
今日は突然予定が空きました。
しごとはすればあったのだけど、お兄ちゃんが言いました、
「せっかくだからぴーちゃんを連れて紅葉の森に行こう」
それで山梨の紅葉の森に入ってきました。
誰も居ない山の中に行きました。山の上はもうすっかり秋でした。
赤、金、オレンジ、もう光にあふれていましたよ。
すすきや木々の間をざくざく入りました。
途中で真っ黒なシカさんにも会いましたよ。
木々は静かにたっていました。
じーっと見ているとどれもこれも同じ木はありませんでした。
わたしは夕べからずっと「それぞれ」について考えています。
昨日はお芝居の稽古で稽古場に行くのに電車に乗りました。
私はパニック障害や対人恐怖症があるため、
一人で長距離の電車に乗ることができません。
どうしても一人で乗らないといけないときは
携帯電話のメールを見ながら、電車の角に立ち、
ずーっとメールか床か窓から外を見て意識を集中します。
そうしないと怖くてのっていられないのです。
でも5駅が限界。
でも人と一緒だとある程度大丈夫です。
最近はお兄ちゃんや友人が一緒なので安心。
昨日はそれで久しぶりに電車に乗っている人を観察しました。
「それぞれ」と言う事を考えていたからです。
やっぱり乗っている人には誰一人同じ人はいませんでした。
なんでそんなあたりまえな事を考えてるかっていうと、
「価値観の違い」というよりも「理解」の難しさについて思う事があったから。
それはこの二日間のなかで、大切な友人とのメールのなかで、
そしてとても信頼している友人のブログのなかで起こりました。
私は何事も理解できなくても「認めたい」と思っています。
けれど、それに自分の感情がどーんと入ってきちゃって(^。^;)
そうなると相手の事をすとんとは聞けなくなるって言うか。
でも、そこにある自分の素直な感情も大切にしたいし…。
まあ、行き着くところは皆「それぞれ」なんだなあ、
そうなんだなあってことなんだけど。
ただ、二日間考えていて分かった事があります。
やっぱり私は穏やかにいたいのだなあって事と
優しい愛が基本であること。
(厳しい愛もありますもんね)
そして、人間は「過去」や「環境」に影響されるんだなあってこと。
でもそれはとてもよい学びであること。
そんな事を感じていました。
ディズニー映画の「ノートルダムの鐘」をご覧になった事がありますか?
ノートルダム寺院で隔離され育てられたせむし男のカジモドの愛の物語です。
わたしは友人のブログで「捨てる」とか「戦う」とかって
言葉を聞いてとても悲しく思い、悲しいと書きました。
そうかかれている人の中にはそれなりの思いはあると分かっていたけれど、
わたしのこころがその言葉に耐えられなかったのです。
私はとても稀有な環境で育ちました。
どちらかというと、って言うか、ほとんど一般の人から
「差別される側」の環境に居たのです。
だから「分ける」「分けられる」ことが好きではありません。
友人のブログで「捨てる」という言葉が出てきました。
わたしは私が「捨てられた」ようなきもちになり悲しかったのです。
そんな事があって「それぞれ」って事を考えていました。
それぞれはそれぞれでいいと思う。
それで、それぞれのわたしもそれでいい。そう思いました。
映画の中で自分を捕らえ、支配している人物とカジモドが歌う歌があります。
こんな歌です。
僕の願い
世の中は冷たくてお前を虐めぬくのだよ
私だけが お前に食べさせ 着せて 守ってやるのだよ
そのかわりにお前は ここから出てはならない
お前は (私は)
醜いぞ (醜いのだ)
世の中はお前を嫌ってる
守ってやるのは (貴方だけです)
お前は怪物だと (怪物)
憎み嘲り笑う (怪物)
もう世の中は相手にせず
ここにいなければならない(ここに 貴方と)
感謝しつつ 従え (従う)
何時も一人で生きて行く ここに隠れて暮らす
真下を見つめて生きて行く
僕は皆を見てる 皆は僕を知らない
これからもずっとこのまま
もしこの願いが叶うなら 行きたいな 皆のもと
光浴びながら 一日だけでも 暮らしたい 皆のものとで
もし 出会いがあって 誰かが僕を愛してくれるなら
皆は今日も忙しくして 楽しく生き生き暮らす
何て素晴しい生き方だ 輝きに溢れている
ああ 僕も皆と一緒に 歩いてみたい 散歩したい
手を繋いでセーヌのそばを 朝の光を浴びながら
この願いがもしも僕に許されるその日が来るなら
もう 何もいらない
わたしはカジモド見たいに暮らしていました。
それで、言われるままに居なければならないと思っていて、
そういう思いはいろいろな性格や病気を生みました。
けれど、いろいろな「それぞれ」の感覚を持つ魂たちと出会い
今、やっとカジモドのようにこころに思いをもてるようになってきたように思います。
その思いを持つようになった私が思うことは、カジモドが恋をする女性、
ジプシーのエスメラルダが歌うこの歌に表現されています。
エズメラルダは虐げられる多くの人を見て、
教会に入りイエスの像を見上げて一人歌うのです。
ゴッド・ヘルプ
あたしのこの祈りが 届いてくれるか
わからないけれど このジプシーの祈り
虐げられたものが者が貴方に語る
貴方も同じように虐げられた者よ
ゴッド・ヘルプ 救いを与えて
生まれたときから飢える者に
ゴッド・ヘルプ 救いを与えて
苦しんでいるジプシーに
(貧しいものをさげすむ恵まれた者たちの声)
「喜びと豊かさを わが名に祝福を与えたまえ
うるわしき愛の心を 我らの上にもたらしたまえ」
あたしは大丈夫一人で でも不幸な人がこの世にいる
助けてあげて踏み躙られたその人達を みな神の子
ゴッド・ヘルプ 救いを みな神の子
わたしは今、私のこころがエスメラルダのように祈りたいのだなあと分かります。
私はたしかに痛い思いをいっぱいしたのだろうと思う。
わたしは過去の経験が原因であまり痛みが分かりません。
当然起こる痛みがわかんないんです。
切っても、刺しても、お湯をかぶっても、痛いとか熱いとか分かりません。
ちょっと前まではそれが悲しかったりしました。
けれど今はちょっと違ってきました。
もし私が自分の人生を歩んでこなかったら、
きっと今みたいに痛い思いは分からなかったかもしれない。
悲しい思いは分からなかったかもしれない。
だからそれはそれでよかったんだなと思いました。
それで、悲しいことは悲しいって思っていいんだな~とか思えるようになった。
だから、来世はこういう風に生まれてこれたらいいなあとかも思えるようになった。
これまではそういう希望は無かったんです。
そしてこうやって語る事がすこしだけ怖くなくなってきた気がします。
私は祈りたいのでしょう。
戦う事でなく、ポジティヴでもなく。
ただ祈りたいのかもしれません。
痛みを抱きしめて、祈りたいのだと思います。
それふが私の「それぞれ」の「それ」なんですね。
それが分かった二日間でした。
そうそう、そういう事を考えるようになって
身体の痛みが少しづつ帰ってきたのですよ(^^)
しごとはすればあったのだけど、お兄ちゃんが言いました、
「せっかくだからぴーちゃんを連れて紅葉の森に行こう」
それで山梨の紅葉の森に入ってきました。
誰も居ない山の中に行きました。山の上はもうすっかり秋でした。
赤、金、オレンジ、もう光にあふれていましたよ。
すすきや木々の間をざくざく入りました。
途中で真っ黒なシカさんにも会いましたよ。
木々は静かにたっていました。
じーっと見ているとどれもこれも同じ木はありませんでした。
わたしは夕べからずっと「それぞれ」について考えています。
昨日はお芝居の稽古で稽古場に行くのに電車に乗りました。
私はパニック障害や対人恐怖症があるため、
一人で長距離の電車に乗ることができません。
どうしても一人で乗らないといけないときは
携帯電話のメールを見ながら、電車の角に立ち、
ずーっとメールか床か窓から外を見て意識を集中します。
そうしないと怖くてのっていられないのです。
でも5駅が限界。
でも人と一緒だとある程度大丈夫です。
最近はお兄ちゃんや友人が一緒なので安心。
昨日はそれで久しぶりに電車に乗っている人を観察しました。
「それぞれ」と言う事を考えていたからです。
やっぱり乗っている人には誰一人同じ人はいませんでした。
なんでそんなあたりまえな事を考えてるかっていうと、
「価値観の違い」というよりも「理解」の難しさについて思う事があったから。
それはこの二日間のなかで、大切な友人とのメールのなかで、
そしてとても信頼している友人のブログのなかで起こりました。
私は何事も理解できなくても「認めたい」と思っています。
けれど、それに自分の感情がどーんと入ってきちゃって(^。^;)
そうなると相手の事をすとんとは聞けなくなるって言うか。
でも、そこにある自分の素直な感情も大切にしたいし…。
まあ、行き着くところは皆「それぞれ」なんだなあ、
そうなんだなあってことなんだけど。
ただ、二日間考えていて分かった事があります。
やっぱり私は穏やかにいたいのだなあって事と
優しい愛が基本であること。
(厳しい愛もありますもんね)
そして、人間は「過去」や「環境」に影響されるんだなあってこと。
でもそれはとてもよい学びであること。
そんな事を感じていました。
ディズニー映画の「ノートルダムの鐘」をご覧になった事がありますか?
ノートルダム寺院で隔離され育てられたせむし男のカジモドの愛の物語です。
わたしは友人のブログで「捨てる」とか「戦う」とかって
言葉を聞いてとても悲しく思い、悲しいと書きました。
そうかかれている人の中にはそれなりの思いはあると分かっていたけれど、
わたしのこころがその言葉に耐えられなかったのです。
私はとても稀有な環境で育ちました。
どちらかというと、って言うか、ほとんど一般の人から
「差別される側」の環境に居たのです。
だから「分ける」「分けられる」ことが好きではありません。
友人のブログで「捨てる」という言葉が出てきました。
わたしは私が「捨てられた」ようなきもちになり悲しかったのです。
そんな事があって「それぞれ」って事を考えていました。
それぞれはそれぞれでいいと思う。
それで、それぞれのわたしもそれでいい。そう思いました。
映画の中で自分を捕らえ、支配している人物とカジモドが歌う歌があります。
こんな歌です。
僕の願い
世の中は冷たくてお前を虐めぬくのだよ
私だけが お前に食べさせ 着せて 守ってやるのだよ
そのかわりにお前は ここから出てはならない
お前は (私は)
醜いぞ (醜いのだ)
世の中はお前を嫌ってる
守ってやるのは (貴方だけです)
お前は怪物だと (怪物)
憎み嘲り笑う (怪物)
もう世の中は相手にせず
ここにいなければならない(ここに 貴方と)
感謝しつつ 従え (従う)
何時も一人で生きて行く ここに隠れて暮らす
真下を見つめて生きて行く
僕は皆を見てる 皆は僕を知らない
これからもずっとこのまま
もしこの願いが叶うなら 行きたいな 皆のもと
光浴びながら 一日だけでも 暮らしたい 皆のものとで
もし 出会いがあって 誰かが僕を愛してくれるなら
皆は今日も忙しくして 楽しく生き生き暮らす
何て素晴しい生き方だ 輝きに溢れている
ああ 僕も皆と一緒に 歩いてみたい 散歩したい
手を繋いでセーヌのそばを 朝の光を浴びながら
この願いがもしも僕に許されるその日が来るなら
もう 何もいらない
わたしはカジモド見たいに暮らしていました。
それで、言われるままに居なければならないと思っていて、
そういう思いはいろいろな性格や病気を生みました。
けれど、いろいろな「それぞれ」の感覚を持つ魂たちと出会い
今、やっとカジモドのようにこころに思いをもてるようになってきたように思います。
その思いを持つようになった私が思うことは、カジモドが恋をする女性、
ジプシーのエスメラルダが歌うこの歌に表現されています。
エズメラルダは虐げられる多くの人を見て、
教会に入りイエスの像を見上げて一人歌うのです。
ゴッド・ヘルプ
あたしのこの祈りが 届いてくれるか
わからないけれど このジプシーの祈り
虐げられたものが者が貴方に語る
貴方も同じように虐げられた者よ
ゴッド・ヘルプ 救いを与えて
生まれたときから飢える者に
ゴッド・ヘルプ 救いを与えて
苦しんでいるジプシーに
(貧しいものをさげすむ恵まれた者たちの声)
「喜びと豊かさを わが名に祝福を与えたまえ
うるわしき愛の心を 我らの上にもたらしたまえ」
あたしは大丈夫一人で でも不幸な人がこの世にいる
助けてあげて踏み躙られたその人達を みな神の子
ゴッド・ヘルプ 救いを みな神の子
わたしは今、私のこころがエスメラルダのように祈りたいのだなあと分かります。
私はたしかに痛い思いをいっぱいしたのだろうと思う。
わたしは過去の経験が原因であまり痛みが分かりません。
当然起こる痛みがわかんないんです。
切っても、刺しても、お湯をかぶっても、痛いとか熱いとか分かりません。
ちょっと前まではそれが悲しかったりしました。
けれど今はちょっと違ってきました。
もし私が自分の人生を歩んでこなかったら、
きっと今みたいに痛い思いは分からなかったかもしれない。
悲しい思いは分からなかったかもしれない。
だからそれはそれでよかったんだなと思いました。
それで、悲しいことは悲しいって思っていいんだな~とか思えるようになった。
だから、来世はこういう風に生まれてこれたらいいなあとかも思えるようになった。
これまではそういう希望は無かったんです。
そしてこうやって語る事がすこしだけ怖くなくなってきた気がします。
私は祈りたいのでしょう。
戦う事でなく、ポジティヴでもなく。
ただ祈りたいのかもしれません。
痛みを抱きしめて、祈りたいのだと思います。
それふが私の「それぞれ」の「それ」なんですね。
それが分かった二日間でした。
そうそう、そういう事を考えるようになって
身体の痛みが少しづつ帰ってきたのですよ(^^)
私はreraさんを日ごろからとても敬愛していますが、もっとも好ましく思うところは、誰かのブログや文章をお読みになった時、それはそれは誠実に真剣に受け止め、共に考えてくださってお応えを下さることです。
時に人は「他人事」でしか物事を受け止めません。
たぶん、ほとんどの人はそうでしょう。
ある日、働いている先のオーナーさんが、お客さんの話を真剣に聞いている私を呼んで言いました。
「あなた、客の話なんか真剣に聞かないの。
どうせ、嘘か本当か分からないんだから。
それに真面目に聞いたところで、どうせ相談に乗ることも出来なきゃ、助けてあげることも出来ないんだから。
話半分に聞いて、適当に相手が気持ちよくなる返事をしてあげればいいのよ。それがこの商売なんだから。
あなた、本職は俳優なんだから演技はお手の物でしょう?」
これは、わたしがこの仕事をやめようと思った大きな理由でもあります(笑)
けれど、reraさんはちゃんと話を聞いて、受け止めて自分の答えを返してくれます。嘘の無い言葉で。
わたしは険心さんにも同じような思いを抱いています。
彼は親の無い、複雑な環境の私に捨てるようなことはしませんよ、ずっと愛しているのですよ、とことあるごとにいって下さいます。
彼には父のような、兄のような深い思いを持ているので「捨てる」という彼の言葉が家族から自分に言われているような痛みを感じたのでした。
「それぞれ」というのは偶然にも同じ言葉を思っていたのです。reraさんがおっしゃったから派生したものではありません。ご安心くださいね(^^)
私ももう少し、ゆとりを持って生活できればと思いますが、実家もないし、頑張って生活しなくてはなりません。
今からやって行こうとする仕事が、少しづつ形になっていつか自分の生活となればいいなと思う今日この頃です。
この6ヶ月はお金で余裕をつくれたらいいなと思っていましたが、この6ヶ月働いた事で、お金はギリギリでいいから思う事をする事で余裕を持ちたいと思うようになりました。
ありがたい気づきの時だったと思います。
今月中はシフトが入っている日以外はお稽古と気持ちの整理をして、今週中に新しいバイトのめぼしをつけ、今やりたいことの形を考え、また11月から新たにスタートを切ろうと思っています。
紅葉の森はきれいでした。冬の雪までにあと一回は山に入りたいな。林道は閉鎖されちゃうから。
その頃は赤い葉っぱとか黄色い葉っぱとかおっこってるかな?
昨日はまだ木の上でキラキラしてたので何ももって帰りませんでした。
でも、面白いところで林道が迷路みたいにぐるぐる山中つながってて、すっごく面白かったです。
途中、北海道の森に似ているところがあって嬉しかった。
お兄ちゃんはスペインの川岸が秋になるとこういう色になるんだといって懐かしんでいました。
その言葉でreraさんを思い出しましたよ(^^)
レイちゃん、わたしもね、ずっと隠れていたいと思ってきた子です。不安を抱いたのはね、隠れていられなくなるんじゃないか、というものでした。いつも、なにか新しいことをするときに、このままいくと、隠れていられなくなる。。。って思ってしまう。でもレイちゃんが書いてくれていたこの一節。。。
・・・☆・・・
何時も一人で生きて行く ここに隠れて暮らす
真下を見つめて生きて行く
僕は皆を見てる 皆は僕を知らない
これからもずっとこのまま
もしこの願いが叶うなら 行きたいな 皆のもと
光浴びながら 一日だけでも 暮らしたい 皆のものとで
もし 出会いがあって 誰かが僕を愛してくれるなら
・・・☆・・・
隠れて暮らしていくこともできる。
そのほうが安心なのかもしれない。
でも、もしわたしのそばにいてくれる人がいて
ひとりではないということを知って
明るみに飛び立つ勇気をもらえるのなら
飛び立ちたい。
レイちゃんとのメールのやり取りで、
わたしのなかの不安と孤独とまた出会いました。
それを教えてくれたのはレイちゃんです。
不安をかき消そうとして自分自身に対して
常にポジティブでいようとしていたのよ。
がんばってね。だけど、もっと楽に自然に
いたらいいんだーって新月の時にわかりました。
それぞれ、それぞれでいいんだよね。
それぞれに、それぞれの気づきがあって。
わたしはどのそれぞれもリスペクトします。
昨日は夕方から雨になってね、雨の中、新月を感じていたよ。
新月に新しい道を歩く力を貸してくださいと祈りました。
あのね、隠れててもいいと思うよ。
表に出なくてもいいと思うよ。
ネットってさ、そうでしょう?隠れていられるでしょう?
でも、完全じゃないよね。ちょびっとだけのぞいてるの(^^)
それでいいんじゃないかと思うんだなこれが。
そこで、それぞれができることやって、
で、いつの間にか全部でてました~見たいなね(笑)
それでもいいし、なぞのひと~でもいいし。
でも、無理してポジティヴにせんでもいいとは思う。
それはすでにポジティヴという名のストレスだもん。
大体、ポジティヴとかネガティヴてなんじゃらほい??
そうやって名前付けて「あなたネガティヴ」とか言ってるのが私には不思議でござる。
私思ったことあるよ。ある人が言った。
「そんなネガティヴだと駄目だ。
ポジティヴにしてないと死んじゃうぞ。」
それポジティヴって名前の脅迫じゃん、って(笑)
本当にポジティヴな人はポジティヴって言葉や態度を使って、
沈んでいる状態にある人を追い詰めたりしませんぜ(笑)
その人の存在そのものが人を動かすものに思えます。
だーから、私たちは悲しいときには悲しい、
嬉しいときには嬉しい、それでいいさ。
それで、そこに必ず人が居て、自然がある事を忘れなければ。
それは私たちの世界の全部だから。
そうすれば思いやれるから、相手のことも自分のことも。
そう、わたしは思ったよ、昨日ね。
リスペクト。
そう、わたしも祈る。
すべての為に、私の為に。
祈りをもって相手を受け入れる。
理解できなくても、そこに居る人を見つめる。
それで、わかんないことは聞いてみる。
理解できなくても理解したいと思うでしょう。
rainbowちゃんの言葉はわたしにも大きな力をくれています。
いつも素晴らしい時をありがとう。
感謝!!
たくさん話して、聞いて、見て、お互いのことが見えてくるのはすばらしいこと。
よき出会いに恵まれて幸せです。
どんな困難も乗り越える力になります。
あなたに現れた体の痛みを歓迎します。
辛いときもあるだろうけど、うまく受け止めて、糧にしていってくだされよ。
ただいま(^。^;)
電車が遅れて待っていたら、遅くなるなら雨も降ってるし休んで頂戴…今日も仕事にあぶれました(--;)
まあ、こういうときは先の事を考えろって事で(笑)
んで、さっきのコメント、何が何だかわかんない事を書いていますが、私たちは、その時、その時の私たちのこころをよく感じながら真っ直ぐにあるこーねーてって事を言いたかったのでありました。
そして、隣にはいつもあたしが居るよーって事も言いたかったのさ(^^)
rainbowちゃんの羽ばたき、見守ります(^^)
さてsoraくん。そうなの、ちょっとづつね、帰って来たのさ、痛いのが。不思議だね。身体って。
こんなにもたましいと連動してるんだもん、
薬だけで身体が良くなるわけないね。
えとー、話は変わって、わたしはあなたならなれる!
っていつも思う仕事があります。
それは「仙人」(笑)
いや、あたいはまぢっすよ(^^)
出来れば理想はドラゴンボールの亀仙人見たいな感じで。
あたしはそういう人、必要だと思う。
あなた、なれます。
あ、だからって霞を食って生きろとは申しませんが(^。^;)
職業「仙人」。
う~む、中道を目指す私としてはちょっと行き過ぎかとも思われますが。でも、ほんとに力のある人は、市井にいて、さりげない働きで人や社会に気づきと浄化をもたらすのじゃないか。
そんな風に思うと、亀仙人もまんざらじゃないな。ちょっとかっこいいかも。
日々修行。精進します。
私たちはエロスの申し子ですよ、sora君(笑)
しかし、その元になるものはただ「愛」です。
知ってるかい?あたしの周りに居るスピリチュアラーによれば、天界人ほどエロスを好むのだそうよ。
なぜならそれは「愛」だから。天使なぞはそこに生まれる喜びと幸せのオーラをもっとも自分のパワーとするそうです。
そして自分の中に持つ大いなるちからを一番にシェアできる方法がそれなんだとさ。
しかし、ただやるだけではいけない。
「愛」お互いにそれがなければただのeroになるって言ってましたよ。
って、何言ってんのかって言うと、亀仙人さんは愛にあふれたお人なのね、ってこと。
あたしの知る限り、お話に出てくる有名仙人の皆様は山の中にはおりませぬ。
なぜかこっそり人の輪の中に居て、こころに迷いあるもの
に気づきをもたらす。
なんとなく、あなたのそばに居たら、山の空気が流れ、さわやかな梅の香りが流れてくる…
「もしかしたらこの人は…?」みたいな人。
そういう現代の「仙人」になっていただきたいものです。
いや、だってかなり似合うと思うよ。
中華系仙人服と白い長い髭(^。^)