Renaissancejapan

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GS-7 第二次大戦と ドイツ愛国者ヘンリー・ゴールドマン退社

2023-02-06 21:07:01 | 国際政治・財閥





【GS-7 第二次大戦と ドイツ愛国者の天才トレーダー、ヘンリー・ゴールドマン退社】


【GS-6 ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズの決裂】https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/062ad14284572eebb957bb0090b76c21

 



からの続き


サム・サックスは戦争勃発直後にヨーロッパに出向き、クライン・ウォートに対して、会社はイギリスを支持する立場をとると表明しました。 

ところが、帰国するや否や義兄弟のヘンリーがおおっぴらに敵国を支持しているの見て、彼は呆れかえるとともに反感を抱きました。 


サックス家も最近ドイツからやってきたばかりで、ドイツに対する思いは強かったのですが、サムが忠誠を誓うのはイギリスでありフランスでした。 

1915年(大正4年)、ヘンリー・ゴールドマンは会社のパートナーや彼の姉妹から強く頼まれたにもかかわらず、JPモルガンが英仏の軍資金調達のために組成した5億ドルの融資団に会社として参加することを拒否しました。

この融資には当時のウォール街の大手金融機関はほぼ全員参加しています。 

ゴールドマン・サックスは、どのような案件でも。傘下の是非を決めるのは全員一致の議決を必要とすることをポリシーとしていました。 

個人的な信念から、また会社の面目を保つために、サムとハリー・サックスはJPモルガンのオフィスまで足を運び、12万5000ドルずつ、個人としてこの融資に参加しました。


戦争が長引くにつれ、ヘンリー・ゴールドマンとサックス家の間の関係は悪化していきました。

小さなオフィスの中がいかに居心地の悪い雰囲気になった事か、容易に想像がつきます。 

アメリカが参戦し、二人のパートナーとパートナーの息子たちが徴兵されてヨーロッパに出征した痕にも、ヘンリー・ゴールドマンはドイツ支持を表明し続けました。


これは、ゴールドマン家とサックス家にとって、公私ともども辛い事件でした。

そして、ついにクライン・ウォートがゴールドマン・サックスに傳保を打ち、ロンドンでブラックリストに載せられる危険があると伝えてきました。 

イギリスのマーチャント銀行(国際銀行)であるクライン・ウォートは、軍部に呼ばれ、20年来のパートナーであるゴールドマン・サックスとドイツ銀行との間に多数の電報がやりとりしているのを見せつけられ、困惑しました。 

クライン・ウォートのパートナーの目にも、ゴールドマン・サックスがドイツと積極的にビジネスを行っているのは明らかでした。 1916年、同社は書状を出しています。

「率直に申し上げて、かくも重大な業務運営の明らかな証拠を呈示され、驚愕を隠せません。 

かような業務が、弊社に開設しておられる御社の英国ポンド口座とむえんであろうとなかろうと当局が懐疑の念を抱くのは、致し方ないことと考えます」

イングランド銀行は、その後クライン・ウォートがゴールドマン・サックスと外国為替業務を行うことを禁じ、戦争が終了するまでゴールドマン・サックスがロンドンで」業務を行う道を絶ちました。


金融界での評判が高まりつつあったにもかかわらず、ゴールドマン・サックスはほぼ閉店休業状態に入りました。 理由の一つは、同社の景気判断でした。

この景気拡大は戦争によるもので、ほぼピークに近い、まもなく景気に陰りが見えてくるだろうと考えて、同社は新規案件に飛びつくことを控えました。


「我々の考えに」多くの人はくみしなかった」とアーサー・サックスは1917年の初めに書いています。

「当時の案件の大半は、われわれが手がけた発行体のものだった。 ゴールドマン氏は『お断り専門の会社』と言っていたが、内部にいる我々にとっては忍耐のいる、厳しい試練のときだった」 


この直後、ヘンリー・ゴールドマンは会社を去る事を発表しました。

彼の辞表は、赤い文字で「御金を貯めて、自由公債を買い、国を救おう」と冒頭に書かれた車用便箋を使ったもので、「世界を動かし世論となりつつある意見に、私は同調いたしません。私は会社と全社員に対する暖かい思いと、35年間の思い出を胸に辞職します」と書かれていました。


ヘンリーはパートナーたちに、謝罪と共に辞職を願い入れました。 そしてパートナーたちは、そのいずれも受け入れました。 


ヘンリー・ゴールドマンを失った痛手は大きいものがありました。」 彼の才能を失い、巨額の資本金が引き出されたことのほうが、彼のドイツ支持が引き起こした問題よりもはるかに打撃が大きかったと思う人もいました。 

ヘンリーと共に引受業務部門で働いていたポール・サックスは1914年に辞職し、ハーバード大学で美術の教授となっていたので、彼の穴を埋めるものは誰もいませんでした。


ヘンリー・ゴールドマンとサム・サックス、そしてヘンリーの妹ルイーザ・ゴールドマン・サックスとの関係は断ち切られ、修復することはありませんでした。 

ヘンリーとサムの二人は、再び口をきくことはありませんでした。 

一族の記録を綴ったスティーブン・バーニングは「両家の敵対関係は次の世代にも受け継がれ、今日(1967年)でもゴールドマン家でサックス家と口をきくものはいない」と書いています。


ゴールドマン・サックスで、ゴールドマン姓を名乗る者はヘンリーが最後でした。 

彼は巨額の資産とともに、会社を去っていきました。 

その資産を基に、彼は商業投資信託銀行、メイ・デパート、シアーズ・ローバック社などに多額の投資をして大成功を収めています。


ゴールドマン家とサックス家の他の人々と同様、彼も美術を深く愛し、ルネッサンス期、バロック期の瞠目(どうもく)に値する絵画を収集しています。 

ルーベンス、ヴァンダイク、レンブラントなどの作品もあり、そのうち何枚かは現在ワシントンの国立美術館に展示されています。

彼はドイツ美術文化の講座基金をハーバード大学に設立し、また密かに数多くの慈善事業に多額の寄付を施しました。

妻と共にカーネギーホールで神童ユーディ・メニューインの演奏を聴いた後、ヘンリーは12歳のこの少年を昼食に招きました。 

彼はメニューインに、世界で一番欲しいものは何かと尋ねました。 少年の答えは「ストラディ・バリウス」でした。

彼の望みはすぐさま、かなえられました。 

ドイツにりょこうしたとき、ヘンリーはパウル・フォン・ヒンデンブルグ大統領に来賓として招かれています。 


彼はアルバート・アインシュタインを訪問し、ヨットを贈呈しました(それは1933年、ナチス政府に罰集されました)。 

1922年、彼はドイツ共和国に推薦され手名誉市民になっています。 

1930年代初め、彼は愛するドイツに戻り永住するつもりでありましたが、ヒトラーが権力を持つようになると、さまざまな辱めを受けたと彼の家族は語ります。 

ニューヨークに戻り幻想を打ち砕かれたまま、ヘンリー・ゴールドマンは1936年に永眠しました。




  
 

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GS-6 ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズの決裂

2023-02-06 12:55:10 | 国際政治・財閥






【GS-6 ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズの決裂】


シアーズの株式公開を成功裏に終え、ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズはFWウルワースの株式公開引受主幹事の地位を勝ち得ました。 

シアーズとウルワースの上場はともに大成功でしたが、引受としては二流の仕事とみなされていました。

 

当時、押しも押されもせぬ一流の銀行と目されていたJPモルガンは、5セントや10セントの商品を扱うような会社の資金調達を行うのは品位にかかわる、とゴールドマン・サックスのパートナーに次げています。

欧州のロスチャイルドがアメリカ市場に参入しようとしましたが、ユダヤ人差別で参入できなかったので、英国ウェールズ出身のWASPであるモルガンをアメリカでの代理人として使ったので、モルガンのバックには席最強財閥のロスチャイルドがいたからです。



ロスチャイルド財閥-111 国際金融財閥の序列

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ちなみに、幕末にやってきたペリー提督も、ウォーる街では有名なペリー財閥で、日本に来航してきた背景にはロスチャイルド財閥とベルモント財閥の影があり、」中国・日本を植民地化するためでした。 詳しくはこちら。

 

 

ロスチャイルド財閥-165 ロスチャイルドと日本の最初の接点

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中国は阿片戦争で大英帝国と大英帝国を操るロスチャイルドで完全に植民地化されましたが、日本にとって幸運であったのが、阿片戦争で時間稼ぎができたことと、当時アメリカ南北戦争が勃発し、アメリカは内乱で忙しかったからです。 

南北戦争が終わって大量の武器・兵器が在庫となり、それらは上海のジャーディン・マセソン商会(ロスチャイルドと親戚)に流れました。 当時の阿片戦争を仕切っていたのがユダヤのサッスーン財閥、ユダヤのジャーディン・マセソン、そして両家とも親戚のロスチャイルドです。



ロスチャイルド財閥ー20  上海・阿片王サッスーン

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阿片戦争で清(中国)から奪えるものは全て奪った大英帝国のターゲットが日本です。 それで元ジャーディンマセソン商会の社員であったグラバーが長崎にグラバー商会を設立し、ジャーディン・マセソン商会から武器を取り寄せ、坂本龍馬を通じて維新軍に流れ、戊辰戦争(維新軍vs徳川軍)です。 



そして当時の世界覇権は大英帝国Vsロシア帝国。


狡猾なイギリスは長州を中心とする維新軍(明治政府)を金と女?で篭絡し、日本を代理人としてロシアと戦わせたのです。 

これが日露戦争の真実。 

日露戦争の戦費がない日本は、クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフ(ロスチャイルドと親戚)とロスチャイルド・ロンドン家とパリ家に戦時国債を買ってもらい、ロスチャイルドGrの兵器会社であるアームストロング社とヴィッカース社から十・大砲・弾薬など兵器、また戦艦を購入し、なんとかロシアに勝利することができました。 

ちなみに、日本海海戦で大活躍した戦艦・三笠は、ヴィッカース社製です。

 

そして日露戦争での戦死者は9万人、一方狡猾なイギリスの死傷者はゼロ。 日本は巨額の借金が残り、完済できたのがバブルに踊る1980年代後半。 完全に大英帝国とロスチャイルドのマネーゲームに利用されたのです。

 

 

 

・ロスチャイルド財閥ー26 南北戦争https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/72efc2313bac4357d3a555337133143b


・ロスチャイルド財閥ー27 幕末・明治維新https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/2355a3b6e6b91eda6703f158d91a9b83


・ロスチャイルド財閥ー28 アメリカ金本位制への策謀https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/ccf2d9636cd5e57c3a836e49449feed8


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・ロスチャイルド財閥ー48 ロシア南下と日英同盟https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/c71dae618b77830471a5bc5b3e9763ea


・ロスチャイルド財閥ー51 日露戦争https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/5386bf54325637286f20e225254b974d

 

・ロスチャイルド財閥ー54 日露戦争後のロスチャイルド家

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話を、ゴールドマン・サックスに戻します。

 

引き受けはまだ新しい事業分野であったため、ゴールドマン・サックスは試行錯誤を続けていましたが、投資家を思う気持ちでは他社をはるかに凌いでいました。 

クライン・ウォートとのパートナーは、株式公開価格の値付けをしたポール・サックスに次のように言っています。

 

「普通株の公開価格を決定するにあたり、いくつかの誤りがあったように思います。 エルウースでは、過小評価に偏りましたが、これは一般投資家にとっては良いことでありました。 

最近行われたフッドリッチの普通株公募では、その公開価格は同社の本質的な価値を正しく反映していたと確信しておりますし、今後さらにその価値は上昇するものと考えています。 

しかし、公開時に8分の1の価格を支払い、数週間待てば数ポイントも低い値段で買えたのにと思っている投資家にとって、それは慰めとはならないでしょう。

弊社の営業力をもってすれば高めの価格で売りさばくことは可能でありますが、その力を乱用しないように注意する必要があると思います。 

以上は、単なる意見、あるいは友人としての好意のアドバイスだとご理解いただけるものと思います。 弊社も御社のご成功を心より祈念しております」。

 

その後30年間、ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズは、あたかも一つの会社であるかのように、発行体56社、発行案件114の引受を共同で行っています。

 

ユナイテッド・シガー社、メイ・デパート、アンダーウッド・タイプライター社、コンチネンタル・カン社、スチュードベーカーなどが両社の顧客に数えられます。 

当初は動きが鈍く、売り切るまでに何ケ月も必要としましたが、時と共に両社の評判は伸び、第二次世界大戦前の頃には、ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザースの案件は、公募価格が決まる前から完売されるまでになりました。

 


両社の共同事業は利益をもたらしましたが、同時に問題も多く、両社の間に横たわる不信感は公然の秘密でした。共同主幹事を行っている頃には、両社のパートナーはほぼ毎日昼食を共にしていました。 

ある日リーマン・ブラザーズのオフィスで食事することになっていたとき、サム・サックスは到着してすぐ、金庫の鍵をかけてくるのを忘れたのでちょっと中座するとフィリップ・リーマンに言いました。

 

リーマンは部屋を見回し、にやりとしながらサムにこう言いました。


「心配することはないよ、サム。 

僕らは全員この部屋にいるから」何年もの間ゴールドマン・サックスは、ビジネスの大半はうちが撮ってきたものだからヘンリー・ゴールドマンが当初取り決めた50%よりも多い手数料を受け取るべきだと強く主張してきました。

 

うちの顧客がいなかったらリーマン・ブラザーズは引受業務をこなすことが出来なかっただろう、とゴールドマン側は言います。 当然ながらリーマン・ブラザーズはそうは考えませんでした。 

ゴールドマン・サックスのパートナーは欲の皮の突っ張った利己的な人たちで、「墓石(ツームストーン)」に自分の名前が先頭に書かれることだけを考えている、とリーマン側は思っていました。

 

両社の関係は1920年代後半に悪化し、真っ向から衝突するようになり、1936年(昭和11年)、覚書を交わして正式に関係を清算しました。

大口顧客は両者の間で分配され、41社はゴールドマン・サックス、残りの19社はリーマン・ブラザーズが担当することとなりました。

 

その後も長い間、両社の間には大きなしこりが残りました。

すでに引退したパートナーたちは、彼らが若い頃には、リーマン・ブラザーズは軽蔑すべき会社だぞと、先輩から教わったものだと言います。 

しかし、両社は取り決めを守り、互いの縄張りを荒らすことはしませんでした。



サム・サックスとヘンリー・ゴールドマンが描いていた総合投資銀行の夢は実現しつつありました。

CPで築いた顧客との関係のおかげで、引き受けの仕事は安定して入ってくるようになっていました。 

新株を買うのは、海外ではパートナーのクラインウォートなどの顧客投資家で、国内では購入意欲を強めていた一般投資家でありました。

 

総合投資銀行としてのゴールドマン・サックスの地位が確固たるものになったかと思われたそのとき、パートナーたちが努力して作り上げてきた結束力の強い組織が綻びだしました。 

第一次世界大戦後はヨーロッパを二分し、またゴールドマン・サックスを二分しました。



ヘンリー・ゴールドマンはドイツ系ユダヤの出自を強く誇りに思い大切にしており、はばかることなくドイツを支持し、戦争でもドイツを支援しました。 

激しやすく、熱しやすく、人に教訓を垂れるのを好む彼が、ドイツを無条件に支持して、その愛国心を隠そうとしなかったために、会社の評判は大きく損なわれました。

 

 






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GS-5  ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズ そしてシアーズ

2023-02-06 08:35:58 | 国際政治・財閥





【GS-5  ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズ そしてシアーズ】


GS-4 鉄道投資から小売業投資へ そしてリーマン・ブラザーズと提携
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からの続き



小売業の大口顧客は偶然やってきました。 ジュリアス・ローゼンワルドは、サム・サックスの妹エミリアの夫のいとこです。 何年も前の事、ドイツから初めてアメリカに渡ってきたとき、ローゼンワルドはエミリアとその夫のニューヨークの家に居候しました。 二人は彼を好青年とは思いましたが、ビジネスで大成するタイプではないと思っていました。

その後、ローゼンワルドはチャンスを求めて中西部に出て行きました。 そこで彼はリチャード・シアーズに出会います。 彼はミネアポリス・アンド・セントルイス鉄道の切符販売代理店でしたが、時計の通信販売のアイデア節理牛ました。を集めていました。

やがて、事業をミネアポリスからシカゴに移し、二人は三分の一ずつ出資し、シアーズ・ローバック社を設立しました。 残りの三分のは個人投資家の出資を仰ぎました。 将来、小売業の巨人となるこの会社は、ゴールドマン・サックスが販売するCPによる資金調達を得て、拡大を続けることになります。

1897年(明治30年)、シアーズの純資産がわずか23万7000ドルのときに、ゴールドマン・サックスは7万5000ドルのCPを引き受けています。 およそ10年後、ローゼンワルドは、シカゴに通信販売業務のために大規模な工場の建設を計画し、その資金として必要な500万ドルの調達方法に関してゴールドマン・サックスのいとこたちに相談をもちかけました。

ヘンリー・ゴールドマンは株式公開を勧めました。 1906年(明治39年)、ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズは合同で、最初の通信販売会社の株式公開をてgけることとなりました。 尾の年の初め、ゴールドマン・サックスはユナイテッド・シガー製造会社の新規株式公開の引き受けを行っていましたが、もっと経験を重ねて、社会的な知名度と高めようと懸命でした。


当時シアーズの年間売り上げは5000万ドルでした。 ゴールドマン・サックスとリーマンは優先株と普通株の1000万ドルの株式公開引受を行いました。 優先株にはシアーズ社の資産を担保としました。、普通株は当時としては非常に珍しく、同社のおれん代(営業権まどの無形資産)を担保としました。

引受2社は、優先株を一般に販売し普通株は自社で保有することとしました。 80年後に、マイケル・ミルケンが同様の手口で「先駆者」となっています。リスクの高い案件の引受を行うときには、ドレクセル。バーナム・ランバート社はワラント(あらかじめ決められた価格で将来株を購入する権利)を自社保有し、リスクを取る分、成功時のリターンが高くなるようにしました。


このときまで、鉄道会社や製鉄会社の大半の証券が、会社の有形資産価値で評価されて市場で売り出されていました。 ヘンリー・ゴールドマンは、小売業においては、在庫回転率,すなわちどれだけ早く現金を生み出す能力があるかが債務返済能力を決め、利益を生み出すものであり、有形資産ではないと主張しました。

この考えをさらに広げて、彼は利潤を生みだす能力で会社を評価する概念を作り出しました。 これがすなわち株価収益率であり、今日でも普通株を評価するときに広く使われています。 この革新的な考え方が、ゴールドマン・サックスのその後の成功を約束しました。


ゴールドマン・サックスが引受を手がけようという愛車には、有形資産が少なくのれん代の大きいところが多く、このような手法なしでは、当初懐疑的だった一般投資家に売り込むのは困難だったでしょう。







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