レイプクライシス・ネットワーク、
その名の通り、性暴力被害者支援がこの組織(?)の確たるミッションなわけなのだけれども、
それは一体なんなのか、
果たして、何をもってして支援と言うのか、実のところ私にはよく、分からない。
何がその人のためになるのか、
何が、この社会から性暴力というものを減らす、確たるところ無くしていく、ということに繋がるのか、
それを全てにおいて実践した人がいない以上、これが正解だと胸を張って言える人は、
いないのではないかと思う。
私がRC-NETの前身であるレイプクライシス・サバイバーズネット関西(RCSNK)という団体に出会ったのはもう9年近く前になる。
この団体を見て来て、すごいなと思っていたところは、
伝えている事は結構ヘビーな内容だたりするのだけれども、
何かを責める、という空気感を出していないところだったと思う。
今、この目の前にある、存在するサバイバーに対して語っているんだ、というところが、
私がRCSNKのスタンスにおいて一番好きなところだ。
予防であるだとか、
撲滅であるだとか、
そういうことは語らない。
なぜなら、それは被害者が考えることではないからだ、という一貫した姿勢があった。
なくそうとか遭わないように、だとか言われたら、
すでに、被害にあって、今ここにいる自分が、なんだか悪い気がするじゃない。
少なくとも私なら、そう思う。
あってしまってごめんなさい、と。
でもそんなことはないのだから。
絶対にないのだから。
当事者への語りかけと、
社会(加害者を含む)への働きかけは、
まるで別物だ。
支援というものに片足のつま先程度足を突っ込んでいる私にとっては、
両方を自分の手段として持ってはいるけれど、そこのところはいつも気をつけようと思っている。
そしてこの数年の間で、一番思ったことは、
なんらかのカテゴリーに人を分けて、出会う前から排除してしまうことの、
“つまらなさ”。
男だからだとか、女だからとか、
セクシャルマイノリティーだからとかなんだかんだ。
いい人はいい。
おもろい人はおもろい。
それを逃すのはもったいない、ということ。
そして、その人たちと一緒に、闘うのではなく、
楽しむのだ、ということ。
自分たちがえぇなと思う社会を作っていきたいねと言っているのだから、
私はその過程はもちろん楽しいものだと思う。
というより、闘ったあげく、
疲れたからもうそんなことやめましょ、というのが、
今なのかもしれない。
穏やかに、緩やかに、おもしろく。
このブログでも何回か言っているように、性暴力は“暴力”だ。
あらゆる暴力の根底にあるものと、きっかけは同じ。
その根底がある限り、性暴力はなくならない。
いじめはなくならない、という。
戦争はなくならない、という。
もしそうなのであれば、きっと世界から性暴力は無くならない。
ただ、一つだけチャンスはある。
いじめを私がしないこと。
私が、戦争をしないこと。
私が、人を殺さないこと。
私が、人をレイプしないこと。
私が、暴力を手放すこと。
その気軽さを、
みんなと分け合うこと。
少しずつ、少しずつ、広めていくこと。
大きな視野で考えずとも、
今ここにある、自分の生き方の問題でしかない。
どう生きたい?
その質問に、いつもワクワクして答えられるような自分でありたい。
少しずつ、へたれでもいい、緩やかに、おもろいことをしたい。
その名の通り、性暴力被害者支援がこの組織(?)の確たるミッションなわけなのだけれども、
それは一体なんなのか、
果たして、何をもってして支援と言うのか、実のところ私にはよく、分からない。
何がその人のためになるのか、
何が、この社会から性暴力というものを減らす、確たるところ無くしていく、ということに繋がるのか、
それを全てにおいて実践した人がいない以上、これが正解だと胸を張って言える人は、
いないのではないかと思う。
私がRC-NETの前身であるレイプクライシス・サバイバーズネット関西(RCSNK)という団体に出会ったのはもう9年近く前になる。
この団体を見て来て、すごいなと思っていたところは、
伝えている事は結構ヘビーな内容だたりするのだけれども、
何かを責める、という空気感を出していないところだったと思う。
今、この目の前にある、存在するサバイバーに対して語っているんだ、というところが、
私がRCSNKのスタンスにおいて一番好きなところだ。
予防であるだとか、
撲滅であるだとか、
そういうことは語らない。
なぜなら、それは被害者が考えることではないからだ、という一貫した姿勢があった。
なくそうとか遭わないように、だとか言われたら、
すでに、被害にあって、今ここにいる自分が、なんだか悪い気がするじゃない。
少なくとも私なら、そう思う。
あってしまってごめんなさい、と。
でもそんなことはないのだから。
絶対にないのだから。
当事者への語りかけと、
社会(加害者を含む)への働きかけは、
まるで別物だ。
支援というものに片足のつま先程度足を突っ込んでいる私にとっては、
両方を自分の手段として持ってはいるけれど、そこのところはいつも気をつけようと思っている。
そしてこの数年の間で、一番思ったことは、
なんらかのカテゴリーに人を分けて、出会う前から排除してしまうことの、
“つまらなさ”。
男だからだとか、女だからとか、
セクシャルマイノリティーだからとかなんだかんだ。
いい人はいい。
おもろい人はおもろい。
それを逃すのはもったいない、ということ。
そして、その人たちと一緒に、闘うのではなく、
楽しむのだ、ということ。
自分たちがえぇなと思う社会を作っていきたいねと言っているのだから、
私はその過程はもちろん楽しいものだと思う。
というより、闘ったあげく、
疲れたからもうそんなことやめましょ、というのが、
今なのかもしれない。
穏やかに、緩やかに、おもしろく。
このブログでも何回か言っているように、性暴力は“暴力”だ。
あらゆる暴力の根底にあるものと、きっかけは同じ。
その根底がある限り、性暴力はなくならない。
いじめはなくならない、という。
戦争はなくならない、という。
もしそうなのであれば、きっと世界から性暴力は無くならない。
ただ、一つだけチャンスはある。
いじめを私がしないこと。
私が、戦争をしないこと。
私が、人を殺さないこと。
私が、人をレイプしないこと。
私が、暴力を手放すこと。
その気軽さを、
みんなと分け合うこと。
少しずつ、少しずつ、広めていくこと。
大きな視野で考えずとも、
今ここにある、自分の生き方の問題でしかない。
どう生きたい?
その質問に、いつもワクワクして答えられるような自分でありたい。
少しずつ、へたれでもいい、緩やかに、おもろいことをしたい。