います。創業したアップル社から追放され、NEXT社設立、ルーカスからCG部門買収し後に大成功することになったPIXAR社を設立。そのP社との提携の話でCEOステイーブ・ジョブスと交渉、サンフランシスコ市内のMASA’s(一昨年30年の歴史を閉じた名店)のデイナーに、なんとネクタイ背広で登場“びっくりぽん”でした。(上左)店に1人後から来たとき、急に店内が静まり“Jobsだ!”とのざわめき、でもなぜか、彼にオーラは感じませんでした。晩年iPhone発表の頃は画面越しに目から光を感じました。戻ったアップルを時価総額世界一の会社にしたジョブスは偉大です。3人目は十八代中村勘三郎(上右)です。H24年(2012年)57才の若さで急逝しました。文京区の自宅を改築する間、神楽坂(市谷船河原町)に仮住まいしていました。亡くなる前、数年はよく見かけ、お店で一緒になることもありました。長嶋、夏目とは違ったオーラを感じました。なんというか光ではなくユラユラと熱線が放出されている感じでした。神楽坂の板前三兄弟の三男のお店(Y)や人気の焼鳥屋さん以外に、私も良く通う仏人経営(今はスイス人のYさん)CABANEにも気軽に飲みに来て、ワインを何本も空けていました。庶民的な親しみを感じさせ、廻りには常に明るい雰囲気がありました。本葬の夜、神楽坂を舞台にした“背景父上様”“北の国から”の脚本家、倉元聡が勘三郎馴染みの店Yでおかみさんと二人でさびしそうに飲んでいるのを見かけました。芸者のMさんは、自宅完成して文京区に戻ったとき方位除けしなかったからじゃないのとぽつりと言ったのが印象に残っています。

 

牛込神楽坂のマンションは元料亭(城・寺社)の跡地が多い

   
        
      牛込の鎮守(新)赤城神社 目玉おやじ開運お守り 寺内公園とアインスタワー 孔明演じる金城武
 

 上州から移ってきた江戸大社の一つ赤城神社は、牛込の鎮守様です。H22年再生プロジェクトの一環で、建築家隅研吾氏監修(新国立競技場の設計者)で近代的な神社に生まれ変わりました。境内古木を残すために自ら名乗りを上げ参加したそうです。昨年逝去した、人気妖怪作家、水木しげるが“げげげの鬼太郎”の妖怪アニメ化(横寺町の東映アニメ企画、制作、1968年S43年フジTV放映)成功祈願した縁で“目玉おやじ”(開運)と“げげげのちゃんこ”(厄除け)お守り授与開始。本多横丁の左(西北側)大久保通り一帯は、江戸時代、行元寺の境内でした。武家に土地を貸出した辺りから花街が広まりました。夏目漱石がそこの料亭で遊び、昭和に入り柳谷金五郎、山下啓次郎親子、勝新太郎等が住んでいました。(近所のIさんの実家はそこの元料亭)神楽坂は、明治、大正時代、新橋、柳橋と違い、山の手にすむ軍人、役人、書生そして下町商人が遊ぶ花街でした。一番の上客は下町の商人だったようです。早稲田の学生と芸妓との悲しい心中もありました。牛込神楽坂のマンションにはそういう悲しい物語が憑いているところがあります。その手の話は、熱海湯通り(小栗通り)の焼鳥Sちゃんにいくと自然に耳に入ってきます。(笑)一昨年、ふらっとレッドクリフ(赤壁)で孔明演じた金城武が来店。隣席で焼き鳥20本食べていきました。Sちゃんは三日経ってから彼だと気づきました。昨年Sちゃんは、Google Mapの撮影車に遭遇、めでたくStreet Viewで世界中から彼の姿にアクセスできる状態になっていました。(つづく)

 

解説、脚注

神楽坂研究(1)2016年1月27日発行。初回テーマは、在京欧州人はなぜ神楽坂が好きか?本多横丁はなぜ呪われているか?田中角栄と神楽坂について。中村勘三郎の自宅/仮住まいからの遊び場だった街。霊につかれたマンション、レストラン。お気に入り、行きつけの神楽坂のレストラン(今回はざっと名前だけ紹介しました。文末では少し解説)

*1星=ミシュラン☆、食いしん坊=ミシュランビブグルマン、3.5+=食べログ点数3.5以上の店。牛込・神楽坂地区には、ざっとミシュラン掲載店は15店あり(2014年版)、年々数店増えています。食べログ3.5+はこれも一つの目安です。おいしいしレベル高いお店が多いと思います。お店のオーナー、スタッフとの交流も楽しみの一つ。そして常連さんに楽しい、粋な人も多くそういうふれあいも神楽坂の楽しみです。

*2袋町、神楽坂にある行きつけのレストラン
①29(Twenty Nine)高級鴨料理”三田“のあとにできたビルにイタリアン、フレンチのつぎに肉(29)をメインテーマにして今や人気店に。2階バーカウンターに”若“コーナーがある。マネージャーのタダッチがフレンドリーに対応してくれる。

②ルバイヤート、勝沼120年の老舗ワイナリー東京店。創業家の大村家がオーナーでソムリエは梅ちゃん。長男は日本のワインの権威。(業界有名人)、神楽坂ワインブームの火付け役。

③もりのいえ。地元のオーナー、飼い犬はルル(我が家と同名)赤坂からを神楽坂に移築し、夏は軽井沢店へ避暑。(神楽坂は夏季休業)

④パラドール・カグラ オーナーシェフTちゃんの味にファンが多く、人気店。

⑤石かわ、ミシュラン三ツ星の名店、予約はおそらく3か月以上待ちらしい。

⑥チーズバー CABANE、現在3代目オーナーはスイス人(米国、スイス人ハーフ)Yさん。仏、日、英語堪能。前2代は仏人(O,E)で欧州人(仏、スイス、ベルギー)が良く集まる。チーズワインだけでなく、となりのカンボジア料理も楽しめる。ça va? サバ?が合言葉です(元気ですか?) 亡き、18代中村勘三郎も時々来ていました。(TVうち来る?で勘三郎が最後に使った店)

⑦日蓮宗善国寺(毘沙門天)、お経は“南無妙法蓮華経”

⑧アルベリーニ(袋町2)の鉄平ちゃんはフィレンツエ13年修行の経験が評価され最速でビブグルマン。

⑨あげづき(神楽坂3丁目)剛ちゃんはNY生まれ、セントルイス育ちのサーファーおやじ。こだわりの南の島豚をこだわりの揚げ方(つきも上げる)で人気店にビブグルマン。昼は0.5~1時間前に並ぶこと。夜は予約必須になりました。TVが取り上げすぎです!

*3兵庫横丁 毘沙門天前の毘沙門天せんべいと鳥茶屋本店の間のピンコロ石畳の横丁。鎌倉古道の名残といわれている。ブルターニュはガレット(そば粉クレープ)の超人気店。江戸時代から桝本酒店が総代理店の灘の銘酒、白鷹のヌルカン専門「伊勢藤」にクーラーはありません。料亭「幸本」はお座敷遊び初心者コースがたまにありますよ。向かいの旅館「和可奈」は寅さんの台本書きに使われました。貸席「八仙」は芸者Mさんのお店カラオケバーもあります。

4“神田川舟遊び”検索で、神田川、日本橋川クルーズ案内の詳細確認できます。

5愛日小学校、明治3年1870年開校。御成門、番町(最初は新宿区市ヶ谷八幡で開校)に次ぎ都内3番目の小学校。2016年1月現在、全面建て替え工事中。

*6日蓮宗善国寺(毘沙門天)の正面右山門の右の石柱の内側碑文→児玉誉士夫建立昭和46年5月12日。

*7本多横丁は呪われているといえば、地元の人は、何が起き続けているかみんな知っています。今回初めて三年坂が呪いの原因らしいという新説の発表です。

*8 鰻屋(料亭)とか川魚問屋は新宿区と文京区の境界を流れる神田川沿いに古くからたくさんありました。地下鉄有楽町線江戸川橋の出入り口は新宿区側の飛び地(文京区関口)にあります。戦前は小石川区だったところで、ススキノの名店「BAR 山崎」の山崎達郎さんの実家があったところです。鰻や鯉を扱う川魚問屋でした。川を挟んだ文京区側にその頃からの鰻屋がまだあります。はし本、石ばし(ミシュラン☆)です。

*9 Steve Jobs の技術、製品、事業開発のルーツはXEROX PARC研究所でのALTO コンピュータシステムとの出会いと、そして彼の一生は、そのコンセプトを実現することに費やしたと思います。ピカソ曰く「すぐれた芸術家は模倣する、偉大な芸術家は盗む」その通りだと思います。PIXAR社に関して、ルーカスが金食い虫のCG(コンピュターグラフィクス)部門を$10Mでジョブスに売却、ジョブスは後にさんざん映画配給ロイヤリテイを毎年$500M以上(Net profit)稼ぎ、最後は7,400億円でDisney社に売却!APPLE社も1980年に上場し創業者キャピタルゲインを取り、復帰してから世界一の時価総額会社(74.2兆円)にした。恐るべし!出演者がアカデミー候補になってる映画「ステイーブジョブス」公開中です。

 

 

 

 

 

 

 

 


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