私は現在神戸市に住んでおり,しばしば神戸市バスを利用している。
その中で流れる車内アナウンスが気になっている。
「ベビーカーは大切な命を乗せています」
というものだ。
確かに…赤ん坊を見る時,私たちは,それぞれ個別の赤ん坊を見て
その子らしさみたいなのを感じ取ったりすることはあるけれども,
それと同時に,そこに,新しい生まれたてのピカピカの「命」を
まずもって感じているなあ…
そういうことを改めて感じるのである。
今まで存在していなかった命が誕生してこの世に存在するようになった奇跡は,
生まれたてに近い赤ん坊ほど,鮮明に感じられるような気がする。
それが,その存在が「命そのものであること」を直に感じさせるのだろうか。
そしていったん生まれたらその子の存在は,この世になくてはらならないものになる。
不思議なものである。
大人の存在だって「命」なのだが,そのことを忘れがちである。
大人の存在は「命」よりも,そこに育った「その人個人」をまずもって見てしまうからだろうか。
それとも赤ん坊は私たちが守ってやらないといけない「命」だから
「命」そのものの存在が感じられやすい存在なのだろうか。
大人も命を生きており,自分でその命を守っているんだよね,
あるいは,守り合っているんだよね。
そんなことを考えていると,
あれ,そもそも「命」ってなんだっけ?
ということも考えてしまう。
アナウンスが深いぞ,神戸バス。
その中で流れる車内アナウンスが気になっている。
「ベビーカーは大切な命を乗せています」
というものだ。
確かに…赤ん坊を見る時,私たちは,それぞれ個別の赤ん坊を見て
その子らしさみたいなのを感じ取ったりすることはあるけれども,
それと同時に,そこに,新しい生まれたてのピカピカの「命」を
まずもって感じているなあ…
そういうことを改めて感じるのである。
今まで存在していなかった命が誕生してこの世に存在するようになった奇跡は,
生まれたてに近い赤ん坊ほど,鮮明に感じられるような気がする。
それが,その存在が「命そのものであること」を直に感じさせるのだろうか。
そしていったん生まれたらその子の存在は,この世になくてはらならないものになる。
不思議なものである。
大人の存在だって「命」なのだが,そのことを忘れがちである。
大人の存在は「命」よりも,そこに育った「その人個人」をまずもって見てしまうからだろうか。
それとも赤ん坊は私たちが守ってやらないといけない「命」だから
「命」そのものの存在が感じられやすい存在なのだろうか。
大人も命を生きており,自分でその命を守っているんだよね,
あるいは,守り合っているんだよね。
そんなことを考えていると,
あれ,そもそも「命」ってなんだっけ?
ということも考えてしまう。
アナウンスが深いぞ,神戸バス。