大分で4年間が過ぎた頃、長崎に転勤が決まりました。
大分を離れがたい思いと、引越しのせわしさに追われながら、子供たちの学校に手続きに
行きました。
すると、次男の受持ちのF先生からの申し出に、驚いてしまいました。
先生は、
「【親と教師の学級通信】というタイトルで、私のクラスが、OBS(大分テレビ)で
取り上げられることになったんですよ。授業風景はもう撮影が終わりましたが、
その録画を見ながら、教育委員会主事と、教師と、父兄とで学級通信の役割など
について対談することになったんです。 これに是非出てください」
びっくり仰天でした。
テレビなんて! 対談だなんて! 聞けば父兄は一人という。 とんでもない。
お断りしました。
「引越し準備に忙しいんです。カメラの前で対談なんて、とても話なんかできません。
思っていることもうまく言葉にできませんのに・・・」
と強く、お断りしました。 私には、全く考えられない話でした。
先生は、
「気軽に、気軽に・・・なんでもいいんですよ。 思ったことを話してください。
転勤しちゃうなら、大分の思い出になるじゃあありませんか。本当は私もテレビ出演
なんて困るんですが 恥もかき捨て・・・って 言葉もありますし、長崎に行って
しまうのですから (恥もかき捨てじゃあないですか) 大分の思い出ですよ」
完全にお断りしたはずでした。
なのに、OBSからの連絡があり、どうしようもなく、精神安定剤、確か 「バランス」
とか言う薬だったと思います。先生とそれを飲んで(笑) 心を鎮め、やむなく、
崖から飛び降りる気持ちで、対談に参加しました。 長い月日が経ってもあの困惑は、
忘れられません。
先生は国語教育の権威でいらっしゃいました。
確か教師になって十数年も、毎日学級通信を発行し続けられていて、それは大分市内
ばかりでなく広く県下にも知られておりました。 それでOBSに取り上げられたのでした。
先生は毎日、朝早く出勤し学級通信を印刷し(当時は謄写版印刷でした)子供に、
持たせてくださいました。
それには学校行事、連絡事項の他、先生の教育方針や子供たちに対する想い、その日の
子供たちの様子などこと細かく書かれていました。
若い頃は、作家志望であったという先生の文章は、巧みで、 楽しく、子供たちの様子が
手に取るようにわかり、先生のエッセイにはいつも感動したものでした。
大分を離れる寸前、これは放映されましたが、私はとてもまともに見られませんでした。
当時はまだ一般家庭では、テレビの録画はできない時でした。
電気屋さんのAさんは、それを録画してプレゼントしてくれました。
今もこのビデオの中には、30代の私と小1の息子が入っているはずですが、見る勇気は
ありません。
Aさんは、「F先生は、お元気よ」 と話してくれました。
大分の「恥のかき捨て」 の思い出です。
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