伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(43-1) 1975年11~12月①

2008-05-20 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年

<1975年11月3日(第365回)>
・さだめ川 ちあきなおみ
 詞:石本美由起 曲:船村 徹 R:1975/07/25 HC:33位
◆第26回(75年)NHK紅白歌合戦出場曲(6回)
※後に細川たかしもこの曲のリメイク版をシングルとして発表している(1986年)。
ちあきなおみにとり初の本格演歌。当初彼女はそれまでの自身の歌ってきた曲のイメージから大きく離れた同曲を歌うことに対して難色を示していたが、この曲から担当プロデューサーとなった中村一好氏ら周囲の関係者らの熱心な説得に折れるような形でレコーディングに応じたといわれている。
白い教会 西城秀樹
 詞:たかたかし 曲:鈴木邦彦 R:1975/10/25 HC:4位
◆第26回(75年)NHK紅白歌合戦出場曲(2回)
※前作「至上の愛」が売上枚数で20万枚の大台を下回り、当時の西城の人気ぶりにしては地味なセールスに終ったことから、人気下落を懸念した関係者の判断により、11月末に当初予定していた新譜発売日を急遽1ヶ月繰り上げて発売された。
・ふたりの旅路 五木ひろし
 詞:山口洋子 曲:猪俣公章 R:1975/09/25 HC:14位
岸壁の母 二葉百合子
 詞:藤田まさと 曲:平川浪竜 台詞:室町京之介 
 R:1972/02/05 HC:3位
◆年間チャート(76年)5位(77.3万枚)
◆第18回(76年)日本レコード大賞功労賞受賞(審査委員会選奨)
◆第9回(76年)日本有線大賞有線ヒット賞受賞曲
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞優秀スター賞受賞曲
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
<楽曲について>
①この曲のモデルとなったのは端野いせという実在の人物である。1944年に旧ソ連軍の攻撃を受けて中国戦線で行方不明となった息子の生存と復員を信じて、彼女は1950年1月の引揚船初入港から約6年間、旧ソ連・ナホトカ港からの引揚船が舞鶴港に入ってくるときには必ず同港の岸壁で息子の帰りをじっと待ち続けた。この実話を元にして製作されたのがこの曲であり、最初は1954年10月、「星の流れに」「春の舞妓」などの代表作で知られる菊池章子の歌唱で発売されヒット。これを更に1972年に女流浪曲師の第一人者である二葉百合子が曲の間奏の間に台詞を挿入し、歌謡浪曲仕立てにリメイクして再発売。当初はまったくヒットしながったが、二葉は辛抱強くこの曲を自らの公演で歌い続け、これが功を奏してじわじわと有線放送などで人気が上昇。最終的には累計96万枚(オリコン調べ)を売り上げる大ヒットとなった。
②この曲の題名である「岸壁の母」は、当時、端野さんと同様、息子や夫の復員を待ち望んでいる母親や妻たちが全国各地から引揚船の入港の際には京都の舞鶴港まで詰めかけ、同港の岸壁でその帰りを待ち続ける様子が多々見られたことを当時のマスコミが「岸壁の母」或いは「岸壁の妻」と称して話題にしていたところから付けられたものである。
③端野さん宛てにはその後、菊池章子によるオリジナル版が発売される直前の1954年9月に旧厚生省から死亡理由認定書が、次いで1956年には東京都知事より戦死告知書がそれぞれ発行されたが、これらの存在を彼女は信用せず、その後も息子が自身の元にまた戻ってくるその日を待ち望みながら和裁などで生計を立てる日々を晩年まで送ったが、1981年、ついに息子との再会を果たせぬまま、81歳で逝去した。その後、2000年になって、京都新聞の報道によって、彼女の息子が中国で現在も生存中であることが、中国政府が発行した身分証明書の存在を確認したことにより発覚。息子自身も母親が生存中であったころから、母が連日のごとく舞鶴港で帰りを待っているという事実を既に知っていたが、自分のほうから全く母親に何らかのアクションを起こすようなことをしなかったなどとも後に週刊誌のルポタージュなどで報じられ、同曲の存在価値に影を落す結末となってしまった。

<1975年11月10日(第366回)>
・縁切り港 西川峰子
 詞:千家和也 曲:千葉 毅 R:1975/09/01 HC:31位
・浮草 水前寺清子 R:1975/10/-
・賣物ブギ ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
 詞:島 武実 曲:宇崎竜童 R:1975/08/05 HC:16位
※「商品には手を出すな!」との両A面。1950年にヒットした「ブギの女王」笠置シヅ子の代表作の一つ「買物ブギ」のアンサーソングという意味合いで製作・発表された。

<1975年11月17日(第367回)>
・忘れたい京都 青江三奈 R:1975/10/-
・口づけでおやすみ(Take Good Care of Yourself) スリー・ディグリーズ
 詞:Kenny Gamble 曲:Leon Huff 
 R:1975/10/25<日> HC:90位<日:オリコン>/9位<全英> 
弟よ 内藤やす子
 詞:橋本 淳 曲:川口 真 R:1975/11/01 HC:8位
◆年間チャート(76年)24位(34.9万枚)
◆第5回(76年)FNS歌謡祭・音楽大賞 最優秀新人賞受賞
◆第8回(76年)日本有線大賞最優秀新人賞受賞
※当時の同期の新人女性歌手の大半が10代、そしてアイドル路線で売り出したのに対し、内藤は当時既に25歳、ハスキーボイスと迫力のあるブルース調の節回しで暗いムードの楽曲を熱唱するスタイルで登場するという異端の存在であったが、そのインパクトの強さや歌手としての確かな実力が受け、デビューシングルながら同曲は30万枚以上を売り上げるヒットに。その後に発表した「想い出ぼろぼろ」「淋しい天使」も軒並み好セールスを記録し、翌76年の音楽賞レースでは新人賞をほぼ独占。デビュー早々、内藤は歌手としての人気絶頂期を迎えることとなった。

<1975年11月24日(第368回)>
■当日に開催・放送された「第6回日本歌謡大賞」の特集を組む。同年の大賞受賞者・布施明は、久々の対面を果たした実父の見守る中で受賞曲「シクラメンのかほり」を熱唱。このほか放送音楽新人賞の細川たかし、岩崎宏美もそれぞれ受賞曲である「心のこり」(細川)、「ロマンス」(岩崎)を披露した。
ロマンス 岩崎宏美
 詞:阿久 悠 曲:筒美京平 R:1975/07/25
 HC:1位(1975/09/01-09/15)
◆年間チャート(75年)6位(77.1万枚)
◆第17回(75年)日本レコード大賞新人賞受賞
◆第6回(75年)日本歌謡大賞放送音楽新人賞受賞
◆第4回(75年下期)FNS歌謡祭・音楽大賞 最優秀新人賞受賞
◆第1回(75年)日本テレビ音楽祭新人賞受賞
◆第1回(75年)全日本歌謡音楽祭優秀新人賞受賞

◆第8回(75年)日本有線大賞有線新人賞受賞
◆第8回(75年)全日本有線放送大賞新人賞受賞
◆第26回(75年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
発売直前までこの曲と「私たち」(B面収録曲)のどちらをA面とするかがなかなか決まらず、最終的に関係者・スタッフによる多数決を採った結果、この曲をA面とすることになったという。
・逢えるかもしれない 郷ひろみ
 詞:山口洋子 曲:平尾昌晃 R:1975/10/21 HC:4位

【司会】 芳村真理・三波伸介 


(参考)この頃の主な出来事
・・11/01 東映京都撮影所内に「東映太秦映画村」がオープン。
・11/06 カシオ計算機、4,500円という低価格の電卓を発表。
・11/15 第1回主要国首脳会議(サミット)がフランス・ランブイエにて開催される(~17日)。参加国は主催国のフランスを初め、アメリカ・イギリス・日本・イタリア・ドイツの計6ヶ国。翌76年の第2回会議よりカナダが参加し、「G7」体制が確立。
・11/20 36年に及ぶスペインでの独裁体制を牽引したフランコ総統逝去(82歳)。一気に民主化の機運が高まる。
・11/24 第6回日本歌謡大賞に布施明「シクラメンのかほり」。
・11/26 公労協、スト権奪還ストに突入(~12月4日)。郵政・交通を中心に国内の多くの公共インフラがマヒ状態に陥る。


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