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蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

日本の理化教育  (bon)

2023-05-12 | 日々雑感、散策、旅行

 お堅いタイトルで失礼します。
 幕末の頃、黒船到来で江戸をはじめ日本中は大騒ぎとなっていたでしょう。
先ず黒船。大
きな蒸気船(軍艦?)で黙々と煙を吐いていた・・などが想像
されます。それまでにも、
長崎を通して、ガラス製品や、銀食器を始め珍しい、
特に技術製品などに驚いたと思われま
す。

          (ネット画像より)

 明治2年(1869年)に、後藤象二郎や小松帯刀らにより早々と理化学専門の
学校「舎密局(せいみきょく)」を大阪に設立していますが、その後の動乱や
不況等により長く継続されませんでした。 しかし社会の要請は、電信の導入
に始まり、鉄道などの機械文明の遅れを取り戻し、国内に取り入れるべく
「お雇い外国人」を各方面に採用したりして急速な文明開化へと進展して行
くのです。

 すなわち、長い鎖国が解かれて、当時の日本が、いかに科学技術に対して
その必要性、重要性を感じていたか想像に難くありません。特に学校教育に
おいて生徒実験を取り入れた科学(物理、化学など)知識は、理論的な考え方、
創作的な行動をも育成する観点から、それまでの模倣主義を打ち破り新しい
日本に向かう若者たちへの必須事項であるとの認識が充満していたかを伺い
知ることが出来るのです。

 日本理化学協会創立70周年記念講演録「草創期から現在までの歩み」(日本
理化学協会顧問山崎裕司氏)に次の下りがあります。
『わが国の理化教育思想は、明治以来欧米文化の輸入と英米独の理化教育思想
に深く影響を受けてきたが、国運をかけた日露戦争、特に大正時代の第一次
世界大戦のドイツ科学技術の発展から受けた刺激と、わが国工業発展を培う
理化教育への強い要望が、単なる教授法の改善にとどまらず自然科学の研究
推進の動きに連なった。』と。

 つまり、このような遅れを取り戻すには、中等学校(現在の高等学校)に
おける理化学教育の推進が重要であるとの認識が生まれてくるのでした。
しかし、理化学教育には実験が必須であるにもかかわらず、その設備の在り方、
指導教官等未知数が多く、また費用も掛かることから長く手が付けられてこ
なかったのでした。

 時あたかも、文部省(当時)から、中等学校における理化学教育についての
諮問「中等学校に於ける物理および化学の生徒実験を一層有効ならしむる方案
如何」が出されており、各地で、複数の学校相互で研究会が起こり始めてい
たのです。

              

 このような背景を受けて、今から97年前の5月、大正15年(1926年)5月6~
8日に第1回「全国中等学校理化学教員協議会」(会長:嘉納治五郎氏)が、わが
母校で開催されたのでした。

    全国中等学校理化学教員協議会議事録(大正15年7月20日)
       (日本理化学協会より)

 

 嘉納会長の挨拶は次のように述べられています。(議事録より)

 『・・今日、物理化学の必要なることは論を待ちません。日常生活におい
ても、物理化学の知識が必要であることは明らかなる事実であります。また、
諸種の工業において理化学の知識が必要なことは益々明瞭であります。迷信
が如何に社会の発達を妨げているかは明らかなる事実であります。道徳上の
諸問題においても理化学の知識が欠けているために未解決の問題が甚だ多く、
これらの問題は今後理化学の進歩発達によって解決を待つべきであります。 
 すなわち一国の道徳の進歩に対しても理化学の力が大なる影響を有してい
ることは疑うべからざるところであります。今後において、理化学の学問的
研究を一層発達せしむるには、中等教育における理化教育を完成しなければ
なりませんからして、中等学校理科教育の研究会は今日我が国の最も必要と
するところであります。・・』

 そして、この第1回全国中等学校理化学教員協議会の事業は、以下の図に
あります通り定められています。

     二、事業   (一は、開催趣旨)
     (日本理化学協会より)

 再掲しますと、

   一、時期   大正十五年五月六日より八日に至る三日間
   一、会場   大阪府立清水谷高等女学校講堂
   一、事業 1、協議 文部省諮問案、協議題、建議事項  
        2、研究発表
        3、講演
        4、見学 下記の内より一つを選ぶこと
            大阪電球株式会社 中山太陽堂工場 
            川北電機製作所今福工場

 

 そして、協議会は全国3府41県(樺太~九州、朝鮮に及ぶ)から300数十名が、
大阪府立清水谷高等女学校に参集され、熱心な討論の末、文部大臣への答申案
が作成されたのでした。この答申案は同年(大正15年)6月15日に文部大臣
(当時、岡田良平文部大臣)へ建議されたのでした。

    文部大臣への答申 
     (日本理化学協会より)

 ところがこの答申案は、その後の関東大震災、世界恐慌、国連からの脱退、
太平洋戦争など国難が続いたため、ようやく長時間を要して、1953年(昭和
28年)に理科教育振興法として制定されたのです。

 この法律によって、今日まで学校での理科教育が円滑に進められ社会に定着、
技術立国として現実につながっているのです。今年法律制定70周年を迎える
のです。 そして、第1回全国中等学校理化学教員協議会は、第3回に『日本
理化学協会』と名称を変更し毎年大会を実施され、再来年には創立100周年を
迎えられるのです。

                

 顧みますと、理化学に教鞭をとられた先生方の長年にわたる並々ならぬ努力
の積み重ねが今日の日本の柱の一つを支えていることに思いを巡らせるとき、
感慨の渦に巻き込まれるのですが、その発端にわが母校があったことも忘れ
られない史実なんです。

 (今回の内容は、昨年(2022.5.14)の「理科教育の黎明」をさらに詳細に
述べてみました。)

 

 

 

Chris Botti, 'Concerto de Aranjuez' (Joaquín Rodrigo)

 

 

 

 

コメント (2)
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