新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

わが終活 「もうろくたかって死ぬの忘れた」

2021-09-11 17:12:11 | 新日本意外史 古代から現代まで




  わが終活


「もうろくたかって死ぬの忘れた」老人が多くなった昨今、
老生、人生の頽齢期を迎えて、いくら長命の時代とは言え、神がいるなら、お目にかかる日はそう遠くないだろうと覚悟している。
世間は武漢病毒悪性肺炎や政治の混沌で騒然としているが、己の身辺整理にいそしんでいる。


紅灯緑酒の巷で気違い水を呑み、泥水家業のホステスとの交遊も断って十数年。
「死に損ないの老いぼれ野郎」と呼ばれぬよう、静かに、世間様の迷惑にならぬよう、暮らしている。


「鶴は千年、亀は万年、我は天年」と喝破したのは禅僧仙崖だが、生きようとして叶わず、死のうとして叶わず、これ全て寿命という天の配剤に依るという意味になる。
「人生、古(いにしえ)より誰か死なからん」とは南宋の政治家、文天祥が詠んだ詩句の一節だが、これが私の死生観である。


終活は現在の流行りだが、老生も様々な終活をしている。常人と比べれば凄まじい生き方をしてきた。他人様に迷惑をかけたのは数知れず。助けられたり助けたり。
だが、御恩になって方には誠意を尽くしお返しをした。家人と共に三途の川を渡る「死に装束」も用意し「生前葬式」も済ませた。
身の回りの様々な"物質"も断捨離した。


拙宅を建てる際、居間に書物収容用の写真の本棚も作り付け、重量受けの為土台も補強した。書斎には史資料が乱雑に積まれていたが、これは大学に引き取ってもらった。
書物は読むために購入したものだが、知らず知らずのうちに約三千冊になった。これも市の図書館に寄付した。おかげで写真のようにガランとした本棚は何か寒々しくなった。
残りの人生「達観してなお枯れず」そんな晩年を送るつもりである。