新令和日本史編纂所

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赤穂義人纂書 忠臣蔵の真実

2019-05-06 19:05:10 | 古代から現代史まで
 
赤穂義人纂書
赤穂義人纂書考(1)
 
 
赤穂義人纂書に、細川邸内での元禄十六年二月四日の、大石内蔵介以下十七名の腹切の図が描かれている。この図は、細川家書物奉行物書役右田才助が、密かに全景を心覚えにしておいたのを家に戻って描写したものと謂われている。
それが百年後になって堀部弥兵衛金丸の六代目の堀部氏真なる者が、才助の七代目の子孫に乞うて模写したのである、と文化十三年十一月十五日付けで、飯岡義章が裏書をなしていると、本書の校訂者難波常雄は明治四十三年三月刊で説明している。 しかし、右田才助の子孫や堀部氏真と自称する者達は、千代田城紅葉山文庫に収納されていた「徳川実記」や「徳川年代史」や他の大名の家記類は見ていなかったゆえ図には辻褄が合うように、「四ツ(午前十時)より七ツ半(午後三時)すぎまで」と切腹の所要時間を附記している。しかし公式記録では、処刑の通知が細川家へあったのは四ツであるが、目付荒木十左衛門が細川邸へ到着したのが七ツ半すぎである。 処刑は七ツ(午後四時)より始まって六ツ半(午後五時)までとある。 ここがこれまで曖昧にされてきた不審な処である。
図の如く一人ずつ呼び出され、たとえ扇子腹にしろ割腹の形式を採り介錯を受けたとしても、一人毎に畳の白風呂敷を血塗れになるから取替えておれば、一人で二十分の余は掛かるのである。家老の大石以下十七名なら当然である。とはいえ公儀の目付の荒木十左衛門や使番の久永内記が、検死役として姿を見せた午後三時には、あらかたもう大石らが首級に変わっていたのでは、話にならぬ事になる。それでは公式記録が嘘か、はたまた図の説明が間違いかとなる。 (ちなみに三島由紀夫の割腹も森田君を介錯人として同行しても、公判記録では二十分となっている)
こうなると他の三家つまり久松、毛利、水野の三大名の記録を参考に見るしかない。それによれば、久松家、大書院庭先にて六ツ半(午後五時)より六ツ(午後六時)までに相済み候。毛利家、書院前庭にて七ツ半(午後三時)より七ツ(午後四時)までに終了致し候。
水野家、使者之間庭先にて六ツ半より六ツにて、つつがなく相済み・・・・と、場所こそ違え時刻はほぼ決まっていて、皆一時間で済まされている。しかし十名の毛利家や九名の水野家と違い、肥後熊本細川家では十七名で他の倍に近い。だからもし正味一時間が本当ならば、一人僅か三分半という事になる。ということは、ずらりと並べて片っ端から首をバッサリということになる。あまりにも哀れではないか。
従来ともすれば義士処分が浪人ゆえ、伝馬町大牢揚り座敷入りが至当なのに、大名預けとなったのは優遇と勘違いされている。だが実際はその反対で、伝馬町牢では世襲の牢屋奉行石出帯刀が、関屋のだつたのが、弾左衛門家に隅田川向こうの一切を委ねて、自分はをして三百石になっている。だから柳沢は信用していなかったのだろう。
また、一般庶民も収容する大牢へ入れて、義士達に何か口外されては都合が悪いと、利口な男だけに判断し、用心のため腹心の老中へ命じたのだろう。一人ずつ今日の独房に当たる番小屋へ入れられ、番人として士分六人が交替で鉄砲二挺まて゛持って見張り足軽四人、中間二人の十二人掛かりで一人ずつ警護では、これがはたして優遇されたと言えるだろうか。
後には一人ずつでは厄介だと、五人ずつ二つの小屋へ収容し直したが、士分十二人鉄砲足軽六人、予備持筒衆十名、他に刀差し足軽などが五人へ対して見張りが三十名に及んで、囲内には誰も近寄らせず用心した。食事だけは牢屋より良かったにすぎない。翌年二月四日の死罪の時にも、鉄砲の火縄をともしたのが一々狙いを付けていたというのも、決して綺麗事の賜死ではなかったせいだろう。
なにしろ松平邸で死刑にされた十名の内で、実際に抜刀して邸内へ入り、今で謂う家屋不法侵入罪や殺傷罪に該当するのは、堀部安兵衛一人きりで、他の大石主税、中村勘助、管谷半之丞ら九名は戸外にあって、上野介が見つかったとの合図の呼子笛が聞こえ、初めて開放された門内へ入ったにすぎないのである。
だから堀部安兵衛一人は最初から覚悟はしていただろうが、他の者は、まさか見張番にすぎない自分たちも、武闘派と同じ処刑とは思ってもいなかったろう。現行法に当てはめても共同謀議ぐらいにしか充当していない。それだからこそ、不満を持った連中が抵抗してはと鉄砲で狙っていたのだろう。というのは、柳沢吉保に言いつけられた大目付仙石伯耆守が、討入りの儘の恰好で泉岳寺本堂で休んでいるのを、その日の内に各大名へ引き取らせた際。
 
浪士たちには相当に甘言を弄したらしい。処刑の一ヶ月前の正月五日には殿様が大書院で十名に目見得を許しているのである。先方はただの物珍しさからの見物かも知れぬが、当時の風習で目見得というのは五十石以上の士分格だから、取立てられ、召し抱えられるものと錯覚していたのかも知れぬ。もしそうだとしたら柳沢に一杯ひっかけられ、皆口封じに殺されてしまった彼らこそ残酷で憐憫の情が禁じえない。
八切止夫「元禄太平記全四巻」には、操られ使い棄てにされたのは浅野だけでなく、大石らも利用されたと描かれている。 なにしろ武士は、御政道批判になるため幕末までは論評もさし控え、義士事件は町人の間で賛美されてきて「世直し大明神」みたいに扱われてきたのだろう。 堀部安兵衛が、講談や映画で高田の馬場での決闘で知られ有名だから、浅野家は武芸が盛んな家柄のごとく誤解されている。しかし前赤穂城主池田輝興が、武芸が好きで武道係を置いて明け暮れ木太刀を振り回していた。
「太平の世にそんな真似をなされては、公儀より叛乱予備の容疑を受けましょう」と見かねた奥方や侍女が諫めたところ、激怒した輝興は握っていた木太刀で、「うるさく咎め立てするな」と打ち据えた。これが江戸に聞こえ、「池田輝興は指南番などと称する武芸者を召し抱え、己のみならず家来の者にまで武芸を習わせるとは不穏なり」と、改易処分となった。死罪にはならなかったが、身柄はお預けとなった。
 
 
(岡山池田本家へ身柄を移された後も「まだ粗暴なる武芸自慢が直らず、密かに木太刀を振り回されては弱らされる」と池田本家へも叛乱予備罪の容疑をかけられては大変だと、二年後の正保四年十月十七日に、池田輝興は急病で死んでしまう。だから毒殺とも刺殺ともいわれている)この跡へ没収された赤穂へ内匠頭の祖父に当たる長重が移ってきたのである。だから浅野家では用心して、「決して武道めいた事はすべからず」としていた。だから折角堀部安兵衛を召し抱えても、赤穂へは伴わずに江戸詰めにしていたのもそれなりの訳があったのだろう。
武家諸法度という当時の武士階級への法律で、みだりに刀の鯉口を十センチ以上抜けば、主君よりの代々の扶持や役宅も没収された上、責任をとって当人は自決せねばならぬとされていたものである。というのは武士の槍は自前だからよく一般には「槍一筋の家柄」とも称せられるが、一般に刀は公刀であり、つまり殿様よりの預かり物だった。
だから明治五年の廃刀令にしても、刀を差してはいけないというのではなく、最早旧藩主と主従の関係がなくなり、万民ともに新政府の人民になったのゆえ、重い刀を帯刀しなくても可なりとしたのである。しかし武士ではない者らは、自前の私刀であるから、三多摩壮士などは明治十年頃まで抜刀して暴れられた訳である。 ちなみに「赤穂義人纂書」には赤穂浪士佩刀一覧表がある。 少し紹介すると以下のように記されている。     遺物佩刀覚書<今度四十六人刀脇差之覚>・浅野忠允前侯爵家所蔵目録
大石内蔵介 (刀、脇差共に則長)    大石主税  (刀、共国、脇、広重) 大高源吾(刀、共久、脇、政国) 武林唯七(刀、広国、脇、水田) 近松勘六(刀、三吉、脇、無銘)(以下省略) 註・当時のこの記録を見ても刀はどれも殿様の公刀だった事が判る。
 
赤穂義人纂書考 (2)
 
◎「赤水郷談」  柳田直校。編者校訂者、両人共に赤穂の人である。天明の頃の作。文初に「義人の歿せしより年久敷経りぬれば、故老の残りしも復々に 絶々になり、古き咄も覚えしもの稀なるを惜みて、余が伝聞ふるまま書きつらねし故、郷談と伝爾」といい、義士に関する雑話を集めたものである。
◎「妙海語」
 
 妙海については、故三田村鳶魚の「横から見た赤穂義士」に詳細だが、それが後世の好事家の手作りであると、実例を挙げているので、ここで註をつけるのは屋上に階を重ねる事になり憚られる。が、しかし、大石内蔵助の家中の者で、女七人が、吉良の奥方へ奉公に出され、その内の一人が順にて、妙海なり、というくだりはいただけない。というのは、上野介の妻三姫は俗書では富子ともいうが、三姫は実家の米沢より取り寄せた二万二千五百両で、江戸の勅額火事と謂われる大火で前の屋敷が焼失した後、その金で呉服橋に豪壮な邸を新設している。しかし松の廊下刃傷のあと、柳沢吉保にその新邸を取り上げられ、近藤登之助の空いていた屋敷へ移転させられた。
だから三姫は「むさくて住めぬ」と上杉の狸穴の麻布屋敷、のち赤坂の氷川屋敷に住んでいた。勿論上野介も一緒に従って一歳年上の老妻の許で暮らしていて、滅多に本所松坂町の屋敷には行かなかった。だから「吉良邸の絵図面取り」などというが、実際は上野介が何日に戻ってくるかという、動静を探りだったのだし、十二月十四日の夜にしても、茶会が遅くなって泊まりはしたが、茶坊主は伴って行ったけれど、女中や腰元は一人も居なかった。
 
悋気深い年上女房である三姫は、実家上杉家の権勢にものをいわせていて、だから上野介に側室などは一人も居なかった。従って上杉屋敷には侍女は沢山いたのだから身元の怪しい女達を使う筈などない。しかし、これが為永春水の「女忠臣蔵」の底本となるのである。
◎「介石記」此一書東武一向宗某寺住僧著作伝。 これは「介錯記」として伝わっている写本もある。青龍院本と違い、文化十年二月の奥付になっているが、文政の刊本では、切腹を売り物にしては奉行所の咎めがあっては不味いと、介錯の錯の字が、石に変えられたようである。 義士の討入りは今でいえば、忠とか義と称するより、当時の体制への抗議行動と見られていたらしく、幕末のインフレに苦しんだ庶民に好評を得たのだろう。しかし、終いには書くことが無くなって幽霊話までつけている。
この「介石記」は「大石良雄忠義物語」ともいう。著者未詳ともいわれている。またこの書の初にある「此一書東武一向宗某寺住僧著作伝」とも、また当時の老中阿部豊後の守正武の家臣、村治弥十郎ともいわれている。「忠誠後鑑録」の凡例にその名が見られるから、義士切腹後数年を出ずして成ったものである。最も古く最も有名な書の一つで、義士復讐の顛末を述べている。実録とはいうが、但し巷説妄談の部分が少なからず在る。介石記という名は、 「其守レ事介ニ千石ト云ル古語アリ、彼義士之節義、守堅如レ石、取ニ其古語名ニ介石記」とある。
義人纂書は膨大なものだが、此処に記したのはほんの一部にすぎない。こうして見れば、中にはかなり怪しい、後世の作話が多いのも判り、貴重な史料ではあるが選別眼が必要である。                                                           
【注】以下は私のニフティの会議室で「義人纂書」についての質問に答えたものです。
 
まず赤穂義人纂書について。 私の所持しているのは赤穂義人纂書、赤穂義士資料大成(一)(二)(三)です。原文は全18巻となっており、全部集録されてます。 この内(三)は補遺となっております。これらは昭和五十年、二千部の限定出版で、日本シェル出版から用紙、三興特すき機械奉書紙で発刊され、一冊五百五十ページにも及ぶ膨大なものです。集録されている資料は補遺も入れると二百二十点以上にもなります。 その(二)の巻之九、「田村右京太夫殿に浅野内匠頭御預一件」により、「附記」で次のように言っております。
まず田村邸での処刑の描写であるが、事件のあった元禄十四年から、天保五年の間には一世紀半の時間的距離があり、ゼロックスも無く次々と手作業で筆写されている間には、書く人によって尤もらしくリライトされ、変えられてきたことを考えねばならぬと言えよう。 というのは磐井の一関家に伝わるものと添記されているものの、当時の「田村家記」に記録されているのは「遺骸直垂大紋、烏帽子、鼻紙袋あいそえ、浅野家用人かすや勘左衛門に受取りかかせ、あい渡し申し候」なのである。
 
麻上下を田村家の中小姓が持ち出してきたと言うが、直垂の上から上下は着られないし、まさかそれを脱いで肌襦袢に上下でもあるまい。 これは芝居の舞台で白砂に青い上下を付けた姿で、三宝を頂き割腹するのが広く知られ、錦絵にもなって世に広まっているのに迎合し、書かれたようで、その為に切腹の場へは田村家の者は一人も近寄らなかった。
御指図につきその意に従ったとある。となると中小姓が近づいたのが、次の行で否定され、尤もらしく愛沢惣右衛門の名前まであるが、全く辻褄が合わない事になる。おそらく実際は駕の施錠を開けられ顔を出した処を据物斬りでバッサリやられ、首桶に入れるのに邪魔になるゆえ、柳沢吉保の腹心、庄田下総守が烏帽子を外し残したのを、遺品として田村邸で渡したのが本当なのだろう。
「この段かねて知らせておくべきだったが、今日は突然に(その実行を言いつけられ)申し伝える余裕もなく、よってさぞ不審に思うであろう」との意味も、柳沢の慌ただしい処置ぶりから結びつくものがある。何しろ相手を殺しもせず、仕止められなかった刃傷などは、千代田城に前後四回在ったが、他に例が無い謎もこれで判ってくる。
つまり幕閣の権威者柳沢に、吉良を抜刀させるように挑発せいと、かねて言いつけられていたが本気にしていなかった内匠頭だったが、当日厳しく実行を迫られてやむなくなしたが、吉良に上手く逃げられて失敗。千代田城の中からそのまま駕で護送、着いた途端に即死刑が真実らしい。だから同情もあったのだろう。
 
次に「大河原文書抄」・大熊弥一右衛門文状には、吉良方が抜刀せずに闘った様子も窺われます。また、実際に討ち入った人数や、他の者達の様子や情景も読みとれます。尚、内匠頭の弟、浅野大学は宝永六年、本家の広島預けから御免となり、房州朝夷郡、現在の館山の知行所で五百石の寄合旗本となったと言いますから、幕末まで続いていればその子孫は現存しているのではないでしょうか。
(これはインターネットからの情報です)また、鍋田晶山が苦労して集めた義人纂書を預かった、清水赤城の子の大橋訥庵も、<幕末確定史料大成>の「官武通記」には、訥庵召捕りの様子が詳しく出ておりますが、獄死しても義人纂書を守り通して、その子の義の代になって初めて刊行されたもので、そして追いかけるように洩れていた物を「補遺」として出された人が、晶山先生四代目の曾孫である鍋田三省氏は、福島県いわき市に現存されてます。
赤穂義人纂書由来書
 
 
鍋田晶山は奥州へ携行してしまっては、あたら集大成した大石良雄らの事跡が、全く日の目にあうことなく埋没せんと、憂えたれば背負い持ちきたり。「この十八巻は年頃日頃ずっと心を込めて、赤穂義士に関しすることは細大漏らさずに書き写し集大成したものなるが、辺隅の地に携行すれば再び世に出ることもなからん。それでは大石良雄らの霊も浮かぶことなからん」と、もし機会が在れば刊行してくれるよう言い残して去っていったのは自分も子供心に覚えている。 その後、明治の中期より旧幕時代のごとき各大名領のみの国史と違い、日本全体の歴史学が盛んになり、歴史学の泰斗重野安繹博士も赤穂義士について研究され、「世に、赤穂義人纂書なる貴重な集大成ありと仄聞するが、われ不幸にして未だ見る機会なし」と講演されたるを聞き、当家に伝わる旨を新聞紙上に公表せしところ、上野図書館より一部筆写したき旨の申し出を受けたり。が、たとえ非売品の体裁にてあれ、刊行されるのは故人の晶山や祖父清水赤城、父大橋訥庵らも共に歓ばんと、本書の由来を此処に示すものである。       明治四十三年六月   大橋義 識 
 
 
次に長文ですが【補遺例言】を紹介致します。
(1)本書は赤穂義人纂書の一、二に洩れしものを、越渓西村豊の指導によって、明治44年6月に限定500部の非売品として刊行されしものの完全復刻版である。
(2)堀部安兵衛が柳沢吉保の家臣細井広沢へ、他との書簡その他を形見の如く贈ったものという。となると安兵衛は軽率にも、事前の共同謀議の証拠書類一切を権力側へ提出し、全員処断の結果となるが、江戸時代にあっては、家来は主君の意志のままに仕えるのが奉公というものであるから、安兵衛が柳沢へ全て通報していたのはそこに何かが在った事になる。
(3)波賀清太夫覚書は、大石主税首級を介錯した松山藩士当人のものゆえ、信頼出来るものである。
(4)自明話禄は、義士討入り当夜たまたま泉岳寺に居合わせた月海こと自明が、戸部へ話したのを纏めたもので<泉岳寺書上げ>より良質とされている。
(5)大河原文書、上杉の江戸詰め藩士の大熊弥一右衛門が、事件直後に郷里の米沢へ書き送ったものである。というと、吉良贔屓の内容の如く誤られがちだが、そうではない。当時の上杉家は当主綱憲の生母が上野介の妻の三姫ゆえ、呉服橋屋敷の新築費用、22500両だけでなく、本所松坂町の旧近藤登之助の屋敷跡では不便だと、事件後は氷川の上杉中屋敷に住み、費用の一切合切は上杉家の支払いだった。ゆえに、米沢藩士は30万石から25万石に減封された際に、扶持を4分の1減にされていたのが、又しても吉良様御用金でさらに4分の1減にされた。それゆえ、「かて米」とよぶヒエやアワやトチの実入りの雑炊を家老や城代までが食していた。 だから吉良討たれると伝わるや、米沢では家中一同大いに喜んだという。
(6)大石良雄金銀請払帳は、箱根神社所蔵のものの写しであって、浪曲や講談での<南部坂雪の別れ>で瑶泉院へ大石良雄より提出のも   のがこれだとされている。
(7)徳川実記抄は、史料となすにはたらざるも、鶏助として、と収録についてははっきりと但し書きにされている。
(8)評定所一座存寄書は、これ全員みな柳沢閥である。
(9)徂来擬律書も、前者と同じ政治的発表のものである。柳沢の家来の徂来が、柳沢を権威の代表とする幕閣から尋ねられ、その下問に答   える形式になっており、これは訝しい。
(10)松山業談、旧松山藩の史料で信頼できるとされている。
(11)丁丑紀行、大高源吾が元禄十年に江戸から赤穂へ戻る時に誌した紀行文で、豊かな才能の持ち主だった事がよく判る。
(12)大高源吾詫び証文、明治三十五年一月に当時の歴史家大森金五郎が、伊豆の旅館の主人に見せられて、本物なりと証明書をつけたから、それより有名になった。
(13)浅野内匠頭宿割帳、やはり国定教科書の歴史の先生大森金五郎が、証明書をつけたので本物として伝わった。
(14)義人不破数右衛門記、丹波笹山の儒者川崎某のものというが、不破は赤穂塩を差配していた八田一族の出身である。
(15)湖山常喜清公行実片哀辞は、赤穂花岳寺に今も寺宝して在って、きわめて良質な貴重な史料である。
(16)江赤見聞記は<家秘抄>の別名があるのは、柳沢が黒幕の事件とは一般には知らされず、武士社会では幕末までは「大逆事件」なみ    に見られていた。だから町人には人気があっても、武士は敬遠していたゆえ、長文なのに筆者名さえ伝わっていないのである。 (17)義人禄、室鳩巣の著で、書中に誤りも多いが、早く世に出、極めて一般的なものであるとされている。
(18)忠誠後鑑禄は、津山藩士小川恒充の著にて宝永4年の作。誤りが多いと<白明話禄>では説く。参照するが可。
 
 
この元禄事件とは当時のあらゆる状況から、権威に利用され操られ捨て殺しにされた、内匠頭や大石らの哀しみの物語に収斂されてゆくのが理解できます。
◎町木戸の開閉の時間も稲垣氏の考証とは違ってます。 ◎吉良を討ち損じた場合、二段構えで家老の大野九朗兵衛が、鉄砲三十丁と火薬を用意して、米沢へ逃げるであろ う吉良を、山形湯殿山海道、米沢城下への入り口板谷峠で討つ計画だったことも書かれてます。 ◎討入り当日の吉良方の人数は家老の松原多中以下、足軽小者も入れて四十人。火事だと詐って開門させ、三人 一組の五組が乱入し事。 (後に義士たちの刀の血曇りを調べた際、実際には五人の刀からしか発見されなかったのが本当のところ)
三代将軍家光の食言に端を発した天皇家と徳川の確執、綱吉の将軍継承問題、光圀が京より将軍を迎えて、自分は武家を代表して副将軍になろうとした事実。生類憐れみの令とは何だったのか、仏教徒対神徒の確執、日本列島の基底を脈々と流れる枠外の民の存在。
由比正雪の乱、伊達騒動、別木庄左衛門たちの決起、これらは後水尾帝の院宣を拝した”まぎれもない討幕運動”だった事も判ります。 そして元禄時代とは「大平で文化絢爛たる時代」とする通説とのあまりの乖離に驚かれるでしょう。 柳沢の政策で大量に出回った粗悪な小判の為、悪政インフレと各地の大地震や飢饉に苦しむ当時の庶民たちの様子。 (これらの本は古書店にはあまり出回りませんが県立や大きな図書館には所蔵されて居ると思います。国会図書館には勿論あります)
さて、八切史観は、歴史分野の学者や専門家が言っている事に対し、新しい証拠に基づいて、異なる視点で独自の見解、即ち自分なりの新しい付加価値を出した、とも言えるでしょう。言い換えれば、今まで在ったのに誰も気付かなかった物を見つけること(デスカバリー)とも言えるのでは。いま、一つの時代が終わり、新たな時代が始まろうとしている。カオスのなかでの真剣な模索、それは、現代に生きる私たちの切実な課題となっています。いまほど”原点”からの出発が求められている時はないでしょう。私たちは、自由な、とらわれない目で全てのものを見直し、考え直して行かなければならないと思うのですが。
 
 
 

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