岸田総理を「姓の法則」から考察する
岸田総理は鵺(ヌエ)になれるのか
第百代と区切りのいい内閣総理大臣に「岸田文雄」氏が選出された。
奇しくも同じ時期、野党立憲民主党党首には「泉健太」氏が選出された。
この姓のイキヒチニヒミが付く人は、人間的に比較的温厚である。この姓を例によって日本史から考察してみましょう。
後段で岸田総理の政治姿勢について記してみたい。
この第二横列(アイウエオのイ姓列)のイキシチニを編戸の民(稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民)とする根本資料は、
『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。
原住農耕系(仁徳王朝系)─イキシチニヒミ姓列
関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。
つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、
第五横列(オコソトノホモヨロ姓列)に入ります。また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。(北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです)
何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは縄文時代からの日本原住民なのですが、彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、
早いとこ大陸系の藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中です。それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、
あくまで藤原氏に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。
反抗派は、第一横列(ア姓列)や第五横列(オ姓列)とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じ民族と見てもよいのですが、しかしいち早く藤原側について、
種米のモミの束を与えられて、「田夷」と呼ばれ、編戸の民となった方の彼らは、江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、
士農工商の中でも、昔は軽くみられ、「奴百姓」とも呼ばれました。
しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「権力に逆らっては命がない。だから長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、
「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、今では土地成金になった人も多く、その要領のよさと頭の良さではでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。
昭和になっても敗戦後、東北から農家の次男三男が「ああ上野駅」と東京へ集団就職し、中小企業や工場労働者となり、日本経済の復興を支えました。
こうした庶民の中から有名な石原慎太郎氏やその息子たち、作家の水上勉、五木寛之氏、新庄監督(戦国時代でも、秀吉の馬回りや各地の地侍に、新庄、白井、白江、白川、白堅、新川、新宮、新藤、神保、
など三十名が散見される)などが出ています。ジャーナリストでは木村太郎氏、演出家の宮本亜門、アナウンサーの宮根誠司。ソニーの創業者井深大氏も有名。
また現在政治家の中にもこの姓は比較的多く、立憲民主党では泉健太、城井祟、稲富修二、石橋通宏、水岡俊一、井坂信彦、芝博一、重徳和彦、下条みち、と衆参議員140人中19人もいる。
一方自民党では衆参320人中60人もいる。共産党に至っては志位和夫委員長はじめ衆参19人中5人となっている。
イ姓列の場合、イキシチニ・・・・・の横列のリズムに動く例証。
<小笠原流とは別派な古式作法の水島流の水島伝弥について、享保十一年に伊藤甚右衛門が書き残した伝書≪享保十一年伊藤甚右衛門指出書≫から例を引用してみましょう>
◆大坂落城後・・・・城から逃げだし捕らえられたが、首代を払えば助命するといわれ、″イの池田武蔵守〟家来の″ミの水島助佐衛門〟が実兄だといった処、銀子一貫匁なら助けようとなって使をだした。
処が長く陣中に居て手許不如意ゆえ七百匁に負けろとの返事。
そこで三百匁は信用貸しにして後廻しになさんとの双方での話し合いになったが、どうあっても捕えた方は一貫匁というので、話はこじれて決裂。
そこで首を落とされる羽目になったが、″二の西尾主水正〟陣屋に駆けこみ訴えした処、武者奉行
″ミの水野但馬〟が、同姓なればと掛け合ってくれ、前銀三百匁、後百匁ずつ五回払いの八百匁で、
落とし前の話がつき、身柄は西尾陣屋へ移された。
その後、八百匁のかたに奉公している内に、伝弥が産まれたのだが眉目麗しく、二百匁の仕度銀にて
″ミの三浦主膳〟の仲立ちで、″イの井伊掃部頭〟へ小姓奉公した。
やがて小笠原右近太夫が井伊家出入りで、その作法をやがて伝弥は習得した。
だが、右近太夫は「姓が異る」と小笠原流奥儀は許さなかった。
そこで、″キの木股仁太夫〟、″シの清水次郎助〟、″チの千葉五郎太〟ら同姓の肝入りで殿に願い出て御暇を頂戴して、″ヒの日野右膳〟の娘を妻とし、
新しくミの水島流指南〟の一家を設立することがようやくできたのである。
といった経緯を門人の伊藤がしたためたものですが、イキシチニの発音をひっくるめ、″同姓〟と呼んでいる点に留意していただければ、すべて納得がいかれることでしょう。
首を落とされる前に金を払って話しをつけるのを「落とし前」というのも、この頃の名残りです。
また、他の横列もそうですが、イキシチニの横のつながりが強固な例として、室町時代の守護職を、ついでにあげておきましょう。
イ 今川氏=駿河 伊勢氏=伊勢 一色氏=丹後
キ 吉良氏=三河 木曾氏=信濃 菊地氏=肥前
シ 斯波氏=尾張 島津氏=薩摩
チ 千葉氏=上総 長曽我部氏=土佐
二 仁科氏=信濃 蜷川氏=丹波
ヒ 日野氏=摂津 土岐氏=美濃
ミ 三好氏=阿波 三浦氏=下総
といった具合に、この系列にのみ限定されていたのをみても判ることです。
ちなみに足利時代というのは、中国(明国)と「勘合貿易」を行っていたと日本史では説くが、実態は金を輸出し、同量の粗悪な「鉄のビタ銭」を輸入していたのである。
現在でも金と鉄の価値は圧倒的に金が高い。それを当時同量交換だったといういうことは日本が大損していたことになる。
だから、決して対等の関係ではなく、明国に臣従していた時代だったことを忘れてはなるまい。
その証拠に足利氏は明国に「臣、源の義満」とへりくだっていた文書も現存している。
だから上記の守護たちは全て大陸の血を引く者たちなのである。
さて、である。いくら義満が「臣」とへりくだっても、明国がそれだけで満足して「よしよし」とビタ銭と呼ぶ鉄銭を、公式記録では六十万枚だが、その後日本では幕末まで一文銭として全国的に通用していたのだから、
実数はその百倍の六千万枚にも及ぶ莫大な物を「日本王は臣として朝貢してきているのだから、どんどん呉れてやれ」と果たして気前良く送荷してくれたであろうか。
今の歴史は、臣従したことへの報酬と極めて安直に解釈するが、常識的に判断して、こんな事が果たして有り得るだろうか。今まで誰も解明していない。
鉄貨流入は臣従と関係ない貿易による物と思推される。
では日本からの輸出品は何かとなる。学校歴史では漆器、蒔絵、甲冑、日本刀の類と言うが、向こうに日本人が居ないのにこれはおかしい。隠されているが、それは黄金である。
当時の日本列島にどんどん産出された山金や砂金を大陸に送り込んでいた。黄金で同じ重さの粗悪なビタ銭と引き替えていたものらしい。
実数を六千万枚と見ても、ビタ銭一枚七十五グラムとして、四十五万キロもの夥しい黄金がむざむざと足利氏によって、明国へ、貿易とも言えぬ、割の合わない、朝貢という美名で搾取をされていた。
関東の”イ”は関西の”ア”と同じゆえ、これと”ヒ”は別ですが、他は一応は、体制協力型で要領が良い。
またエリート型できわめて順応方ですので人付き合いも良い。男性は直情径行型で信念を持った者が多く、女性にも好かれる。
ミ姓―カラ神信徒の流れをくむ恐れ知らずの部族
この姓には、三、水、宮の三つを上につける姓が殆どを占め、後は、南、峰、湊、光、緑、瑞といったのに分かれています。
もともとは、騎馬民族で神さんを拝んでいたかカラ神信徒の流れだが、進取の気性にとんでいて、終戦時にアメリカ兵の側によって行き、すぐさま商売した人種のように、
恐れを知らず馴々しく近づいて、国際親善をした勇敢さが今も伝わっているのか、海外へ雄飛している邦人にもこのミの姓の人がかなり多い。
そしてミのつく姓の人も、やはりイ姓列やウ姓列の二つの姓列の人と結びついている限りは、事業の運営もうまくいくし、交友関係もそつがなく、安全第一ということがいえます。
一般にあっても、この姓は比較的穏健そのものであって、警察協力会の会員になったり、防犯連絡所になっている家にこの姓が多いのも、法を守るという穏当な常識人が多い例証といえましょう。
ですから、企業側にあっては、こういう姓のつく部下かを管理職の要所要所に配置しておけば、社運が興隆することは間違いありません。
また、部下のほうも、この姓の持ち主が上司であった場合は、なるべく気に入られるようにしておけば、自分もしたがって栄進の道が辿れるというものです。
しかし、この姓の弱さは、自分自身が一派をリードし、全体の統率者にはなったりできないということです。
どうしても、脇役とか番頭役であるにとどまることが多いようです。
しかし、何もリーダーになって苦労するだけがいいことではないですから、セカンドの位置にあって、己の能力を発揮していくとなれば、
それはそれなりに立派でこれはきわめて堅実な生き方といえます。
しかし、大きな会社の場合では、すべての幹部が皆、イとウの二つの姓だけでまとめていくということはまずできません。
ですから、ベンベルグの旭化成工業などでは、社長の宮崎輝は、専務にはクの久保田正雄、イの磯部一充を置き、副社長には他の姓列のものを統率してゆくためア姓列のカがつく刈谷享を据えて、全部の人事を取しきって、
波風を立てることなく、きわめてうまく事業を伸ばしています。
これはまた、丸善石油の宮森和夫社長にもいえることで、同姓列のイの石渡健二、シの清水菊一、ア姓列のマの松田重一、ワの脇坂泰彦を専務にし、
二つの姓の流れをスタッフに置いて、一時は潰れかけた会社なのに、それをなんとか努力して、もって現在のような隆盛さに持ち直してきています。
ミの姓をもつ人は当たりがやわらかいというか、他とすぐ親しくなれる特性をもっているので、それをうまく活用すれば事業においても成功するということです。
これは女性にもいえることで、銀座のバーのマダムや一流の料亭の女将にもこの姓が意外と多い。
つまりこうなりますと、われら日本人は決して単一の民族ではなく、最低でも四つの複合民族であるということを、はっきり把握して、
主脳部はうまが合うからと自分と同じ姓列だけで周囲をかためず、他姓列を押さえてゆくためには、どうしても、その姓の者をしかるべく序列におくことが、
なんといっても会社の運営をうまくやってゆく人事問題の要諦ともいえるようです。これはすぐにも実行すべきでありましょう。
こうしてみると、様々な問題はあったとはいえ、前政権の安倍内閣もア列が主導権を握り、オ姓列の大臣や副大臣、政務官を配し、原住民系で手堅く運営していた。
内閣の女房役ともいえる官房長官に菅氏という、契丹系の頭の良いのを配し睨みを利かせていた。人事としては大成功である。だから長期政権を維持できたのである。
そして、党の運営には、イキシチニヒミ横列のニの付く二階幹事長だから、安倍一強として長く続いているのである。
会社でも政府でも組織は全て人間が動かしているので、複雑多岐に渡り、果てしなき不毛な現代は円滑な人間関係がより一層大切になるのである。
さて、岸田総理の政策に戻るが、発足してまだ半年にもならぬうち、早くも十万円給付で迷走した。国交省職員の統計書き換え不祥事も起きた。
が、こんなことで揚げ足取り、粗さがしに汲々としているマスコミや識者の言葉に踊らされてはいけない。
何処の政府も間違いはやっている。
また中国問題でも難しい対応を迫られている。さらに米国のバイデン政権は中国ロシアに対する危うい政策が見受けられる近頃でもある。
中国は間違いなく尖閣を盗りに来ているのは明確だし、日本周辺を軍艦で一周し日本を脅し、領空侵犯は日常茶飯事。この国は「戦争」を仕掛けているのである。
こんな現状を鑑みて、平和ボケし、惰眠をむさぼる国民に覚醒を促し、「どんなに血を流しても中国と戦おう!!」と檄を飛ばせるのか。
国民がこぞって「戦う意思」を示すなら、老驥櫪に伏すとも志千里に在りと布衣草莽の士を任じる私も、「若者だけを死なせない」と、老骨に鞭打って銃を取る覚悟はある。
フォークランド紛争の際、イギリスのサッチャー首相は「この国に男は居ないのか?」と檄を飛ばし、空母機動部隊を投入し激戦のあげく、多くのイギリス艦船が轟沈され、戦死者256人を出しても島を奪還した。
それまでさして人気の無かった彼女は、この戦争の勝利で一気に人気が出、「鉄の宰相」の異名も奉られた。
翻って、日本にはマスコミや言論人の中に対中国強硬論と、話し合い解決論が同居し、国の方針が定まらない。勿論温厚な岸田総理は「状況を見極める」とその態度を曖昧にしている。
前段で「イキシチニヒミ横列姓」は「要領が良い人間が多い」と記したが、要領がよいということは、「風を読む力」でもあり、時と状況に応じて「自己利益を最大化」する優れた能力があるということである。
現代のように「答えのない時代」には、こういう人たちは、思考回路が柔軟だから、順応力が強いほうが危機に際しても適している。
だから、日本国は中国の攻勢を、米国と共に自衛隊の機動反撃により撃攘し、尖閣列島危機を脱する戦略をとるのか、はたまた鵺の如く米中どちらにも旗色を鮮明にせず、「バルカン政治」の姿勢をとるのか、
その岐路に立たされている現在(いま)、岸田総理の「要領の良さ」が吉と出ればと願うばかりである。
『英知定まりし者、如何にして歩むか』
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