かたつむりのように

のんびり、ゆっくり、ゆっくり、・・・歩いていこう
時には アンテナをたてて・・・

【思い出の地 大分の旅】 ⑦友と別れて湯布院へ

2017年11月12日 15時30分10秒 | 日記

Aさんと再会し 大分の思い出にとっぷりと浸かり

文字どうり夢のような時間を過ごしました。

いくら話しても話は尽きません。

(大分市街)

「また 会おうね」そう言いながらも (会えるだろうか)

若くない自分たちの持ち時間を意識せずにはいられませんでした。

  私は 大分の街をしっかりと目に焼き付けて、九大線で由布院に向かいました。

 

台風が去って空気中のゴミも吹き飛ばされたのか

澄み切った青空が広がり 紅葉し始めた湯布院は美しい光景がひろがっていました。

(由布院駅)

(金鱗湖周りの紅葉)

(金鱗湖)

(由布岳)

街から少し離れた丘陵地帯にある「朝霧が見える宿」とうたっている 〇由 にとまりました

ロビーは全面ガラス張り

活火山でありながら優しい由布岳の姿が広がっていました。

 

翌朝 目が覚めると朝霧が流れており 

刻々と変わる由布岳と湯布院の街並はとても幻想的でした。

宿の方は「こんなに美しく朝霧が見られたのは 久しぶりです」 

と話してくれました。

 

(ロビーから 由布岳にかかる朝霧を 皆熱心にカメラにおさめていました)

  

 

(朝霧は刻々と変わっていきます。圧巻の朝霧に息をのみ カメラをむけましたが

なかなかそれが撮れません。残念!

(由布院の駅舎)

 (湯布院の街並)

朝霧を見た翌朝 Aさんより

大分合同新聞には 由布岳は久しぶりの朝霧で美しい・・・と掲載されていたよ。」

とメールがありました

 これは 行きに台風で大変な思いをした後の 天からのプレゼントだったかもしれません。

 

帰りの飛行機は 

「ハエのように小さいね」

なんて笑いながらも、天候に恵まれて全く揺れず

これで空を飛んでいるのかと思うほどの快適さでした。

 

眼下につぎつぎにくり広ろげられる夜景を眺めながら

 長年の願いが叶った満足感と

終わちゃったな

と ふと祭りのあとの寂しさも感じました。

 


【思い出の地 大分の旅】 ⑥恥はかき捨て

2017年11月10日 15時41分56秒 | 日記

大分で4年間が過ぎたころ 長崎に転勤が決まりました。

大分を離れがたい思いと引越しのせわしさに追われながら

子供たちの学校に手続きに行きました。

すると 次男の受持ちのF先生からの申し出に 驚いてしまいました。

 

 先生は

 「【親と教師の学級通信】というタイトルで、私のクラスが

OBS(大分テレビ)で取り上げられることになったんですよ。

授業風景はもう撮影が終わりましたが その録画を見ながら

 教育委員会主事と 教師と 父兄とで 学級通信の役割などについて 

対談することになったんです。 これに是非出てください」

 

びっくり仰天でした。

 テレビなんて、 対談だなんて・・・聞けば父兄は一人という。 とんでもない。 

お断りしました。

「引越し準備に忙しいんです。 カメラの前で対談なんて。 とても話なんかできません。

思っていることもうまく言葉にできませんのに・・・」

と強く お断りしました。

私には 全く考えられない話でした。

先生は

「気軽に 気軽に・・・ なんでもいいんですよ。 思ったことを話してください。

転勤しちゃうなら 大分の思い出になるじゃあありませんか。

本当は私もテレビ出演なんて 困るんですが

恥もかき捨て・・・って 言葉もありますし、

長崎に行ってしまうのですから (恥もかき捨てじゃあないですか)  

 ・・・大分の思い出ですよ。」

 

完全にお断りしたはずでした。

 

なのに OBSからの連絡があり、どうしようもなく 

精神安定剤 確か 「バランス」とか言う薬だったと思います。

それを飲んで(笑) 心を鎮め やむなく 崖から飛び降りる気持ちで

対談に参加しました。

長い月日が経っても あの困惑は 忘れられません。

 

先生は国語教育の権威でいらっしゃいました。

確か教師になって十数年も 毎日学級通信を発行し続けられていて

それは 大分市内ばかりでなく 広く県下にも知られておりました。

それでOBSに取り上げられたのでした。

 

 先生は 毎日 朝早く出勤し学級通信を印刷し(当時は謄写版印刷でした)

子供に持たせてくださいました。

それには 学校行事 連絡事項の他 先生の教育方針や子供たちに対する想い 

その日の子供たちの様子など こと細かく書かれていました。

 

若い頃は 作家志望であったという先生の文章は 巧みで 楽しく

子供たちの様子が手に取るようにわかり  

先生のエッセイには いつも感動したものでした。

 

大分を離れる寸前 これは放映されましたが

 私は とてもまともに見られませんでした。

 当時はまだ一般家庭では、テレビの録画はできない時でした。

電気屋さんのAさんは

それを録画してプレゼントしてくれました。

今もこのビデオの中には、30代の私と小1の息子が入っているはずですが

見る勇気はありません。

 Aさんは 

「F先生は、お元気よ」 と話してくれました。

  大分の恥のかき捨て の思い出です。

 

 

 

 

 

 

 


【思い出の地 大分の旅】 ⑤どろまんじゅう と セミとり

2017年11月08日 10時52分06秒 | 日記

元自宅前に立つと 思い出は次々と蘇ってきます。

 

  介護施設になっているビルの下には

かって わが家があり、そこそこの庭がありました。

庭には 結構高い塀があり、子供たちは よくそこに登って、遊んでいました。

その庭に面して、昔ながらの長い縁側がありました。

 

次男は 近所の友達と庭でよくどろまんじゅうを作りを

していました。

 それはそれは熱心で 砂をかけては磨き またかけては磨き

ボーリングの玉のように硬く磨き上げ

縁側の下にづらりと並べていました。

大から小へと どろまんじゅうが一列に整列し ピカピカに光っていた光景を

今も楽しく思い出します。

 

 長男はセミとり名人でした。

虫かごを左右に 十の字にかけて、セミとりに行きます。

ある日二つの虫かごにぎゅうぎゅうづめに セミを捕ってきました。

私ははびっくり仰天

「セミが息ができないよ~ 放してやりなさい!」

と叫びました。

息子は縁側に立って、庭に向け二つの虫かごの開け

一斉にセミを放ったあの日の光景も忘れられません。

 

大分の4年が過ぎたころ 長崎に転勤が決まりました。

庭のぼたんは Aさん宅にお嫁入りしました。

 

介護施設となったビルの下の庭には、

たくさんの思い出が眠っています。

わたしは 灌漑深くビルを眺めました。


【思い出の地 大分の旅】 ④ はじめてゴーヤを食べた日

2017年11月07日 21時26分21秒 | 日記

Aさんと元自宅前で思い出話をしました。

台風が過ぎ去り 空は澄みきって半月が美しく輝いていました。

 

昔 お隣りは 板金屋さん そのお隣りは 歯医者さんとお米屋さんでした。

それが今はマンションになっています。

板金屋さんのご主人は かっぷくのいい 気のいい方でした。

ある日

ゴーヤを1本私に手渡しながら

「縦はんぶんに切って 種を取ったら、薄切りにしてね、油でいためて

醤油とかつぶしで味付けしたら おいしいよ」

と手渡してくれました。

( 確か・・・そう言ったと思います。苦味ぬきは聞かなかったと思います。)

私はそのとうりに調理したものの、猛烈な苦さに驚きました。

これが おいしい????

あれが40年前のゴーヤとの出会いでした。

 

Aさんに はじめてゴーヤを食べて その苦さに驚いた話をすると、

大分では 昔から食べられているのよ・・・と笑いました。

 

すでに引越ししてしまったというご主人は お元気なのでしょうか

ふと 思いました。

 

今では 夫が市民農園を借りて 毎年ゴーヤを作ってくれています。

ゴーヤチャンプル 豚肉と紅ショウガの線切を入れたゴーヤのかき揚 

ゴーヤ入りソーメンチャンプルは

夏のわが家の定番になっています。

 

ゴーヤを食べるたびに思い出す 大分の体験です。

 

 


【思い出の地 大分の旅】 ③長男の足跡

2017年11月06日 09時10分36秒 | 日記

Aさんと和風お食事処で

大分の名物 団子汁 りゅうきゅう が加わった懐かしい味を堪能した後

街を歩きました。

当時小2だった頃の息子の描いた絵地図見ながら、

「そうそう、ここにアーケードあったよね」

「このジャングル公園が子供の遊び場だったわ.昔はジャングルだったのに、

すっかり木や下草がなくなちゃたわねぇ

「この大分銀行社宅跡が 今は美術館になったのよ。この建築が斬新で、

建築を勉強する学生が見に来るって 言うわ」 とAさん

話は尽きません。

そして、私が住んでいた社宅跡にきました。

平屋だった社宅は、今は5階建ての介護施設になっていました。

 

「このあたりに門があったね。門の横にはくちなしの花が咲き、いい香がしていたわ」 

と話すと Aさんは

「ここに 〇〇ちゃんの足跡があったのに 介護施設ができた時 なくなちゃたのよ」

と残念そうに 話してくれました。

確かに 介護施設の前あたりです。

長男の足跡があったのです。

 

Aさんの言葉に切なくなるほどの思い出が 蘇ってきました。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

あれは、長男が2年生頃だったと思います。

家の前の側溝を市が修理し、セメントを塗り替えたことがありました。

「乾くまで 乗らないのよ」

そう言っておいたのに、

知らぬ間に チョン チョン チョン と足跡をつけてしまったのです。

「どうして こんなことをするの!」

息子のいたずらに 私は 声を荒げました。

「だって また転勤するでしょ。 大きくなったらここに足跡を見に来るもん。

ぼくさ、芦屋にも 足跡つけてあるよ。大人になったら足跡をみてまわるんだ・・・」

 

その言葉は衝撃でした

息子の深い想いを知り ぶわ~と涙が湧き上がり、

私は必死でこらえました。

 

そうだったのか・・・ 前任地の芦屋の社宅にあった

あの自転車置き場の足跡は

息子のものだったのか・・・

私は 不思議なくらいあの足跡を 覚えていました。

 

息子が小1になるかならない頃だったと思います。

社宅の自転車置き場のセメントを塗り替えたことがありました。

子供たちは 左官さんの手さばきをおもしろそうに 眺めていました。

 

「ぼくたち、乾くまで乗らないでね」

「は~い」

みんな一斉に いい返事をしていました。

しかし 翌日 

そこには チョコ チョコ チョコと一列に並んだ足跡がつけられていました。

社宅の奥さんたちと、

「あ~あ やっぱり やちゃったわね~」

私も やれやれしょうがないなあ・・・と 眺めました。

あれは息子の足跡だったんだ。

 

大分に来てから それを知りました。

 

ここに立って、あの日に涙をこらえ 長男の足跡を眺めた日が 

蘇ってきます

 Aさんも「〇〇ちゃんの足跡みるたびに 思い出していたのよ」 

 

忘れられない足跡でした。

 

芦屋の足跡も 阪神淡路大震災でなくなり 大分の足跡も今はなく

その息子も40才後半になりました。