首をとるその訳とは
首の重さは平均6キロある
軍記物などをよむと、合戦の折、草縄であんだ袋へ西瓜のように入れて、三つも四つも腰にさげて歩いたというが、人間の首の重さは平均6キロもあり、 あれは大変なことになる。 余程それが功名になる首なら別だが、でなかったら己れの行動の自由がそがれてしまう。『戦国武家事典』などでは、 『軍礼抄』を引き、首実験は寺でやるとか幕をはって、物具をつけ弓をもって検分とする。などとあるが、これは「切腹作法」と同じことで、江戸時代に入ってから芝居のめりはりをみた作者が、 そのありさまをまことらしく書いたものではなかろうか。なにしろ、(首対面の次第はまず床机に腰かけた大将の前に肴をすえ、三々九度の祝いをなし、次に首の前に肴をおき、一つの盃に二度酒をつぎ、 これをすすめ、やがて終れば幕を下ろし、大将は床机より立ち上り陣屋へ帰り給う) といっただけの順序が十段に分かれ、一々その動作を示してあるが、これでは、「死者への尊厳」というより、主役の大将の見世場。つまり、これは舞台でしかない。
そんなに大切に扱わねばならぬのなら、殺して首にすることはないし、首だけの相手に肴をすすめ酒をつぐなど、たとえ恰好だけでも可笑しい。しかしこういうのを日本では、「武士道なんだ」という。 そこで、織田信長が妹婿の浅井長政や、その父の首をドクロにし、漆でかためコップにして酒を呑んだような話は残酷だと嫌われる。
しかし、生体から首をちょん切ってもぐのと、個体化したのを盃にするのと、どっちが残忍かは誰も比べず、ただただキレイ事にしたがる。 だから死者の霊を慰めるため、殺した相手の首をもいできて供養するように、これまでの話は皆なっているが、本当はなんなのだろう。
どうして大西瓜より重いのをわざわざ持ち帰ったのか。やはり<武士の情け>という嵩高な精神のせいだろうか。変でならない。 さて、樫原重軒の、『養生訓読解例集』という手書き本には、「島原御陣後は泰平にて合戦なし。よって小塚原などの獄門台にさらされる生首は、両三日をへずして紛失。 これみな味噌をとりだしかためて丸薬となし、骸骨は黒焼になす、これ腎の病にきく為なり。されど小なるは野猿の頭の黒焼なり。なぜかなればご当代にありては幼児は遠島処分になすことあれど、 打首にはならざるゆえなり。心すべきことにてあれ」などとい個所もあるし、備前史記の『赤松合戦記』には、
「河内のからうど(朝鮮人)は、医者にもってゆけば、首一つにて、たらふく呑めると勇みたちし者らは」というのも残っている。 今でも河内弁で、「ど頭かちわってミソとったるでぇ」などというのは、(集荷した生首の頭を叩きわって脳味噌を抜きだし丸薬にしたり、骸骨の黒焼)を製造する製薬工場が河内には栄えていた為らしいと思われる。 現在のように化学薬品などで新薬がどんどん出来る時代ではないし、それに日本人は昔から薬好きだったから、戦国時代は、もっぱら生首が薬の原料になっていたようである。 ボルネオの土人や昔の高砂族は、唯たんに、他へ見せびらかすために、首を切って持ってきたらしいが、そこへゆくと勤勉かつ合理的な日本人の武者は製薬原料にするため、「えんやこら」と携えて帰ったのだろう。 でないことには、赤の他人の生首なんか、重いのを我慢して持ってくるわけはない。
それを、これまでの日本史では、さも恰好よくしてしまうからわけが判らなくなる。 『おあむ物語』に、大坂城内の腰元が味方のとってきた生首にお歯黒をつけた話があり、 「白い歯の首よりも、お歯黒をつけた首の方が、よき首なりと賞賛した為」などというが、これも写本している内の間違いらしい。 口中にお歯黒をつけたのは、今川義元から三好党あたりまでの室町御所直系の公家首のことになる。
戦国時代から後、お歯黒をつけたのは武家の女房だけだから、これでは、男首より女首の方がよき首ということになってしまう。 まだ女権の強かった頃ゆえそうかも知れぬが、『備中治乱記抄』に、お歯黒を口だけでなく首全体にコールタールのごとく塗布した話もある。だから篭城中では生首は売りにゆけぬから、 そのために、「保存をきかせるため」にお歯黒塗りを腰元共にさせていたとも考えられる。なにしろ、『Archivo Portugvez-Oriental』にも、 「インドのゴアに於て、軍役に従う奴隷はみな日本人で、それゆえ彼らは首をとりそれに防腐剤、としてビンロウ樹の実をかませる習慣があった」とあるからである。
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