新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

敵は本能寺 第三部 光秀にはアリバイがある 光秀は何処にいたのか

2019-07-31 09:26:07 | 古代から現代史まで
敵は本能寺 第三部
 
 
 
       光秀にはアリバイがある
    光秀は何処にいたのか
 
殺人者つまり加害者は、殺された人間の、殺された現場にいなければならないことに、<密室の殺人>という例外を除いては、推理小説でも、これは決まっている。 ところが、信長殺しに限っては、被害者の側に光秀がいた形跡は全くないのである。 殺害された日時は、今の暦なら七月一日だが、当時は太陰暦なので六月二日に当たる。 時刻は、夜明け前というから、午前四時とみて、それから出火炎上する午前七時から七時半までの間。推定で計算すると、およそ三時間半の長時間であるが、この時間内において、明智光秀を本能寺附近で見かけた者は、誰もいない。これは動かしがたい事実である。 つまり光秀は本能寺どころか、京都へ来ていなかったのである。いやしくも謀叛を企てて信長を殺すならば、間違いのないように自分が出てきて監督指揮をとるのが当り前ではなかろうか。もし失敗したら、どんな結果になるか、なにしろこれは重大な事である。 それなのに、従来、加害者とみられている光秀は来ていないという事実。もし彼が真犯人であるなら、世の中にこんな横着な殺人者はいない。ということは、 「信長が害された殺人現場に光秀はいなかった」という具象を明白にし、現代の言葉でいうならば、「光秀の不在証明説」の成立である。 もちろん、これに関しては、日本歴史学会の会長であり、戦国期の解明にあっては、最高権威である高柳光寿氏も春秋社刊行の<戦国戦記>の、 「本能寺の変・山崎の戦い」の五十四頁において、はっきりと、「六月二日、つまり信長弑逆の当日。午前九時から午後二時までしか、光秀は京都に現れていない」と、これは明記している点でもはっきりしている。
 念のために当時の山科言経の日記。つまり<大日本古文書><大日本古記録>の<言経卿記>の内から、事件当日の原文を引用する。
「その日、午前九時から午後二時までしか、京にいなかった光秀のために」それは必要だからである。
(天正十年)六月二日戌子。晴陰(曇) 一卯刻前(註、卯刻というのは午前六時、又は午前五時から午前七時をさす。だが、この場合、何刻から何刻というのでなく、 ただ午前六時から前であったいう、つまり時間的な例証になる。なにしろ午前九時すぎに上洛してきた光秀には、これでは関係がない)  本能寺へ明智日向守謀叛ニヨリ押シ寄セラル(註、この言経記にも、一応は、こう書いてある。いないものが押寄せるわけはないが、みなこう書いてある。つまり、こう書くほうが、この十一日後に光秀は死んでいるから、死人に口なしで、何かと、みんなに都合が良かったかもしれない)  前右府(信長)打死。同三位中将(岐阜城主にして跡目の織田信忠)ガ妙覚寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王の二条城)ヘ取篭ノ処ニ、同押シ寄セ、後刻打死、村井春長軒(村井長門守貞勝)已下悉ク打死了、下御所(誠仁親王)ハ辰刻(午前七時から午前 八時)ニ上御所(内裏)ヘ御渡御了、言語同断之為体也、京洛中騒動、不及是非了
 
 
つまりこれは、四条通りの本能寺が炎上してから、織田信忠が妙覚寺から引き移った二条にある下御所へ押し寄せたから、誠仁親王が、まだ早朝なので、お乗物がなく、辛うじて里村紹巴(しょうほ)という連歌師の見つけてきた町屋の荷輿に乗られ、東口から避難されたという当時の状景を現してたものである。  ただし、この時代は陰暦なので、六月二日は初夏ではなく、もう盛夏である。そして当時は、今のように電気はなかったから、一般は灯火の油代を倹約して、早く寝て夜明けには起きて働いていた。だから、「早朝で輿がなかった」というからには、午前七時前が正しいかと想える。遅く見ても午前七時半迄であろう。農家は午前四時、町屋も六時から、当時は起きていたものである。  という事はとりもなおさず、まだ明智光秀が京へ入ってくる迄には、二時間以上のずれがあった。という事実がこれで生じてくる。
さて二条城に立て篭もった織田信忠達が何時頃全滅(脱出できたのは織田有楽と苅屋城主水野宗兵衛の二名のみと<当代記>にある)したのかは記録がない。  しかし前後の経過からして、本能寺炎上後、二条御所も炎上して、全てが終わったのが午前九時頃とも思える。  そうなると、明智光秀が上洛したのは、もう、すべてが終わってしまった後ということになる。  もし、そうでないにしても、光秀が京へ入ったのは二条御所が包囲され、親王が脱出されてから既に二時間経過した後である。もはや、やはり「万事終われりの時刻」でしかない。  これは推理でもなんでもない。当然な計算である。  そうなると、ここで疑問になるのは、「明智光秀は、それまで何処にいたのか」ということになる。
 
 もちろんヘリコプターもなかった頃だし、午前九時には現場に到着していたというのだから、午前五時頃には、馬に跨って京に向かっていた事は事実であろう。そうなると、この問題は、 「何処からスタートしてきたのか」ということなる。  これに関しては正確なものは、何も残っていない。ただ判っているのは三日前の五月二十八日に(この時の五月は二十九日までしかない)愛宕山へ登って、同日は一泊しているという証言が、里村紹巴らによって後日提出されている。  さて、<言経卿記>によって天候をみると、
五月二十七日 雨   二十八日 晴   二十九日 下末(どしゃぶり) 六月  一日 雨後晴となっている。
 二十八日は晴天だから、この日に登山したのはわかるが、問題は二十九日である。 これまでは、この日の下山となっているが、下末とは「どしゃ降り」の事である。  だから、馬で愛宕の山頂までかけ登った光秀が、今と違い鉄製の馬蹄ではなく、藁で編んだ馬沓の駒の尻を叩いて、相当に険阻な山頂から血気にまかせて、滑り落ち転落する危険を冒してまで、降りてきたとは考えられない。勿論、今となっては正確には明智光秀の年齢は判らない。だが<明智軍書>という俗書に「五十五年の夢」という辞世の一句がある。  その本では真偽の程は判らないが、時に信長が四十九歳なら、やはり、それくらいかも知れぬ。そうなると、今でも昔でも人間は似たようなものである。どうして五十過ぎの男が血気にはやって、雨の中や、まだ地肌がぬるぬる滑る山道を、駈け降りてくるなどとは、とても常識では考えられない事である。  だから、通説では二十八日登山。一泊して二十九日下山となっているが、正確な当時の天候から推測して、下山は六月一日が正しかろう。  しかも、この六月一日も夕方まで沛然たる雨で、小止みになってから妙覚寺滞在中の織田信忠が、夕刻から本能寺を訪問しているくらいだから、光秀が下山したのも、家来に足許を照らさせて山道を降りたのは、やはり雨が止んだ後と、考えるべきが至当であろう。だが、京と愛宕とは、後者が山だけに、なお降り方は悪かったとも想える。  そうなると、光秀が、もし丹波亀山に着いたとしても、一万三千は出陣した後という事になってしまう。だから、光秀は後を追い、まさか一人ではなんともなるまいから、 「支城の坂本へ引返し、そこで三千余の兵を率いて、至急、京へ駆けつけたという次第ではないかと」とも思われる。 もう一回ここで、この日の順序を追ってみると、
六月二日(新暦7月1日) 午前四時、本能寺包囲される 午前七時 炎上、信長行方不明      引き続き二条御所包囲      誠仁親王御所へ動座      信忠軍と包囲軍交戦 午前九時 明智光秀入洛 午後二時 明智光秀出洛 午後四時 光秀、瀬田大橋に現れる 午後五時 三千余の軍勢のみにて光秀は、坂本に帰城す
といったような経過を光秀は辿っている。
     奇怪な山岡景隆の行動
 そして、これは吉田神道の<兼見卿記>によるのだが、この二時以降の、光秀の行動はわりと詳しくわかっている。(だが、この兼見という人は、この時点の日記を、後から別個に書き直している)つまり日記の二重帳簿である。そして、その表向きのしか、残念ながら今は伝わっていない。  それでも、それによると光秀は当日、持城の山崎勝竜寺城(つまり占領して奪ったのではなく、前から自分の支城)へ寄って、そこで城番をしていた重臣の溝尾庄兵衛と相談した結果、午後二時に、そこを出発し大津へ向かい、午後四時に、安土へ伺候 するため瀬田へ向かったとある。さて、現在残っている、その表向きの日記では、これからの状態を原文で引用すれば、
「誘降せんとするに、(瀬田城主)山岡景隆は、かえって瀬田大橋を焼き落とし、己が城(瀬田城)にも放火し、光秀に応ぜずして山中へ入る。(止むなく光秀は残火を消し止めさせ)橋詰(めに足場にする砦)を築かす。夕景に入って、ひとまず光秀は、 坂本へ戻る」となっている。もちろん、これは明智光秀犯人説が正論化されてからの日記であるから、一応は、白紙に戻して考えてみる必要もある。
そうなると、「元禄十四年三月十四日に、浅野内匠が吉良上野に刃傷し、即日処刑をされてしまったと伝わるや、主家の大事とばかり赤穂城へ大石内蔵助以下家臣の面々が集まったように‥‥この時点でも、信長の異変の善後策に、家臣の光秀が安土城へ駈けつけようとしたのは、自然な行為ではなかろうか」と考えるのは無理であろうか。
 
 
 さて、それなのに、それを阻止して橋を焼き払ってしまうというのは、これは一体どういう事なのだろうか。  もちろん後年のように、光秀謀叛説が確定してしまった後から書かれた<兼見卿記>では、さも光秀が安土城占領に赴くのを防ぐために、防衛の見地から、これを邪魔したようになっている。また、そうとしか読めない。  だが実際は、六月二日の当日の事である。
本来ならば山岡景隆は光秀を迎えに出て、「一体いかなる事が出来(しゅつたい)したるのか」と話を聞き、共に善後策を講ずるのが、ごく普通の途ではなかったろうか。なにしろ、かつては十五代将軍足利義昭に共に仕えた仲であり、この十年前に、 山岡景隆は、その弟山岡景友と共に信長に叛き誅されるところを、光秀に助命され、つつがなく瀬田城主の位置を保てた男である。
 もしも山岡景隆が、当日の午前中に在京し、この異変が「明智の謀叛」と確認しているのならば、いわゆる正義感をもって、僅か三千の兵力では占領は考えられなくても、 「おのれ、逆臣、光秀め。通しはせじ」と、橋を焼いてしまった事も理解できる。  ところが本能寺の異変は、午後三時頃になって、安土への急使か、又は通行人によって、この景隆は耳にしたにすぎない。何も詳細は知っていない。それなのに何故、確かめもしないで一時間で断固として橋を焼き、自分の居城まで焼き落とす様な、思 い切った事を企てたのであろうか。  まず、このひっかかりから先に考えてみたい。
もともと、明智勢をば対岸の山頂から湖水越しに望見していた山岡景隆というのは、先に足利十代将軍の義稙(よしたね)が、近江半国の守護代六角高頼(たかより)を討つため、延徳三年八月に出陣した際の大本営の三井寺(みいでら)の光浄院の出である。この時から室町幕府に奉公しだした光浄院は、その後、山城半国の守護に任ぜられていて、天正元年二月には、十五代足利義昭の命令によって、当主の暹慶(せんけい)が西近江で挙兵。
 
 
「打倒織田信長、仏敵退散」の旗印のもとに一向宗の門徒を集め、石山の本願寺と連絡をとりながら、石山と今堅田に砦を築いて抗戦。  二月二十四日に、柴田勝家、蜂屋頼隆、丹羽長秀、明智光秀の連合軍に攻められ石山陥落。二十九日には今堅田の砦も力戦かいなく落されて、改めて信長に降人。その名を山岡景友と改名して助命され、勢田の城主の地位は遠慮して、兄の山岡景隆に譲った。この兄こそ、十年後、橋を焼きすて、じっと山頂から、光秀の様子をしかと眺めていた山岡景隆になるのである。なお、彼の弟には近江膳所(ぜぜ)城主の同景佐(かげすけ)。次が玉林斎景猶(かげなお)、そして四男が山岡景友である。
 
 
<慶長見聞録案紙>によると、この男は二年後において伊勢峰城にあって秀吉方と激戦し、「徳川家康の黒幕」と言われた「山岡道阿弥」に名のりを変え、秀吉の死後、伏見城に家康が入ると、その守護に、伏見城後詰に取出し屋敷を構えて、鉄砲隊で固めたり、関ヶ原戦においては、長束正家を破ったり、ついで尾張蟹江の城を攻略し、懸命に家康に奉公するのである。
それは後年の事であるが、この山岡景隆・景友らの兄弟はなぜか、この時つまり本能寺の変の二年後には、事実不明の柴田方加担の罪のもとに秀吉の為に城地を追われてしまい、やむなく家康を頼って行ったと、<武家事記><寛政譜>には残っている。  さて、こういう事は、とりもなおさず六月二日の午後三時から四時までの間に、急いで「安土への通行を止めるように」瀬田の大橋を焼き払ってしまったという事は、これは秀吉又は家康から前もって予告され、密令が下ったのではあるまいか、と不審に想える。どう考えても、このやり口は山岡兄弟の肚ではない。
 
 
もし光秀が当日安土へ入っていたら、信長の生死不明の侭にしろ、重臣の一人として、なんらかの善後策をとっていたであろう。そうなれば天下は動揺する事なく、当時、伊勢にいた織田信雄か、住吉の大物浦で出航するため大坂城にいた織田信孝かの、どちらかに跡目は落ちつくに決まっている。だからこそ、それでは困る人間が、安土へ光秀を入れないようにと、橋を落させてしまったのではないか。勿論これは想像であるが、架橋するために砦まで構えたという事は、琵琶湖の対岸から山岡勢に弓鉄砲を撃ちかけられ、修理を妨害されていたことになる。もし、それほどまでに山岡一族が安土城に忠義ならば、光秀が引揚げた後、すぐにも彼等は安土へ駆けつけるべきである。なのに、全然行ってはない。これでは信長のために、瀬田の大橋を焼いたことにはならない。自分らの私益の為である。 <兼見卿記>の記述と事実はここに於いて相違している。  つまり何者かが、光秀を陥入れる為にか、彼を安土へ行かせず孤立させる事によって、全てを彼に転嫁させようとする謀みではなかろうかという疑惑が、色を濃くしてくる。
    信長を爆殺した火薬の謎
 次に奇怪な事は、まだある。 光秀が、丹波亀山の本城から出てきたのなら、そちらへ戻るべきである。  ところが、光秀は本城へは行かずに坂本へ向かっている。  ということは、その伴ってきた武者共が、丹波亀山衆ではなく、別個の近江坂本衆であったという事になる。いくら取り違えても、丹波から出てきた連中を、間違えて近江へ連れ戻す様な気遣いはない。  つまり光秀がこの六月二日に上洛してきた時に、同行してきた(推定三千)ぐらいの連中が坂本城の者となると、これは、とりもなおさず光秀が、坂本から上洛した、という例証になるだろう。亀山ではないのである。  すると、光秀が京へ姿を見せるより早く、夜明け前から丹波方面より上洛していた連中は、それでは、どこの部隊かということになる。幻の軍団である。  まず二つに分けて想定できる。なんといっても、その第一は織田信長の軍団編成のもとに、近畿管区団となった各師団である。これは
寄親(よりおや) 明智光秀丹後衆  細川藤孝、倅 忠興                    大和衆  筒井順慶             摂津衆  高山重友(高槻) 中山秀清(茨木)             兵庫衆  池田恒興(伊丹) 倅 元助
 ところが、この連中はその十日後の山崎合戦では、秀吉方となって戦っているか、さもなくば細川みたいに中立している。だから、これまでの歴史は、彼等は上洛しなかったことにしている。合計の兵力がちょうど一万二千から一万五千であって、謎の上洛軍と員数は合うのだが、どうであろうか。なお、有名な話だが、呂宋へ後に流される高山重友は「ジュスト右近」といわれて、こちこちの信者だし、他の者も、<1507・9・19臼杵発ルイス・フロイス書簡>によれば、池田恒興も、入斎という名の他に「シメアン」の洗礼名をもち、その娘は、岡山城主ジョアン・結城に嫁し、みな神の御為には何事もいとわなかった信者だそうである。中川瀬兵衛清秀にも「ジュニアン」の洗礼名がある。
 
 
 だから、<ヨハネ黙視録>にあるように、「この後、我見しに、見よ天に開けたる門あり、初めに、我に語るを聞きしラッパの如き声にていう『ここに登れ』我、この後に起るべきことを汝らに示さん」といった 具合に、本能寺から一町もない四条坊門の三階建の教会堂へ登って、その上から、「我らの主なる神よ、栄光と尊貴と能力とを受け賜うは宜(うべ)なり。神は万物を造りたまい、万物は、みな御心によりて存し、かつ造られしものなればなり、アーメン」ドカーンと爆発させてしまって、本能寺を葬り去ったのかもしれない。
 
永遠の神の恩寵を得るためには、現世の信長を吹き飛ばしたところで、別に高山や池田、中川といった切支丹大名は、良心の呵責に苦しむような事はなかったであろう。もし、そうしたことを<罪>の意識で感ずるぐらいなら、その二年後、現実的に彼等は秀吉の部下となって故信長の伜と戦いなどできない筈である。  というのは、当時のポルトガル商人は、火薬を輸入するにあたって、ヨーロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい木樽に詰め替えて、さも、マカオが硝石の産地のように見せかけて、日本へ入れていた形跡がある。これは、ビブリオテーカ(政庁図書館)所蔵の<ジャバーウン(日本史料)>の中に、木樽の発注書や受取りが混っているのでもわかる。まさか日本へ樽の製作を注文する筈はないから、当地の中国人細工物師に、西洋風の樽を作らせたものだろうし、それが日本関係の古い書付束に入っているのは、日本向け容器として、新しく詰め替えされたものと想える。  
 
古文書の<岩淵文書>の火薬発注書にもあるように、当時の輸入火薬は湿気を帯びていて、発火しないような不良品も尠なくなく、一々「よき品」と但し書きをつけなくては注文できぬような状態だ。そこで良質の火薬ほしさに、切支丹に帰依した大名も多かったのである。  だから、ポルトガル船の商人は「これはマカオで詰め替えてきて、樽だけは新品ですが、中身は保障できません」などとはいわず、「マカオでとりてたの、ほやほやです」ぐらいの事は言っていたかもしれない。  だから信長としては、鉄砲をいくら国内で増産しても、火薬がなくては始末につかないから、てっきりマカオが硝石の原産地だとばかり、間違えて思い込んでいたと考えられるふしもある。
 
 <津田宗及文書>の天正二年五月の項に、当時岐阜城主だった信長に招かれて行ったところ、非常にもてなしを受け、宗及ら堺の商人が当時マカオからの火薬輸入を一手にしていたのに目をつけた信長は、彼らの初めだした「わびの茶」を自分もやっていると茶席を設けてくれた。  それまでの「ばさら茶」では唐金だった茶器を、宗及らの一派が「竹の茶筅」に変えたのに目をつけた信長は、この時初めて「茶筅髷」とよぶ、もとどりを立てた髷に結って、その席に姿をみせ、おまけに給仕役に召した次男の信雄を、この時から「茶筅丸」とよばした事は、有名な事実である。  つまり安土城を築く前から「天下布武」の目標のために、信長は良質の火薬の輸入確保に焦っていたのである。が、従来の歴史の解明では、近江長浜の国友村で鉄砲を大量製産させたとか、紀州の雑賀部族に量産命令を出したとか、といったような銃器の方だけに捉われていて、鉄砲というのは、火薬がなくては使い物にならないのを失念している傾きがある。当時の火薬の配合は75パーセントが輸入硝石で、こればっかりは日本ではどこを掘っても見つかっていないのである。
 
 
 そして、その硝石、当時の言葉で云えば「煙硝」の原産地を、仲継地とは知らず信長はマカオと思っていた。  普通ならば国内を平定してから、国外へ勢力を伸ばすのであるが、天正十年の情勢では、九州へ輸入される硝石によって、西国の毛利や、豊前の大友、秋月、竜造寺、薩摩の島津が武装を固め、信長に敵対をしていた。こうなると抜本塞源の策は、硝石の原産地がマカオであるなら、そこを先に奪取して、西国、九州への火薬輸入をくいとめるしか、この場合、完全な打つ手はない。
 信長が天正八年あたりから、ポルトガル風の長いマントを羽織ったり、ラシャの大きな南蛮帽をかぶりだしたのを、今日では「珍しい物好き」とか「おしゃれ」といった観察で片付けているが、あれは外征用の準備ではなかろうか。十九世紀の明治初年 でも、外国旅行をするとなると、横浜関内の唐物屋へ行って、洋服を注文して仕立てさせ、それを着込んで出かけたものだが、信長の場合にも、これはあてはめて考えるべきであろう。
    信長が建造した巨鑑の謎
 さかのぼって1571年の9月30日。  日本暦の九月十二日に信長が延暦寺の焼討ちをした時には、<フロイス書簡>は、「このような余分なものを一切滅却したもうたデウスは、賛美されるべきかな」 と、天主教布教の障害であった仏教の弾圧にのりだした信長を、神の名によって、マカオから来ていた宣教師は褒めた。  この年の十月、カブラル布教長の一行は、九州の豊後から、まず堺へ入り、マカオ火薬輸入業の櫛屋(くしや)町の日比屋了珪(りょうけい)宅へ泊まった。河内、大和、摂津、山城と次々に廻って歓迎を受けた。といって、彼らが天主教の司祭だから尊敬されたというのではない。  マカオから来ているカブラル達には、硝石という後光がさしていたからである。 「良質の硝石を入手できるか、できないか」が、この時代の戦国大名の生死を握っていたから、よき硝石をマカオ商人から分けてほしさに、反天主教徒の松永久秀や三好義継も、丁重にもてなしている。中には宗教よりも硝石欲しさに参詣にきた武将達も 多かったという。  十二月には、カブラルは、フロイス、ロレンソの使僧を従え、堺の火薬輸入代理業者に案内されて岐阜城の織田信長を訪れている。  火薬が欲しい信長は、彼らの機嫌とりに、庭で放ち飼いにしておいた珍しい丹頂鶴でコンソメスープをつくらせ、当時は貴重品だった美濃紙八十連をプレゼントに贈っている。  1573年4月30日。  日本暦の天正元年三月二十九日に僅か十二騎の小姓だけを引き連れた信長は、突如として岐阜から上京し、洛北知恩院へ入った。  やがて軍令を四方に出してから、白河、祇園、六波羅、鳥羽へ翌日には一万余の兵が終結した。
 
<フロイス書簡>によると、彼は信者の一人であるリュウサ(小西行長の父)を使者にたて、その陣中へ、黄金の南蛮楯と、数日後には瓶詰のキャンデー(金米糖)を贈り、 「仏教徒を庇う足利義昭に勝つよう」にと、それに神の祝福を授けた旨が記録されている。
 さて、本能寺へ、信長が小姓三十騎連れてきたのが疑問視されているが、当時マカオから来ているポルトガル人は「信長は、いつも小人数で出動し、そこから、すぐ兵を集めて編成し、自分から引率 して行動を開始する習慣がある」のを知悉していた。つまり、 日本側の史料では「信長は本能寺にあって、光秀らに中国攻めを命じた。だから備中へ向かって進撃すべきなのに、大江山の老の坂より途中で変心して、『敵は本能寺にあり』と、右折禁止を無視して出洛した」のが、明智光秀の謀叛をした確定的な証拠であるとして主張するが、向こうの資料とはこういう点がはっきりくいちがう。
つまり京都管区長のオルガチーノにしろ、フロイスにしろ、彼等は「五月二十九日に安土城から三十騎を伴ってきた信長は、翌六月一日は雨降りだったが、二日には、また黒山のような軍勢を、ここに終結し、自分から引率してゆくもの」と従来の慣習どおりにみていたようである。 ということは、日本側の史料では、「六月二日の早暁に、丹波の軍勢一万三千が入洛、本能寺に近寄った事は、これは予想外の出来事、異変」と解釈しているのに、 「本能寺の門前に早朝から集ってきたのは、従来通りの軍団の命令受領」と、彼等は、そういうとりかたをしているようである。  そして、従来の日本歴史では信長とか家康、秀吉の個人のバイタリティーに重点をおき、英雄主義を謳歌するあまり、天文十二年の鉄砲伝来は認めているが、その弾丸をとばす火薬を無視しきって、「銃器弾薬」と併称されるものなのに、片一方をなおざりにしているのは前述したが、持ってくる方の、ポルトガル人の目からすれば、「自分達がマカオから輸入してくる硝石によって、この日本列島の戦国時代は烈しくなり、供給している火薬の良不良で勝敗が決まっている」と、明瞭だった事だろう。
 
 
 なにしろ足利十五代将軍義昭にしろ、「仏教側だから火薬を売るな」とフロイスたち宣教師に指図されると、堺のエージェントは販売を禁止。鉄砲があっても火薬がなくては戦えないから、さすが強気な義昭将軍も<和簡礼経>によると、四月二十七日付で、信長の申し出のとおりに泪をのんで無条件降伏をしてしまう。  こういう具合であるから、天主教では、「信長をして、今日あらしめたのは、我らの火薬供給である」という信念を抱いていた事は疑いない。  また、信長も、事実そのとおりだから、天主教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。
 のち秀吉や家康が切支丹を弾圧したり鎖国したりするのも、彼らが仏教徒だったから、嫌ったということより、本質的問題は、やはり、この輸入硝石である。他の大名の手へ宣教師を通じて入っては困るからと、治安上とった自衛手段である。秀吉は備前備中から、徳川家は長崎から自分らだけが独占的に硝石を輸入する事によって、その平和を守ったのである。
 信長がマカオを狙って、輸入に頼らず硝石を押さえたがっていたのは、その部下の信者の大名達の密告で既に宣教師達は知っていた。 <オルガチーノ書簡1578年。月不明>に、「昨日、日本の重要な祭日の日に、信長の艦隊七隻が堺へついた。私は急いで、その巨艦の群れと大なる備砲を調べに行った」と出ているぐらい神経質になって、彼らは用心していたのに、本能寺の変の1ヶ月前に、従来の友好的な態度を、信長は自分から破棄しだした。これは後で詳しく書くが、「マカオ神学校」から赴任してくる宣教師達が「天にまします吾らの神」と、教えを広めているのに、信長は従来は安土城の五層で祀らせていた白目(しらめ)石の自分だという神像を、五月一日總見寺(当時は寺とは言ってない、社であろうか)を建て、ここで一般公開し、 「我こそ、まことの神なり」と宣言した。  参拝人が黒山のごとく集まり、何列もの長蛇の列をなしたと伝わっている。 「天地に、二つの神なく、地に、二つの神なし」という教義に対し、挑戦以外のなにものでもない。  マカオから来ていた宣教師にしてみれば、こうした信長の行為は神を冒涜するものであると同時に、これは背信行為として、その目にうつったであろう。  そして、「我々に楯をついて、火薬をどうして入手するつもりなのか」  畏れ疑っていた矢先、五月二十九日。信長は小姓三十騎をひきいて本能寺へ現れた。  そしてその日の午後、  大坂の住吉の浦の沖合いに、オルガチーノがかねて警戒していた七隻の巨艦と、夥しい軍用船が集結された。  司令官として、敏腕家にして勇猛とよばれている信長の三男織田三七信孝。副司令官は丹羽長秀で、司令部は大坂城に設けられ、本能寺の信長と絶えず伝令がゆききしている。非常事態である。
 
 
「出帆は六月二日」と明白になってきた。日本側史料では「四国征伐のため」となっているが、だが、彼らは、「マカオへ出帆?」と勘ぐったのではあるまいか。
 1579年日本へ巡察に来たルイス・フロイスは、日本準管区長コエリオより「日本歴史」の草稿を求められて、それを書いたという。  だが、原本がマカオにあったから、十八世紀まで所在不明で、その後モンタニヤ、アルバルズの両修道士により、イエズス派マカオ日本管区文庫で発見されてポルトガル本国へ写本として送られた。これがアジュダ図書館に保管され伝えらたが、なぜか、 織田東洋艦隊が建造された天正七年から、本能寺の変。および、その後の天正十六年までの間の分は、どうしたことか、欠本にされていた。おそらくなにかと都合が悪いからであろう。  フランシスコ派の宣教師シリングが1931年3月に、その前半をトウールズで、翌年リスボアにて、後半を見つけ、ここに、昭和の満州事変の頃になって、 <フロイス日本史>は神の恩寵により定本になったというが、肝心な原本は、マカオで焼かれてしまっている。
 二百年もたって同一人のシリングが相次いで欠本を見つけられるなんて信じ難い話だから、その間のものは何処まで真実か判らない。それが何よりの証拠には、織田艦隊のことは少しは出ているが、肝心な「信長殺し」は完全に抜けてとばされている。
 
そんな「日本史」なんてあるものではない、と私には思える。 <老人雑話>というのに、明智光秀の言葉として、「武者の嘘を、計略といい、仏の嘘を、方便という」とあるが、「神様の嘘は恩寵というのだろう」とさえも言いたくなる。あまりにおかしい。リットン報告書が出された頃である。  さて「何か知っていられては都合の悪いことを、知っている者」は、民主主義の本場でも、次々と死んでしまうものだと、テキサス州のダラス市民について、アメリカのニューヨーク・ポスト紙は書いているけれど、天正年間の日本においても、やはり同じ事であった。
 
 ジュスト右近は、二度と戻ってこないように、フィリッピンへ追放されている。また、シメアン・池田父子は、本能寺の変から一年十ヶ月目に、何の御手柄か、一躍、岐阜城主、大垣城主と栄典させてもらえたのに、長久手合戦で「討死」という形式で共に抹消。  ジュニアン・中川は、もっと早く、本能寺の変後、十ヶ月で大岩山で消されている。残った者は誰もいない。
 だが、俗説では、 「六月二日に上洛したのは、丹波亀山衆一万三千」と、どの本にも出ている。これが第二の答えで、定説である。もちろん光秀も、丹波亀山から彼等を率いてきたと、(途中で六時間ぐらい光秀がいなくなってしまって、辻褄が合わないが)そういう事になっている。
 
 しかし、もし亀山から丹波衆を率いて、光秀が上洛したものなら、そちらへ戻るべきなのに、同日午後四時、瀬田から右折せずに光秀は坂本へ左折している点は、先に指摘した。だが、こんな明白な事実さえ、誰からも今日まで問題にもされていない。  そして、もっと奇怪なことは、その次の日も、次の日も、光秀は死ぬまで一度も、丹波亀山へ戻っていない。 (もし一万三千の亀山衆というものが、光秀の命令で動いたものなら、亀山は光秀の本城であるし、なぜそれを掌握せずに放りっぱなしにして、三千の兵力しかない坂本城を、その後の根拠地にしたのか、さっぱりわからない)だが、何人も疑いを抱かない。変に思わない。
 
 もちろん直属であるべき丹波亀山のこの兵力が、信長殺しの後、光秀から離れてしまったために、六月十二日、十三日の山崎円明寺川の決戦において、光秀軍は旧室町幕府の奉公衆を加えても一万に満たぬ寡兵となってしまい、三万に近い秀吉軍に対して破れ去ってしまうのである。
 
 そうでなくて、もし、この六月二日の上洛軍の一万三千を光秀が掌握していたら、安土城守備にまわしていた秀満らの坂本衆三千は別計算にしても、天王山の険を押さえる事もできたし、これに前述した旧室町奉公衆の伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門ら約四千と、新たに味方に加わった近江衆三千をみれば、山崎合戦での光秀は、旧部下師団の中川、高山、池田、筒井、細川の全部に離反され孤立したにしても、なおかつ二万の直属部隊でもって、この決戦に臨めたわけである。  なにしろ奇怪なのが、この丹波亀山の一万三千の正体である。これを誰が指揮し、誰が尻押ししたのかということも、やはり、「信長殺しの謎をとく」大きな鍵なのではあるまいか。
 
 
 


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