とうとう、 そのハガキは来てしまった。
「後から手紙を出すから・・・もうこうして会えたから・・・」
と、友人は、暗に(葬儀は知らせないよ)と私たちに言った。
それは3月末日のことだった。
それから2か月弱の今月23日、 友人から別れのハガキが届いた。
それは、彼女が旅立ち(5月9日)、 長い間の友情を感謝する自筆のものだった。
涙でかすんでしまうハガキを、何度も何度も目を凝らして見ると、 死亡日のみを
息子さんが記入したと思われる紛れもない彼女自筆のハガキだったのだ。
私は胸が押しつぶされた。
彼女が旅立って、このハガキを受けとるまでの2週間も、私はメール、絵手紙を
送り続けていたことになる。
残された私たち仲間4人は、 それぞれの形で今日まで彼女を気遣っていた。
「今日の月はきれいだよ。見ている?・・・」
私は、 同じ月を見ているかもしれないと思うと、繋がっている気がしていた。
なにげない会話を、メール、 絵手紙にのせて書き送っていた。
返事がなくとも、 会話している気になっていた。しかし彼女はすで旅立っていたのだ。
今年の初め2月頃だったか・・・
例年どうりOL時代の仲間で旅行に行こうと彼女に連絡をとると
「体調が悪い、余命半年と言われた・・・」の返事に、私たちは動転した。
彼女は、私たち5人のOL時代の同期の一人であり、もう50数年もの長い間、友情を
育んできた大事な友人なのだ。
若い頃、 私たちは給料を積み立てて、5人でおそろいのメノウの指輪を買い、
私たちは文字どうり、 何十年も喜びも悲しみも共有し固い絆で結ばれてきた。
余命半年なんて、 なんということ・・・震える私たちに、彼女は冷静に見えた。
それからの彼女は、着々と身辺整理をしていった。
お琴の先生をしていたことがある彼女は、 15面もあるお琴を小学校に寄贈した。
最近は小学校では古典音楽を体験する授業があるという。
そして自ら葬儀屋に行き見積もりをとり、お寺に生前戒名を依頼した。
尊厳死を選び、それを書面に残し、終末を自宅で迎えると決めた。
私たち4人が最後に彼女を見舞ったのは、3月の最終日だった。
ウエストのゴムが苦しいからとむくんだ体を二部式の着物で隠し、精いっぱいのお洒落を
した彼女は美しかった。
部屋に入ると、 壁には【救急車を呼ばないでください】〇〇子 と貼り紙がしてあった。
仏壇の前には、 1面だけ残してあったお琴があり、 その上に遺影にする写真と
棺に入れる物が用意されていた。 そして最後に着たいというお気に入りの訪問着が
置かれてあった。
☆ 延命せぬ救急車無用と壁に貼り、友は旅路に訪問着置く
☆ 若きより身体鍛えし友の脚 むくみてこはぜはまることなし
彼女はその日もきれいに髪を整え、 貧血のためか紙のような白い顔に紅が冴えていた。
そして、
「できるだけ美容院には行きたいのよ。連れて行ってもらうわ。女は髪をきれいにして
いなさい・・・これが母親の遺言だもの」
とほほえんだ。
☆ 最後まで髪を整え紅を引く 母の教えを守りし友よ
☆ 覚悟して死を受け入れし友の顔 微笑みたれどしばし歪まん
☆ 余命半年旅立ちの衣整えて 友は己が最後をプロデュース
友人の一人から送られてくる短歌に、私も歌にもならない返歌で応え、苦しい時間を
紛らわせていた。
しかしあまりにも早く、 完璧に身辺整理をして、彼女は逝ってしまった!
水鳥が飛び立つように、あわただしく、そして跡を濁さずに逝ってしまった!
( 余命6か月、と言ったじゃないの。なんでそんなに急いだの。まだ時間はあったはず。
なんで何もか一人で頑張ったの。弱音を吐いたっていいじゃない。周りにたよったって
いいじゃない。人は、 生まれてきた時も一人なら、最後だって一人だけど、私たち仲間は、
爪楊枝ほどの支えにもならなかったかもしれないけれど、頼られたかったよ。 ひとりで
よく頑張ったね )
空に向かって言った(涙)
☆ 旅立ちし律儀な友より感謝状 君の生き様わが内に生けり
仲間の一人からから最後の短歌が送られてきた。
泣き泣き交わした二人の短歌(?)も終わった。