蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

新吉原  (bon)

2020-09-10 | 日々雑感、散策、旅行

 そうです、新吉原遊郭における当時の社会的な存在? の一端みたいな事情が、
北信濃の豪農と新吉原遊郭の遊女小稲らとの手紙から、幕末維新期の新吉原遊郭
の実態として、手元の会報記事にありましたので、合わせてネットなどの情報も
交えて一部をまとめてみました。

 吉原や遊女を描いた絵画や文芸作品などたくさんあり、特に花魁、遊女などは、
菱川師宣や喜多川歌麿らの浮世絵が有名ですが、これらは華やかな外面だけが描
かれており、また、かって、浅草の松葉屋で『花魁ショー』を見たことがありま
したが、同じく華やかな花魁道中などのショーで、会報記事にあるような遊女屋
(ここでは稲本屋)とそのお抱え遊女(3代目および4代目小稲)と客との現実か
ら遊郭がどのような社会であり、遊女や遊女屋が実際にどのような生活であった
かなどあまり知られていない部分に触れられていて面白く感じました。

        新吉原遊郭の一部(1872年ころ)
        (ウイキペディアより)

 千曲川流域にある村の坂本家文書の中の遊女に関する手紙の中で、稲本屋に関
するものが現在11通確認されていて、遊女小稲らからの手紙の一部を、一例とし
て取り上げられています。 
 その内容は、手慣れた書きぶりで、相手のご機嫌伺、来訪のうれしさから始まり、
詳しい内容は定かではないが『その節には、ご不快になられたことと存じます。』
と詫び、さらに『だれだれ様が何やら立腹されていたようですが、私も皆様がお
揃いの一座でのことで、まことに苦労しており、どうぞ御前様からもよろしくと
りなして下さい』というような、先般の遊興の場で起きたトラブルのとりなしを
願っていたり、さらに再来を願うことも忘れず添えられています。

       小稲からの手紙(国立民族博物館HPより)
        

 豪農たちの江戸出府の目的は、中山道沿いの幕府村々に対する莫大な公用人馬
の追加差出命に対して、その撤回を幕府勘定所に嘆願するための「出張」(公の
業務)であり、その折に、嘆願成功のための代官所下僚らの接待であったようで
す。 手紙の他に、請求書などもあり、それには、接待だけでなく、豪農から代
表としてご出張の2人もちゃっかりと楽しんでいる様子もうかがえるとありました。

 吉原細見(遊女の番付)の筆頭に位置するような遊女は、『人身売買による自
らの境遇を受容しつつ、楼主と見世の遊女たちの間に立って、ある時は楼主の意
を汲んで仲間を糾問し、ある時は遊女たちを代表して楼主に物を言う、遊女集団
の統括に不可欠な役割をはたしていた。』 そのような立場で、遊興の場を仕切り、
客を巧みにあしらうのは、『ま事二くろうと相成る』ことだったと予想される・・
とありました。

 隆盛を誇った新吉原も、明治維新により東京の人口減少とともに、衰微基調に
あった遊女屋は、起死回生を図る宣伝として浮世絵を出したりした中に、古い髪
形の記憶を油彩画という最先端の文明開化技法で行う企画として、近代洋画家の
父ともいわれる高橋由一の代表作に『花魁』がありますが、そのモデルとなった
小稲は、完成した絵を見て『妾は、こんな顔ぢゃありません』と泣いて怒ったと
あります。

       美人「花魁」(高橋由一画、1872年、油彩)
        (ネット画像より)

 「花魁」が描かれて半年後の明治5年(1872年)に、芸娼妓解放令が発せられま
したが、この時、東京府史たちは、遊興の場を確保するために、貸座敷業者(遊
女屋)を置きたいという上申案を出しているのです。 当時において、買売春を
必須のものとする意識があったと見做せるのですね。
 明治33年(1900年)には、公娼制度を認める前提で一定の規制が行なわれてい
たようです。戦後、GHQ指令により公証制度は廃止されましたが、赤線地帯は
取り締まりの対象から除外されたため、事実上の公娼制度は以降も存続したよう
で、ようやく昭和32年(1957年)になって、売春防止法が施行されることになっ
たのでした。

        

 新吉原というのは、明歴3年(1657年)の江戸大火後に、浅草日本堤に近接した、
現在の台東区千束4丁目付近に移転した全国最大の遊所として繁盛したところで、
ここが江戸の北方面にあったことから「北国」などと呼ばれ、現在の品川(北品
川)にあった遊郭を「南」と対比していたようです。一時品川が隆盛を誇り90軒
もの遊女屋があり4000人の娼妓がいたとあります。

 話は飛びますが、ここ北品川のしかる場所のビルに本社があり、後に、この会
社に就任した社長は、この本社ビルはまさしく当時の老舗跡だと気づき、直ちに
本社ビルを移転したのでした。この品川遊郭については、フランキー堺らが出演
するコメディ映画『幕末太陽伝』でも詳しく知ることができます。

         

 当時のこのような風習は、現在ではその姿は見られないようですし、少なくとも
正規のビジネス取引等においては、ほとんど皆無ではないかと思われますが、近
代化とともに、奥の方に追いやられてまったく知らないところでは、今なお息づ
いているのかもしれません。

 最後になりましたが、会報記事は、『遊女小稲と幕末維新期の新吉原遊郭』と
題した、国立歴史民俗博物館教授、横山百合子氏によるもので。同博物館(千葉
県佐倉市)では、この10~12月に企画展示『性差(ジェンダー)の日本史』が
開催予定です。同HPを以下に記しますので、ご覧ください。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p201006/index.html

 

 

【実録】美しい花魁の実態とは? 19世紀 遊女たちの歴史的写真集 【貴重写真】

 

 

 

 


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