伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(50-2) 1977年1~2月②

2008-06-17 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1977年2月7日(第431回)>
・私がブルーにそまるとき 林寛子
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1977/01/25
・悲しい東京 三浦弘とハニー・シックス
 詞・曲:三浦 弘 R:1977/01/-
・その手を放して 菅原洋一 
 詞:檀ひろし 曲:大六和元 R:1976/11/-
・途中駅 五木ひろし
 詞:麻生香太郎 曲:西島三重子 R:1977/02/10 HC:19位
真夜中のヒーロー 郷ひろみ
 詞:小谷 夏(久世光彦) 曲:筒美京平 R:1977/02/01 HC:5位

<1977年2月14日(第432回)>
・港神戸は泣いている アローナイツ R:1976/11/-
 ※「たまらなく淋しくて」両A面。
・くどき文句 千葉紘子 R:1976/12/-
・かけめぐる青春 ビューティ・ペア
 詞:石原信一 曲:あかのたちお R:1976/11/25 HC:26位
◆第10回(77年)日本有線大賞新人賞受賞(同曲及び「真赤な青春」で受賞)
◆第10回(77年)全日本有線放送大賞新人賞受賞
ビューティ・ペア】
全日本女子プロレス所属の女子プロレスラー、ジャッキー佐藤・マキ上田によるタッグチーム。76年2月に結成され、その際に開催されたWWWA世界タッグ王座決定戦で勝利を収め、初タイトルを獲得。以後、引退したマッハ文朱に代わって女子プロレスブームを牽引。同年11月にはこの「かけめぐる青春」で歌手デビューを果たし、翌77年には主演映画「真赤な青春」が東映から製作・公開され、キャラクターグッズも多数製作・発売されるなど、単なる人気レスラーという枠を離れたアイドル的な人気を獲得する。シングル盤はその後78年9月にリリースされた「愛のけものたち」まで計7作が製作され、彼女たちが出場する試合の前には必ずミニコンサートがセッティングされるのが定番となっていた。
②79年2月、「敗者引退」をかけて王者の佐藤に挑戦者の上田が挑むという同ダッグ同士で行われたWWWA世界シングル王座戦で上田が敗れ、自動的にプロレス界から引退、同時にタッグも解消された。解散後、プロレス界を離れた上田は女優・タレントに転身したが振るわず、程なく地元の鳥取に帰郷しスナックを開業。佐藤も81年に当時若手成長株のジャガー横田にWWWA世界シングル王座を奪還され一旦引退。後に「ジャパン女子プロレス」立ち上げに参加し現役復帰するが、88年にデビューから延べ13年に及ぶプロレスラー生活に別れを告げる。引退後は体操教室の会社の経営やインストラクターの仕事を中心に活動していたが、99年、41歳の若さで胃癌で逝去した。
【メドレー】アキラのダンチョネ節→北帰行→昔の名前で出ています 小林 旭
 ・アキラのダンチョネ節 小林 旭
  詞:西沢 爽 曲:神奈川県民謡/遠藤 実<補作> R:1960/03/01
日活映画「海から来た流れ者」主題歌
<楽曲について>
①前年、1959年にペギー葉山の「南国土佐を後にして」を題材とした同名の歌謡映画が製作・公開され、小林は同映画で主役に抜擢される。当初は「歌謡映画」という性質上、あまり周囲から期待されない中で同映画は公開されたが、この曲のモデルとなったペギー葉山のレコード盤が突如大ヒット。それに呼応するように同映画も予想外の高収益を上げ、この映画のヒットによって小林は、石原裕次郎に次ぐ日活の看板スターへと急成長。同映画でついた小林のイメージを歌の世界にも活かすべく、当時小林の音楽面でのプロモーションを一手に引き受けていたコロムビアの敏腕ディレクター・馬渕玄三氏は、「南国土佐を後にして」の中に民謡・軍隊ソングとして親しまれていた「よさこい節」が挿入されていたことに着目。小林が独特の高音の持ち主であったことも相俟って、民謡調の楽曲で裕次郎の「ムード」路線との徹底した差別化を図ることを考え出し、そこで企画されたのがこの「アキラのダンチョネ節」であったという。この曲は上記の同名映画を土台として新たに製作された小林の日活時代最大のヒット映画「渡り鳥」シリーズの好評振りとの相乗効果もありヒット。その後も「鹿児島おわら節」「ズントコ節」「炭坑節」「デカショ節」と民謡・俗謡を題に取った楽曲を次々と発表し、「新民謡・俗謡」路線は小林の「十八番」として定着してゆく。
②同曲の題材となった「ダンチョネ節」の出処にはいくつかの説が存在するが、三崎地方で伝承されてきた「勇波節」が三浦市のお座敷街で流行った「三崎甚句」の影響を受けて、神奈川県の民謡「ダンチョネ節」となったとする説が有力である。「ダンチョネ」とは「断腸ネ」、つまり「断腸の思い」を意味する語と解されており、1900年に起きた東京高等商船学校(現・東京商船大学)の練習船「月島丸」の沈没事故の際にはこの事故で命を落とした同窓生らへの弔いの歌として同校の生徒たちの間で歌い継がれ、また戦時中には特攻隊員の間でこの曲の替え歌「特攻隊節」が流行するなど、主に戦前・戦中にかけては不慮の死を遂げた者への鎮魂歌、或いは死の恐怖を紛らわすための景気付けの歌として伝承されてきた。悲壮感漂うこの歌を作詞者の西沢は恋歌調の歌詞に、補作曲者の遠藤はマンボのリズムを取り入れた軽妙なタッチのメロディーにそれぞれ大幅に改編(遠藤自身は歌詞やメロディー、全体の歌の内容は全くのオリジナル曲であるとこの曲を評している)、淡い悲恋をテーマとした曲へと仕立て直した。
 ・北帰行 小林 旭
  詞・曲:宇田 博 R:1961/10/05
◆第47回(96年)NHK紅白歌合戦出場曲(7回)
日活映画「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」主題歌
<楽曲について>
後に東京放送(TBS)の常務となる宇田博が手掛けた名曲。1941年、当時、満州国の旧制旅順高等学校に在学していた宇田は素行不良を理由として放校の申渡しを受け、肉親のいる奉天に戻ることを決心。その帰路に立つ直前の1週間、旅順での学生生活の名残を惜しんで現地のある旅館に宿泊。その旅館の中で「敗北と流離の思い」を込めて作った歌がこの「北帰行」であった。戦後、日本でもいわゆる「ガレッジソング」の一つとして親しまれることとなったが、流行し始めた当初の頃は戦時中に誕生した作品であったこともあってか詳細な資料が散逸しており、作者は「不詳」とされていた。しかし後に上記の旅館で宇田自身が友人を集めてこの曲を聞かせた際に、その中の一人が偶然この歌詞を書き写していたことが決め手となって同曲の作者が宇田であることがが判明した。
②1961年、コロムビアの馬渕ディレクターがこの「北帰行」が新宿のとある歌声喫茶で学生たちを中心として流行しているという話を聞きつけ、この曲を聴きにその歌声喫茶に赴いたところ、直感的に「これはいける」と確信。早速専門スタッフに採譜・編曲を依頼し、小林の新曲として同年秋にレコード化。この馬渕の予感は見事的中し、同年末から翌1962年にかけて同レコードは爆発的なヒットを記録。この反響を経て、62年1月には当時の小林の代表作である映画「渡り鳥」シリーズの新作がこの曲を題材として製作・公開され、またダークダックス、和田弘とマヒナスターズらもこの曲のレコード盤を次々と製作。メロディー・歌詞の美しさから学校用の音楽の教科書にも採譜されるなど、学生たちのガレッジソングとして流行ったこの歌は日本のポピュラー音楽史に残る叙情歌の傑作へと発展を遂げた。
・北へ 小林 旭
 詞:石坂まさを 曲:叶 弦大 R:1977/01/25 HC:17位

【司会】 芳村真理・井上 順

(1977年2月21日(第433回)・同2月28日(第434回)放送分については「曲目リスト(50-3) 1977年1~2月③」に記載)

(参考)この頃の主な出来事
・02/03 1963年以来の記録的な豪雪が襲来。各地で平均気温が戦後最低を更新。
・02/05 EC、日本製ボールベアリングに20%のダンピング課税を課す事を通告(初の対日経済制裁)。
・02/08 アメリカの三大テレビネットワークの一つ、ABCが8日間連続でアレックス・ヘイリー原作の「ルーツ」を放映。
・02/10 日米漁業協定調印。200カイリ水域規定に基づく最初の漁業協定。
・02/14 東京・八重洲地下街通路で青酸ナトリウム入りのチョコレート40箱が発見される。


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