Renaissancejapan

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GS-4 鉄道投資から小売業投資へ そしてリーマン・ブラザーズと提携

2023-02-05 21:52:41 | 国際政治・財閥





【鉄道投資から小売業投資へ そしてリーマン・ブラザーズと提携】


・義理の息子サムを家業に招き入れ、ゴールドマン・サックス設立
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/9aa9dfa7e4679546156b0c38634156d9
・マーカス・Gの息子ヘンリー・Gと義理の息子サム・サックス
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サム・サックスと共に、ヘンリー・ゴールドマンは父の死後何年にもわたって、会社経営に携わりました。 彼は資格に問題があってハーバードを中退しています。 外交営業員として働いた後、彼は28歳でゴールドマン・サックスに入社しました。 のちにシニア・パートナーとして、ゴールドマン・サックスを経営することになるシドニー・ワインバーグは、ヘンリーを独創的な天才で、会社の事業に革命を巻き起こした男と評しています。

引き受けという新たな事業を導入して会社を投資銀行に変身させたのは、他ならぬヘンリー・ゴールドマン(マーカス・ゴールドマンの実の息子)でした。

 1890年代から第一次世界大戦までのこの時期に、今日知られる形態の投資銀行が発生しました。 アメリカは資金を必要としており、新たな投資銀行家がその手助けをしました。 アメリカの金融機関の資産は、1900年から1910年の間に、90億ドルから210億ドルへと、2倍以上に急増しました。

ゴールドマン・サックスもこの時期、スカゴ、ボストン、フィラデルフィア、セントルイスに支店を開設して業務規模を拡大させました。 20世紀初頭、それは素晴らしい好相場でした。 1904年から1906年の間にダウ工業株30種平均は36.4から73.5に倍増しています。 

しかし、1907年、ニッカーボッカー信託銀行が倒れて銀行にパニックが起こると、株式相場も大きく下げました。 ヘンリー・ゴールドマンはコロンビア信託とニッカーボッカーの合併に手を貸しています(新たに設立された銀行は後にアービング・トラスト・カンパニーとなり、その後90年間ゴールドマン・サックスの顧客となっています)。

ゴールドマン・サックスもこの困難な時期に無傷で済んだわけではありません。 サム・サックスはアレキサンダー・食えアインウォートにこう打ち明けています。 「450万ドルの資本になった、ともう少しでご報告できるところでしたが、相場の急落にやられて75万ドル減少させてしまいました」 

当時、大手金融機関として知られた、JPモルガン、クーン・ローブ社、スパイヤー社などは、電力会社や鉄道会社の事業拡大のために多額の資金調達を行っていました。 1900年から1902年(明治35年)の間だけでも、12億ドルの鉄道株が新たに発行されています。


ロスチャイルド財閥-111 国際金融財閥の序列
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ヘンリー・ゴールドマンは積極的に鉄道株の買いを行いました。 鉄道会社の経営者がそれに気づけば、当時もっとも利益率の高かった引き受け業務に加わらせてもらえるだろうという読みからでした。 ジミー・スパイヤーはゴールドマンの戦術に気付き、彼をパイン・ストリートのオフィスに呼びつけました。 

彼は野心に燃えるヘンリー・ゴールドマンに、鉄道は名門金融機関3社が一手に扱っていて、君たちのような新参者の入る余地はないと告げました。 スパイヤーは、ゴールドマン・サックスの所有する株を、買い入れ価格に6%上乗せした価格で買い取ると申し入れましたが、ヘンリー・ゴールドマンは断り、激怒しながら会社に戻り、パートナーを招集しました。

いつものように、義兄弟のヘンリー・ゴールドマンとサム・サックスは意見を意にしました。 ヘンリー・ゴールドマンはこの機会に、鉄道の引受業務の可能性を探るべきだと主張しましたが、サム・サックスは、既成勢力に逆らって会社の名声に傷をつけるリスクをとることに強硬に反対しました。

仲裁のために、会社の顧問弁護士として時折手助けをしていたジュリアス・ゴールドマンが呼ばれました。 ジュリアスは兄のヘンリーではなく、義理の兄サムの肩を持ちました。 そこでヘンリーは新たな事業機会を探すことにしました。

今から考えれば、スパイヤーは鉄道の引き受けに請じ入れなかったことで、ゴールド・マン・サックスを大きく助けたことになります。 

鉄道の引き受けで名門3社を敵に回すには相当のマーケットシェアを獲得する必要があり、ゴールドマン・サックスは苦しい戦いを強いられていたことでしょう。 

鉄道以外の分野に機会を求めざるを得なくなり、ゴール土間・サックスは新たな事業を独力で開拓していきました。 鉄道が重要な事業ではなくなった後も、この新規事業は長く生き残っていきます。 銀行の既成勢力に門戸を閉ざされ、仲間のパートナーの野心のなさに傷つき、ヘンリー・ゴールドマンは急成長を始めた小売業に目を向けました。 

鉄道株はまだ市場で支配的な存在ではありましたが、ニューヨーク証券取引所に上場された工業、商業関連の会社は、1898年の20社から1915年には173社へと着実に増加を示していました。 それらの多くは同族会社で、南北戦争の後に設立され、業務拡張のために資金を必要としていました。

それまで、資金ニーズは商業銀行の融資かCPでまかなわれていました。 このとき初めて、これら企業も株式市場での調達を検討し始めました。 これはチャンスにお到来でした。 ヘンリー・ゴールドマンは仲の良い友人フィリップ・リーマンとともにこのチャンスを生かしました。

二人の友人は、マンハッタンのダウンタウンのレストラン、デルモニコの二階で毎日昼食を共にし、ゴールドマン・アンド・リーマンという名前で引き受け会社を設立することを検討しました。 しかし、結局はそれぞれの家族が経営する会社で、共同引き受けを行うことに決めました。 古御提携に基づいて、ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズは株の引き受けを共同で行い、利益を折半しました。

この関係が長く続いたのは、ゴールドマン・サックスが顧客を持ち、リーマン・ブラザーズが資金を持っていたためでありました。







 
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GS-3 マーカス・Gの息子ヘンリー・Gと義理の息子サム・サックス

2023-02-05 16:52:43 | 国際政治・財閥





【マーカス・ゴールドマンの息子ヘンリー・ゴールドマンと義理の息子サム・サックス】

義理の息子サムを家業に招き入れ、ゴールドマン・サックス設立
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マーカスの末娘のルイーザと結婚したサム・サックスを家業に招き、会社名を「マーカス・フォールドマン商店」から、1885年に現在の「ゴールドマン・サックス」に変更し、1894年に会社はニューヨーク証券取引所の会員となりました。

彼らの努力の結果、ゴールドマン・サックスはアメリカ最大のCP(もマーシャル・ペーパー)のディーラーとなり一世紀以上の間、揺るぎない地位を築いていきました。

1890年のCPの取扱高は3100万ドル、1894年には6700万ドル、1960年後半にはゴールドマン・サックスはアメリカのCP全体の50%を扱い、1日に2億ドル以上を投資家に販売するまでになっていました。 1894年の資本は58万5000ドル、年間利益は20万ドルになってい、いました。 それから4年の間に、資本は3倍の160万ドルに増えました。 パートナーの資本は驚くべき率で伸び、1900年の終わりには250万ドルに膨れあがり、1906年には120万ドルの利益を上げ、事業は大きく多岐にわたるようになり、パートナーは450万ドルの資本を抱えるまでになりました。

マーカスは引退して、会社を息子のヘンリー・ゴールドマンと、義理の息子サム・サックスに託しました。義理の兄弟であるヘンリーとサムは対照的で、ヘンリーはざっくばらんな性格、サムは几帳面で保守的な人物でした。 ヘンリーはないつも何か新しいチャンスを捉えて大きく稼ぐ方法をさがしていましたが、サム・サックスは、会社の信用、金融界での地位を機に懸けました。

義理の兄弟の間には、一種の対抗意識があり、互いに神経を逆なですることもありました。 しかし二人が常に思いを共にすることが一つありました。 それは、会社を単なるCPのディーラーに終わらせず、もっと広い分野で活躍する金融機関に発展させようという夢でした。

サム・サックスは国際的な銀行になることを考えていました。 当時の資産家のアメリカ人がみなそうであったように、ヨーロッパのものすべてに憧れていました。 仕事あるいはプライベートで家族と頻繁にヨーロッパを訪れる彼のライフスタイルは、どこから見てもヨーロッパそのものでした。

サム・サックスは、1897年6月にロンドンを訪れ、当時の名門マーチャント・バンク(国際銀行)の一つ、クラインウォート・サンズ社のハーマン・クラインウォートとアレキサンダー・クラインウォートと会いました。 

クラインウォート家の二人は興味を示しましたがゴールドマン・サックスの事を何も知りませんでした。 N・M・ロスチャイルドのニューヨークの代理店」、オーガスト・ベルモントを通じて彼らはこの新参者の調査を行いました。

ロスチャイルド財閥-165 ロスチャイルドと日本の最初の接点 ←オーガストベルモント財閥とペリー財閥の事かいています
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調査の結果は、なかなか好ましいものでした。 ベルモントは、ゴールドマン・サックスが「非のうちどころない会社だ」と評しました。クラインウォーは、ロンドンの一流銀行で、その名は広く響き渡っていて、彼らとの関係はかけがいのないものとなりました。 

署名で契約をを交わすこともしないまま、両社は、1897年共同事業体を創り出し、その後何十年と成功を続けていきました。 両社のパートナーたちの更新記録を見ると、個人的にも仕事の上でも、親しい関係を築いていたことが分かります。
彼らは相互に経済状況や相場、新規事業の機会に関する意見を交換したり、暖かい個人的なメッセージを交わしています。

ゴールドマン・サックスのパートナーたちはイギリスに行くと、クラインウォート家の郊外の家で週末を過ごしました。クラインウォート側も、この関係から大きな利益を得ました。 1913年にヘンリー・ゴールドマンに宛てた手紙には、両社の関係がさらに強固なものになることを望むと書かれています。 ゴールドマン・サックスが1970年までロンドンに事務所を開設せずにいた理由は、一つには、友人であるクラインウォート家の気分を害するのではとの配慮があったためです。

サム・サックスは、パリとベルリンでも同様の関係を築き、外国部は急速に拡大していきました。 1906年には、この部門だけで50万ドルの利益を計上するまでになっていました。

1904年、サム・サックスの二人の息子、アーサーとポールがハーバード大学を卒業すると同時に入社しました。そしてその夏、彼らの祖父にあたるマーカス・ゴールドマンが世を去りました。 マーカスの一生は驚嘆に値するものでした。貧乏のどん底から、やがては総合投資銀行として繁栄する組織を遺したのです。 融資機能、外国為替、トレーディング、そして引き受けの機能。  

小規模で粗削りではありましたが、今日のゴールドマン・サックスの原型はマーカスの手によって、すでに作られていました。








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