新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本意外史  邪馬台国の女王 ヒミコ(卑弥呼)は美女だったのか

2019-06-01 14:52:08 | 古代から現代史まで
 
 
「死せる子は眉目(みめ)よかりき」と古来からいわれるせいだろうか。ともすれば過去の女性はみな美しかったようにされてしまう。 現在は、余りに事故で死ぬのが多いせいか、今でこそそうではなくなったが、かつては夏の溺死ぐらいしか事故死はなかったので、「水死美人」といった熟語があった程である。だから、そのせいでもあろう。一生に一度は美人と呼ばれたいと思う悲しい娘心で、三原山へ行って死ぬようなのもいた。 さて、歴史という過去の具象の中にあっても、人々は細川ガラシャや於市の方を美女にしてしまうごとく、「ヤバダイ国」のヒミコをも、近頃ではクレオパトラなみの美女であったかのように、そう願望するがゆえにか決めてしまいたがる傾向がある。
 
というのもなにしろ男は、女といえば美女しか女性でないような考えをもっている者が多く、それにヒミコのヤバダイ国には、「トウマ」「フヤ」ら二十八国が従属していたといわれるから、さながら彼女の色香にひかれ、それらの国々が従っていたような錯覚すらも持つのだろう。
しかし男王が、そのお妃さまを選ぶのなら、これは自分のために選りすぐりの美女を探しもしようが、彼女は妃ではなく生涯独身の女王だったといわれる。となると、 「女王」といっても現代のようにコンテスト形式で詮衡されるところの、「海の女王」や「下着の女王」といった興味本意なものではなかろう。もっと神聖視され、恐らく神示によったものだから、美しかったかどうかは神のみが知り給うことだったろう‥‥
といって日本には外国のような「愛の女神」など存在せず、みな「山の神」とか、「さわらぬ神に祟りなし」の方だから、本当は恐い顔をした女だったかも知れぬ。 それにどんな人種だったかも気に掛かる。
『日本書紀』にでているウケモチノカミ。そして、『古事記』のオオゲツヒメ、といった女神たちは、神殿の燃ゆる紅蓮の焔の中から、呪文を唱えつつ生まれでてきて、やがて、(一粒の麦、もし死なずば云々)といったように神殿の祠の窟内で惨殺されたその身体を土壌とし、豊かな五穀の実りを産み出してゆくのである。
 
 
さて‥‥これが弥生式土器で知られる紀元一世紀前後の、わが日本列島における水稲農耕開始時期の、女神のあり方だったとなると、 「ヒミコ」が女王として選ばれていたのも、何も美貌であったからというのが理由ではなく、死んでからも肥やしがよくきくような、ヒップの大きな、そしてボインも豊かな女人だったということになる。  なにしろ、縄文中期にかけての時代にあっては、「より多くの土毛物(つちけもの、土から生える植物)を、豊かに実らせる」ために、産神としての女神は一定の年令になると殺され、土中に埋められて、そこで永遠に呪術をかけておらねばならぬ義務を課せられていたのだから、日本の民族学では、「地母神」の名をつけるが、ヒミコも今日考えるような、気楽な女王稼業ではなかったろう。
『魏志倭人伝』には彼女の死後の有様を、「直系百余歩(百四十メートル位か)の塚へ、おさめた」とある。 だから、ヒミコはヤバダイ国の岡の上に埋められてからも、四方八方に眼をくばり、休むことなく豊作であれ、との呪文を唱えていた事になるのであろう。 さて、女王となるべき女神が、紅蓮の焔中から、両手を高くあげ、呪文を唱えつつ生まれてくるというのは、拝火教信仰である。 しかし、そうした部族はツングースにもいるが、彼らは男尊女卑の習俗だったから、女王を立てるような事はなかったろう。 すると女尊男卑の拝火教徒であったとすると、その種類も限定されてくる。
 
 
となると、これは南インドに住まっていて、インド・アーリア人やギリシャ民族の進攻に追い散らされる迄は、栄えていたヤバンル族ではあるまいか。 二十世紀の今日になると、現地では弱小民族とされて、その後裔は、「ペラマビグラン山脈」の中に匿れ住むプラヤン族と、南インドで貧民、賎民として扱われているガダル族らに分かれている。 しかしカルカッタやボンベイでも、この部族の者は、盛り場の雑踏の中で見かけられる。私も初めてインドへ行った時は、(インド人はグルカ兵みたいな巨漢ばかり)と思いこんでいたし、ホテルのボーイも2メートル近い大男揃いだったので、カルカッタのグランドホテル前の賑やかな通りで、いきなりズボンを引っ張られたとき、小さいから子供のつもりで振り向いた処、鼻下に堂々たる八の字髭をつけているのには面喰わされた事がある。
 
 
さて、その小男に引っ張られ連れて行かれた処、これまた小柄な女性がいて、それが無言のままで捲くった個所には、身体つきには不似合いな立派な顎髭みたいなのが、もじゃもじゃ生え茂っていて、さすがに無気味になってこそこそ退散してきた事があるが、そのとき、 「Kadar族か、Pulayan族なのか」うっかりして聞き漏らしてきたが、そのどちらにしろ紀元一世紀前後は、南インドから今のマレーシア、そしてベトナムにまで分布し、栄えていたヤバンル族の末裔に相違ないのだから、「ヒミコ」というのは、彼女と同じような矮小民族ということになり、それゆえ、魏国や漢国から、「倭小の国」つまり「倭国」といわれていたのではあるまいかとも想像される。
 
それに、「ギリシャ史」では、
「紀元前521年に生まれたペルシャのアケメネス王朝のダレイオス王が、インダス河右岸を占領していた頃から、ギリシャとは交易があり、紀元前327年にアレクサ ンドリア大王が、ギリシャ軍の精鋭を率いてインドへ攻めこんだとき、矮小民族は現在のベトナムに当るチャムパー(ギリシャ名カテイガラ)へ送ったところ、東方海上へ筏で逃亡した者が多かった」となっていて、明治時代に故木村鷹太郎が、「日本の上代語にギリシャ語が多く混じっている点、そして、ギリシャ人がヤバンルとよんでいたのが、現代のゲルマン民族の日本への呼称のヤバンとなっている点‥‥この二つの理由から、日本人というのは、ギリシャ民族を祖先にするものではあるまいか」と発表して明治の学界を沸かせたが、どうもヒミコは、ギリシャ人に追われて日本列島へ漂着した矮小民族、女神崇拝族の中で、呪術つまりシャーマンにたけた女人優位のヤバンル族ではなかったかとも、帰納できるようである。  さて従来の歴史の常識で、「倭=やまと=大和朝廷」とみてゆくと、ヤバダイ国やヒミコの実像も判らなくなるが、別個に分けてしまい、 「倭」は文字通り、アフリカのピグミーに比べれば大きいが、それでも平均身長以下の矮小民族とみれば、後に天孫族と同化混血したとしても、その当初は、後のヤマト民族とは異質のものと、はっきり区別がついてくる。
そうなると、私がカルカッタで連れこまれて逢ってきた女性に、かつてのヒミコ女王も似ていることになるのであろう。 しかし伴っていった小男の八の字髭と、その女性の小学生のようなあどけない肢体には、似つかわしくない茂みにばかり気をとられ、どうも肝心な顔の方の記憶が残念ながらないのである。とはいえ、もしもあまり容貌がひどかったら、拡げる前にさっさと退散してきた筈だから、まあ十人並みというか、眼のぱっちりした、こじんまりとした美少女タイプだったような気もする。
 
 
インドのアッサム地方のナガ族の女は、それ程までには色も黒くなく、顔だちも日本人とそっくりとよくいわれるが、私のみてきた小柄な女性も、そういえば日本人に 似ていた感じもする。だから、「ヤバダイ国のヒミコ女王」というのは、今でいえば、「ぽっちゃり、むっちり型」といった可愛いスタイルだったらしい。が、それがまだ紀元の始まる前の未開発時代だったとはいえ、「地母神」「産神」の名をつけられ、岩戸の中へ閉じこめられ、「五穀豊穣」の祈願のためにそこで殺され、「呪詛の案山子」みたいに大地へ埋められたのかと想うと、(いつの時代でも女上位などというのは、うまく女を操り利用するための、男共の策謀)といったような気がしてならない。とはいえ、なんといってもヒミコが吾らにとって、母なる大地のような存在だったのだから、いくら生涯独身であったと伝えられても、その子宮に吾らの内なるものの繋がりを見るしかないと想われるのである。
       日本人の原点は‥‥
 日本列島とよばれる地帯に住む吾らは、日本人とよばれ、何処の土地へ行っても、その日本人という肩書きからのがれられないのは、立場を置き換えれば、さながら猫に生まれたのが、いくら顔を尖らせてみても、犬とは認められないように、ひとつの定まった宿命的なものでもあるらしい。つまり、「脱・日本」はできえたにしても、「脱・日本人」というわけにゆかぬのである。
そこで海外へ出ると、どうしても、日本人とは何かと考えさせられてしまう。 何故かといえばヨーロッパの国々は陸続きのせいか、スイスなんか国民の半分以上がドイツ系で、別国人といってもそうはっきりした見分けはつけにくい。が日本人ときたら中国人と間違えられはするが、吾ら自身においては、あくまでも日本人以外の何物でもないでのである。
 
 
つまり時には同じような黄色人種だというので、同一視されることがあっても、「ウイ」とか「ヤア」とそれに対し面倒くさいからと、答える日本人はいない。 行きずりの異邦人に間違えられたとて、格別どうという事はないのだが、誰もがむきになって日本人であることを主張したがる。 潔癖といってしまえばそれまでだし、日本人としての自負や誇りからだという人もあるだろうが、どうもそうではないらしく、もっと内なるものの反撥によるのでは有るまいか。それは愛国心にも結びつくものだろうが、日本人は日本人であることに時には勇みたち、また時には悲しがったりもする。
となると、その原点は何にもとづき、それは何に由来するのかといった疑念さえも浮かぶ。 吾々はそうしたとき、それへの解明に、『古事記』をひもといたりする。もちろん、それはいわゆる神話の世界である。 イザナギ、イザナミの男女二神が、「この漂える国をおさめ作り固めをなせ」と大詔を拝して天降ってきたという物語に対し、同じ神話でも、 (アダムが肋骨の一本をとってイブをこしらえた)とする、なんか不自然な人間第一号よりも、同伴で空から舞いおりてこられた方に、身びいきであろうが親しみをもつ。
 
蛇に教わって林檎の実をかじってから、さながらプレイのように男女の営みを始めるのよりも、そうした行為は、お国の為であり、「人的資源」を確保する報国作業であるのだと、きわめて愛国的に、かつて教え込まれた私どもには、「わが身はなりなりて成りたらざる所が一処あり」と、受け入れ体勢をとられる女神の方が遥かに日本的であり、そして、その意味をすばやく汲みとって共に協力して人的資源の増産に励まんと、雄々しくも男神もそれにうなずかれたまいて、 「わが身はなりなりて成り余れる処、一所あり、その余れる処もて、その余りたらざる処をおぎない、埋め合せを致さん」
 きわめて論理的に考えられ、人的資源開発よりも領土拡張と先に大八州(おおやしま)をその行為によって産み出されるのだが、これの方が情緒がある。さて、とはいうものの、 「女人が先に口をきくは良からず」と男神が咎められ、その最中にできた第一子は葦船へ入れ流してしまい、産児制限の皮切りになされたというのは、どうみても男尊女卑思考である。
となるとヒミコが君臨していた頃の耶馬台国八幡国家群とは、まったく違った大陸系の男権国家がそれにとって代わってから、これは作られた神話ということになるのでもあろうか。 そして、それらの人々は何処から移住してきたか、北方説や南方説がいりまじっているが、どちらをとるべきであろうか迷わされる。早大の水野裕教授は、栃木県葛生町で発見された葛生原人や、豊橋市牛川で見つかった牛川原人、そして静岡三ヶ日町で発掘された三ヶ日原人らの骨にもとづく旧石器時代人が、日本列島の地質学上では、洪積世の後期に当るから、それらの原人を、「約十万年前か、もうすこし古いもの」とみなし、そこでこれを、 「ヨーロッパ旧石器時代人の一種ネアンダルタール人に、それら日本原人は類似している」と説き、
 
 
「血液型でみると、南方民族系のO型が日本列島には一番多く、ツングース系のB型が北海道から東北、特に裏日本から中部山岳地帯に多く、それに朝鮮型A型が中国や四国、九州に分布しているから、日本人というのは、原(土着)日本人に、アイヌ、ツングース、インド、インドネシア、苗族などが、新石器時代からの長い期間に、局地的に断続的に混血をくり返しつつ合成されたものであろう」
と、日本人が混血人なのを明らかにしている。が、それに対して、 「日本人は純血な単一民族である」としたがる傾向が、戦争中などは露骨で、挙国一致体制といった掛け声から、すべての日本人は、 「源平藤橘」の四姓によって構成され、根本においては、その発生源は唯一つである、と歴史家もとき、そして、 「われら日本人はみな純粋に神の子である」と教えられていたものである。
しかるに敗戦となってGIが続々と入ってきて、各地の日本女性から、眼色毛色の変わった赤ん坊が次々と生まれだすと、話はまた違ってきてしまい、 「混血こそ優良人種を生むのである。かつて明治の先覚者森有礼は、日本女性をヨーロッパへ送って種つけして貰い、日本民族の改良を計ろうとした程である」 とまでいわれるようになって、巷ではジュースまでが当時は、「ミックス・ジュースもできます」と喫茶店の看板になった程である。しかし一般の心情としては、「うちの娘が混血児をうんでくれて、めでたい」という改良思想家ばかりではなく、大磯の沢田美喜女史の手を煩わすようなものも多かった。 つまり一般の日本人は戦前のごとく、まだ、「まじりっけなしの大和民族」でありたい願望からか、心情的に日本人単一民族説をとく者もいるようである。
 
 もちろん、これは江戸時代からも、林羅山によって、「中国の史書に、呉の太伯の後裔が日本人という説があるから、われらは南支那から集団できたのである」といわれたり、「秦の始皇帝のとき、不老長寿の妙薬を求めにきた除福の子孫が吾々なり」と云いふらす者もあり、「萩生徂来」の名を、あちら風に、「物徂来」とかえてしまう学者すらもいた。また、明治になってからも、「義経はジンギスカンなり」を発表して一世を風靡した有名な小谷部全一郎も、日本人はユダヤ人なりと、東北八郎潟湖畔の遺跡をもってして、そこに残されている十字架の墓碑や、ヤコブとかヨハネといったユダヤ系の名に、今も発音が似通っている人名をもって、その裏書として発表した。
 
しかし、そうした用語の発音の類似という点で、大和民族が他から一括導入されたという説をたてた者には、明治時代に、「ギリシャ語」の日本語の共通点の多さから、日本人はギリシャ民族が東行したものだと、木村鷹太郎が提出し、大正時代にはアナーキストの石川三四郎が、今のイラクに当るメソポタミア人をもってする「シュメール起源説」をとなえた。 (これは今でも一部の研究者の手によって、菊の十六枚の花弁は、イラクにだけかつて有ったものであると、日本イラン文化研究会の手で、現地でいろいろ調査が続行されている)
『万葉集の謎』という本をもって、昭和に入ると安田徳太郎が、「ヒマラヤ奥地のレプチャ人こそ、古代日本人である」  と、『万葉集」に残された日本古語とレプチャ語の比較研究を発表して、おおいに世評にのぼったのも、まだ記憶に新しい。  他に、目ぼしい説をピックアップすれば、
田口卯吉の「古代日本人匈奴起源説」堀岡文吉の「天孫族マライ渡来説」がある。 これは、日本人の常食の米は世界各地で産するが、その稲の品種がみな違い、日本稲と交配し実を結ぶ稲の原産地は、南方シナからインドシナ半島方面、つまり現在のマレーシアに限られている点からして考究されたもので、 (吾々の食する米の原産地がマライ半島なら、その稲を日本列島へもちこんで来た人種も、またマライ系でなくてはならぬ) とする説で、これに関しては、 「古代人種にとって、もちろん動物においてもそうであるが、塩は欠くことのできぬ必需品であった、だから各々その伝えている製塩技術をみると、民族の根源が判る。さて日本式と同じような製塩技術方法をとっている所は、世界中何処を探しても南シナ海沿岸だけで他にはないのである」
 
 
と、海水学の権威、杉ニ郎は、この日本人マライ説に賛成し、言語学専門の大野晋は、やはり日本人の原点に関し、 「指示代名詞コ・ソ・カ(またはア)が配列正しく順をおって応答される言語、つまり日本語と同じ文法のもとにある言語は、インドシナのベトナムから、マレーへかけて住む人種のみ、限定され今なお使われている用語法なのである」と、やはりこれを裏書きしている。そして彼は、 『日本語の起源』の著において、「琉球の方言、なかんずく首都那覇の方言の母音たるや、これは本土の共通語母音と、明白な対応関係をもっている。この点から考察すると、那覇語こそ日本語の母胎をなすものともいえるのである」といった意味のことをのべ、 「沖縄・高天原説」のような思考を展開させているが、学界からは黙殺の態度をとられているらしい。
 
 
 しかし、これは別に飛躍した説でもなんでもない。妥当と考えられもする。  なにしろ、その那覇周辺には、「久米部族」とよばれるのが明治までは住みつき親衛隊となり、 「鎖(さし)の側(かわ)」とよばれて、中山王宮を取り巻き、守護していたのである。彼らこそ、『古事記』や『日本書紀』に多少の字句の相違はあるにせよ、はっきりと、「みつみつし久米が子らが、根もとに植えしハジカミ口ひくく(辛く)吾は忘れじ、撃ちてしやまむ」  とでてくる久米の子の末裔でないなどと、いいきれないからである。なにぶんにも本土の方では、その久米の子らは、どうしたことかその後は何も現れてこず、ただ、「そらを飛んでいた久米の仙人なるものが、たまたま川で洗濯中の女人の胯間が水面に映るのを見かけ、それと女の脛の白さに眼がくらみ、あっという間もなく神通力を失い落下してきた」といった艶笑小噺の中でしか伝わっていないのである。が、「唐栄」ともよばれた鎖の側の久米部三十六姓の者達は、 「尽忠」をその部族の掟としていた。だから、明治十年五月、当時病臥中の尚泰王が、明治政府の手によって東京へ運び去られようとすると、 「尊王の大儀」に彼らは一斉に蹶起した。
 
 
これまでは王家の安泰のためには、薩人の横暴にも堪えていたが、もはや我慢はならないと、「勤王攘夷」のむしろ旗をたて、久米の者らは見を挺して王宮の周りに、今でいうピケをはった。そしてから荒れ狂う南支那海を山原(やんばる)船で、当時の清国へ助けを求めに出かけた。 もちろん内海外海日本の警察隊が包囲していて、彼らは次々と沈められた。それでも尊王の大儀に殉ぜんと久米の子らは死を覚悟で密航した。 彼らが清国へ救いを求めに、悲惨な脱出行をしたのには、それなり理由がある。
なにしろ彼らにしてみればクマソ同様にみていたハヤト族のサツマ人に慶長十四年攻撃され、そきの中山王尚寧が捕われたあと、島津家の占領下におかれ苦しめられたので、その後は、いわゆる、「やまとぶり(日本風)は一切せず、「唐栄」とよばれていたごとく、中国語しかしゃべっていなかったからでもある。
 
ということはまた、取りも直さず後述する崇神朝の騎馬民族は、ツングース系で朝鮮経由で馬をもってきたものならば、この久米の子の沖縄とは無関係になる。つまり、「久米の子ら」が守り奉った天孫系の方たちは、陸路をあまり通らず東支那海を春から夏に吹く風にのって、つまり貿易風の黒潮暖流にのって日本列島の九州へ渡られたことになる。そしてそこから内海を大和に向かい、熊野、伊勢へ御東征の軍を進められたものである。となると騎馬民族でない唐ぶりの王朝系にとっては、やはり沖縄こそ、それら日本人の原点ということに間違いなくなる。
       日本武尊妃は朝鮮美人
 景行帝の第二皇子で西暦前八十二年に御誕生、十六歳で九州へ熊襲征伐に向かった際、単身女装して敵の巣窟へのりこみ、 「オウスノミコト」という名前だったのを、そのとき仕止めた敵の首領が、苦しい断末魔の息の下から、 「オウスとかチャウスというのは何ですから、これからは、どうか、ヤマトタケルと、お名のりくださいますよう」  と頼まれて、その名にかえて大和へ戻った処、またしても、すぐ東征の命をうけたので伊勢へ途中立ち寄られて、伯母の、 「ヤマトヒメノミコト」から剣を貰った。
 
おかげで隠れていた敵に荒野で包囲され野火をつけられ、危うく焼死しかけた時も、「おのれッ」と、その宝剣で草を薙ぐと、火勢はあべこべに敵の方へと向かってゆき、これには向こうが逆に周章狼狽してしまい、「あつい、あつい」と降参し、めでたく彼らをみな帰順させる事に成功したので、その時よりこの宝剣に、「草薙剣」と命名したが、相模の国から海上へ東征の舟旅を進めると、折りから一天俄かにかき曇り大暴風雨となった。そして、「もはや舟は沈まんとす」という有様に荒れ狂ってきた。
 
 見かねた御妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が、夫のみことを救い奉らんとして、「さねさし相模の、小野にもゆる火の、ほなかに立ちて呼びし君はも」の詠草を残され、怒涛さかまく大海原へ身を挺し、「海神の怒りをしずめん」と、飛びこまれ海の藻屑とならせられたもうた話は、「日本女性婦徳の鑑(かがみ)」として今も広く知れ渡っている。なのに、その弟橘媛が朝鮮の御方であったとか、また、『フロイス日本史』によれば、安芸の宮島の祭神である女神三柱も朝鮮の御方だといわれるのも、みな結びつきあって、どうもそこにはやはり繋りがあるのではなかろうか。
 
 
『記紀』にみえる「日本武尊」は、今では歴史家も公然と、「神話の中の架空の武人である」と定義している。 だから架空の方の御妃が、日本人でも朝鮮人でもまたはインド人でも差し支えないようなものだが、そうした説が生まれてきたのは、なんといっても、「さねさし」という相模にかけた御歌の枕詞が、はっきりした朝鮮語だったせいではあるまいかと想われる。 「さね」は「中心」の意の朝鮮語で、後には日本語の核という字にあてられ、女性自身の中心部のことをいうようにもなるが、だからといって、 「さねを指し」という淫らな意味ではなく、この「さし」は「城」の意味である。
後には今の東京都と埼玉県を併せた地域を、「武蔵(むさし)」というようになったが、初めは、そうよばれたのは『国造本紀』によれば、今の埼玉県であり、「胸刺(むねさし)」と東京都の方は区別して呼ばれていた。 「むねさし」「むさし」共に「宗城」「主城」の意味だが、「むね」も後には日本語となって、戦記物などにはよく、 「宗徒(むねと)の面々、集まり候え」などと出てくるものだし、また、「徒然草」の中などでは、「家の作り方は夏むきを、むねとすべし」などと出ている。  が、朝鮮語でもなにしろそちらが原語ゆえ、宗(むね)であるのが正しかろう。「む」一字きりの方も、三省堂『古語辞典』などでは、 「上代語・『み』が他の語と合して熟語を作る時の形」となっているが、朝鮮語では、「正しい、正真正銘」の意である。
 
 ということは、日本武尊や弟橘媛の話は、神話の中の架空のヒーローやヒロインであったにせよ、その当時の東国は、  さねさし(中心城)と称する神奈川県  むうさし(正真城)と名のる東京都  むねさし(主たる城)という埼玉県 の三つが並んでいたことになる。つまり三つの地域が、(自分の所こそ、正真正銘の宗城である)と、いわば本家争いを、互いにしていたのが証明される。 こういう例は、たとえば越(こし)の国が、 「越前、越中、越後」と三分されて併立したように、吉備の国が、 「備前、備中、備後」となり、他にも、「陸前、陸中、陸後」といった例も今に伝わっている。
 では、なぜ三分されて名づけられているかを推理すると、これは、かつての朝鮮が、「馬韓」「弁韓」「辰韓」と、三韓になっていたり、後にも、『新羅(しらぎ)』 『高句麗(こうくり)』『百済(くだら)』と三つになっていたから、その三方面より渡航してきた者らが、「当方の出張所のある地域こそ、本当の正しい土地である」 と競合して、そうした呼称をしあっていたのではあるまいか。というのは、わけがあるのである。 なにしろ、それまでの日本は倭国とよばれたごとく、女王をたてて小さく各地に群居し、実際の戦いよりも悪霊を押しつけあう呪詛であけくれしていた。
 
だから騎馬民族が大挙して攻めこんでくると、彼らは驚き、「大変だ。身体の大きなのが、四つ足に跨って攻めてきたぞ」  というだけで、すぐさま騎馬民族に対し、「恐れ入りました」と帰順してしまったものらしい。しかし、その後か、はたまた、その前に久米の子らを従えて、海路進攻してきた天孫族が既にいたものなら、「おのれ、くるか、いざまいれ」と抗戦したものの、船できて馬のない彼らは戦い利なく破れて、また船にのって沖縄の方へ戻ってしまったものなのか<、もはや今となっては判りようもないが、西暦紀元前から一、二世紀の間に、船にのって逃げもできず踏み止まった久米の子らの残党や、倭人たちは、一応はみな騎馬民族によって征服されたのだろう。
 
処が、その混乱に乗じて、この時、海の彼方の三韓が、「日本よい国」とばかりに兵をむけ、部分的に占領して、各自勝手にコロニーをひらき、関東を例に引けば、「むさし国」は大宮の氷川神社が、彼らの持ちこんできた祖神。 「むねさし国」は、多摩郡八王子日野の大国魂神社がそれで、「さねさし国」は、後の箱根権現を、その祖神を祀る神廟として、勧請してきて祀り、信仰していたのである。「青丹よし奈良の都は咲く花の」とよばれる「ナラ」の言葉が、朝鮮語の「国」を意味するという程だから、日本へ渡ってきて落着いてしまった朝鮮人の勢力は、侮り難いものがあったのだろう。
 
「人皇五十代光仁天皇は、四十七代の女帝孝謙帝御妹君の井上内親王の御聟であらせられたが、当時河内の平野郷に住まっていた朝鮮系の高野新笠がうみ奉った桓武帝が、その死後に代られると、未亡人の井上皇后は太子と共に吉野の山寺へ押しこめられ、そこで食を絶たれたもうて餓死させられた」 と、久米邦武は、この時代のことをかいている。 そして桓武帝をかつぎあげた朝鮮系が、宮中をすっかり押さえてしまったので、帝の後宮は、女御として、「クダラ王教法媛」「クダラ王永継媛」そして女官長に当る尚侍(ないしのかみ)に、「クダラ王の娘教信」、その次長に「クダラ王明信の娘」「クダラ王教仁姫」「クダラ王貞香娘」さながら今日のキイサンクラブのごとく、クダラの女官が御所の後宮を取りしきり、この後の嵯峨天皇の御代も、 「女御はクダラ王媛貴命」「尚侍はクダラ王慶命媛」と変らず、人皇五十五代の仁明帝の代でも、クダラ王永慶媛があがっていた。
 
 帝の御側近が朝鮮の百済の姫たちばかりゆえ、御政務を補助する文武百官もこれみなクダラ人が、その重要なポストを占めていたことはいうまでもなく、桓武帝延暦十年の、「官符」の冒頭に、 「正月十八日、百済王御哲、坂上田村麿をもって東海道に遣しぬ」の個所さえみられる。坂上田村麿も、父は参議をつとめていた外来人の当麿の子であるというから、この部隊はクダラや東南アジア系の人たちの集りだったらしい。つまり、この時代は、
 
 「朝鮮のクダラ人にあらざれば、人にあらず」といった様相さえ示していたのだろう。そこで、 「彼奴はクダラでない」というのは、取るにたらない存在だったものらしい。これは西暦八世紀の話だが、今でもよく、 「彼奴はクダラでねえ‥‥くだらねえ」と、吾々が人をこきおろす時に用いるのも、その頃の名乗りの用語法なのであろう。えらいものである。 だから、よし架空のヒロインであれ、オトタチバナヒメも、クダラでなくては話にならぬし、クダラないから、朝鮮の女性として伝わってきたらしい。
 

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