性暴力被害にあったことを人に伝えるのは難しい。
何かあったことが発覚した時には、
相談してくれればよかったのに、とか、
なんで誰にも言えなかったのか、とか、
周囲の善意ある発言である場合もあれば、ややもすれば「被害者を責める」言葉が投げかけられたりもする。
しかし性暴力被害にあったという事実は、
なかなかに、伝えることが難しい。
それには沢山の原因がある。
まずは「性」というものへの社会的認識。
そこに被害者自身ももちろん「社会の一員として」組み込まれているということ。
性はこれまで、長きに渡って隠蔽されてきた。
実のところものすっごく身近な存在であるのにも関わらず、
それは秘め事として秘密裏に語られ、伝えられ続けてきた。
所謂、「恥ずかしいこと」と伝えられているからだ。
その恥ずかしいことを、人に打ち明けるのは大変恥ずかしい。
その「恥ずかしい」の主体に被害者がなってしまうのであれば、
自分は恥ずかしい存在なのか、と、思ってしまうかもしれない。
そして「性」の社会的認識には多くの間違い、誤解がある。
AVやエロ漫画では酷く歪曲された「性」が描かれている。
無理矢理性行為を強要されたオンナが最後には「もっと」と言いながら喘いでいる。
もしかしたらその喘ぎすらレイプの恐怖から少しでも早く逃げるための「演技」かもしれないなんていうリアルは描かれず、
結局はオンナもレイプを望んでいたような形でラストを迎える作品(とは言えない稚拙なものも含め)は、とても多い。
オンナは夢見がち、とは良く言われることだけれども、
私は常々思っている。
“オトコにはかないませんよ”と。
よく言うところのオンナの夢は、それ自体暴力に直結するものではない。
オトコのそれは、暴力と権力にまみれている。
その社会認識の中に自分を組み込むことはとても怖い。
その誤解、間違い、認識は、被害者にとっての暴力に他ならない。
レイプというシチュエーションを“お互いに楽しむ・共有する”ことが好きな人はいるだろうけれども、
一方的な暴力を楽しむ人はいない。
やられる側には、だ。
そして、性暴力=オンナの被害、という性認識もある。
性的強者=オトコ、性的弱者=オンナという構図の中で、
その枠の中に収まらなければ、それを持つこと自体が恥の概念に繋がる。
性暴力はオンナだけの被害構造ではない。
加害者は被害者に恥の意識を植え付ける。
恥ずかしいやつだ、
お前が悪いんだ、と、
そんなメッセージを植え付ける。
これに該当しないケースも、また他にも沢山の要因はあるけれども、
被害者は、そうして、孤立してしまう。
誰にも言えず、自分を責めてしまう。
そんな人が、とてつもなく多い。
飲酒運転の車に轢かれたことは、
多くの人が「こんな目にあった」とすぐに伝えられるかもしれない。
ひったくりにあったら、やっぱりすぐ警察に駆け込めるかも知れない。
見知らぬ人がいきなり殴りかかってきたら、
誰が「お前も悪い」なんて言うだろうか。
それでもその被害にあった人たちの心身には傷が残ることはある。
しかし、性暴力被害者は、その前提を持つことすら出来ない人が多い。
誰にも言えず、言葉に出来ず、助けを得ることが出来ず、
今この時も、多くの人が苦しんでいる。
だからこそ、私は性暴力というものに関わり続けたいと思っている。
大きなことは出来ないかもしれない。
私に出来ることは、すごく限られているかもしれない。
しかしもし私がここにいることで、
誰かにとっての「言える人」が一人でも増えるなら、そんな場所が出来るなら、
そんな素敵なことはないと、思っている。
何かあったことが発覚した時には、
相談してくれればよかったのに、とか、
なんで誰にも言えなかったのか、とか、
周囲の善意ある発言である場合もあれば、ややもすれば「被害者を責める」言葉が投げかけられたりもする。
しかし性暴力被害にあったという事実は、
なかなかに、伝えることが難しい。
それには沢山の原因がある。
まずは「性」というものへの社会的認識。
そこに被害者自身ももちろん「社会の一員として」組み込まれているということ。
性はこれまで、長きに渡って隠蔽されてきた。
実のところものすっごく身近な存在であるのにも関わらず、
それは秘め事として秘密裏に語られ、伝えられ続けてきた。
所謂、「恥ずかしいこと」と伝えられているからだ。
その恥ずかしいことを、人に打ち明けるのは大変恥ずかしい。
その「恥ずかしい」の主体に被害者がなってしまうのであれば、
自分は恥ずかしい存在なのか、と、思ってしまうかもしれない。
そして「性」の社会的認識には多くの間違い、誤解がある。
AVやエロ漫画では酷く歪曲された「性」が描かれている。
無理矢理性行為を強要されたオンナが最後には「もっと」と言いながら喘いでいる。
もしかしたらその喘ぎすらレイプの恐怖から少しでも早く逃げるための「演技」かもしれないなんていうリアルは描かれず、
結局はオンナもレイプを望んでいたような形でラストを迎える作品(とは言えない稚拙なものも含め)は、とても多い。
オンナは夢見がち、とは良く言われることだけれども、
私は常々思っている。
“オトコにはかないませんよ”と。
よく言うところのオンナの夢は、それ自体暴力に直結するものではない。
オトコのそれは、暴力と権力にまみれている。
その社会認識の中に自分を組み込むことはとても怖い。
その誤解、間違い、認識は、被害者にとっての暴力に他ならない。
レイプというシチュエーションを“お互いに楽しむ・共有する”ことが好きな人はいるだろうけれども、
一方的な暴力を楽しむ人はいない。
やられる側には、だ。
そして、性暴力=オンナの被害、という性認識もある。
性的強者=オトコ、性的弱者=オンナという構図の中で、
その枠の中に収まらなければ、それを持つこと自体が恥の概念に繋がる。
性暴力はオンナだけの被害構造ではない。
加害者は被害者に恥の意識を植え付ける。
恥ずかしいやつだ、
お前が悪いんだ、と、
そんなメッセージを植え付ける。
これに該当しないケースも、また他にも沢山の要因はあるけれども、
被害者は、そうして、孤立してしまう。
誰にも言えず、自分を責めてしまう。
そんな人が、とてつもなく多い。
飲酒運転の車に轢かれたことは、
多くの人が「こんな目にあった」とすぐに伝えられるかもしれない。
ひったくりにあったら、やっぱりすぐ警察に駆け込めるかも知れない。
見知らぬ人がいきなり殴りかかってきたら、
誰が「お前も悪い」なんて言うだろうか。
それでもその被害にあった人たちの心身には傷が残ることはある。
しかし、性暴力被害者は、その前提を持つことすら出来ない人が多い。
誰にも言えず、言葉に出来ず、助けを得ることが出来ず、
今この時も、多くの人が苦しんでいる。
だからこそ、私は性暴力というものに関わり続けたいと思っている。
大きなことは出来ないかもしれない。
私に出来ることは、すごく限られているかもしれない。
しかしもし私がここにいることで、
誰かにとっての「言える人」が一人でも増えるなら、そんな場所が出来るなら、
そんな素敵なことはないと、思っている。