KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

神様からの贈り物

2009-03-26 | KOFUKU日記
今日も原宿へ行ってきました。
先日のビルの階段の壁や天井に引き続き、今度は床をきれいにするので、その下準備です。
どうやら、T社長さんは社用車を取りに来たついでに店にもお出でになったらしく、店内からモデムが消えていました。
が~、大家さんもお出でになった事は知らなかったようです。
そうなの、連絡もあいさつもなく、こっそり来て帰ったみたい。。。(--)
大家さんも連絡もあいさつもなかった事にちょっぴりムッとしてました。
本当にねぇ。。。。は~~~~~。。。。
まあ、いいや、ほっときましょう。

さて久しぶりに個人的な買い物をしてお砂糖をかってきました。
親友リッキーの送ってくれたお蜜柑さんたちをジャムやピールにする為です。
もう少し片付けないと調理作業は出来ないけれど、材料を買って置けばいつでも作れると思えるので嬉しいから(^^)
落ち着いたら、早速作ろうと思っています。

今回のことで精神的な疲労から体調が思わしくなくて、なかなか片づけが進まないんですが、どうやら元気になるには焦らないで出来るだけゆっくりすごし、精神を休ませることが必要のようなので、今は疲れたら一休みを心がけて過ごしています。
一休さんです(笑。解る人には解る?)
無理しないで「出来る」と思えるときに出来る事をしていくって感じですね。
それで部屋を整理しながら、疲れたなあと一休みする時間は殆ど本を読んでいます。

私は本職である俳優業以外の普通の人間としての暮らしの中では、とにかく本を読むことと、物を創ることがとても好きな人間の様です。
とにかく昔から本がたいそう好きで、学生の頃は月に60冊は読んでいました。
3歳で文字を読めるようになってからは、とにかく本ばっかり読んでいました。
残念ながら絵本は全く読んだことが無く、私にとっての絵本は画家の画集とか百科事典とかだったんです。
小学校に入るときには月間のあらゆる子供向けの本、中高生向きの本は読みつくしてしまうので、週間漫画から月刊誌、婦人雑誌、小説に医学書まで読んでました。
毎日本を買うので家の押入れは何千冊かの本で埋まっていましたね(ほんとです)
図書館で読む本がなくなり、廃本が置いてある書庫に電気引いてもらって読んでたんです。

私にとって本は今も特別なものです。
買った、貰った本、どんな本でも、手にしたものを棄てる事は先ずありません。
けれど欲しいという人が居れば、私は速攻差し上げてしまいます。
でも本は特別で、上げてしまっても、また同じものを買って手元に置くんですね。
一度読んだら棄ててしまうとか、売ってしまう、あげてしまうという人がいますが、それを聞くたびに「勿体無いなあ」と思うのです(笑)
勿体無いのは「お金」ではありません。では何か?

私は仕事に俳優という職業を選びましたが、その職業は「芸事」ではなく「芸術」であると自負しています。
芸術とは生きている以上切り離すことの出来ない「心」と密接に関係していると思います。
心は生きている瞬間、瞬間に変化するものです。
芸術、そして人生や人間関係はその変化し続ける心で向き合っていくもの。
昨日の私と、一年前の私が目にするものは、同じものでも感じるものは大きく違う。
本、つまり文章や絵、歌、音楽、踊り、そして演劇など一度完成された芸術は基本的に変化しないものです。
演劇や踊り、音楽などはまたちょっと違うけれど、台本やスコアなどは変りません。
これらの変らない力ある存在は今、生きている自分のあり方を教えてくれます。
その時々の感じ方から、自分を客観的、具体的に知ることが出来る。
だから、私は何度も繰り返して本を読むし、絵を見るし、音楽を聴く。
そしてその中にある変らないものを見つけて、自分の美観に確信を持ち、変ってゆく感覚に新しい自分を見ます。
だから本は私にとって一生の財産です。
だからですかね、本を棄てちゃう人がいると勿体無いなあ、と思うんですよね~。
でも、人それぞれの感覚だから、それはそれで良いのですが(^^)
とにかく、私にとっては本を読むと言う事はすばらしく特別なことな訳ですね。

ミュージカルの美女と野獣のなかで、ビーストが言います。
「本は僕をどこかに連れて行ってくれる。自分が誰かを忘れさせてくれる」と。
私にも幼い頃から同じような思いがあったかも知れません。
とにかく本があればどんなところにもいけたし、歴史上のどんな人にも逢えたので、他に何もいりませんでした。
興味があるものは方端から何でもかんでも読んでいたわけですが、何度かここにも書いたんですが、とにかく好きだったのが戦中、戦後の海外、日本の少女小説と少女向け雑誌、婦人雑誌です(笑)
それこそ暮らしの手帳とか主婦の友とか家庭画報とか、それいゆや少女の友や吉屋信子さんを初めとする小説たち、お料理本に手芸の本。
なんでそれらがそんなに好きだったかと言うと、そうやって目から入って心に響く言葉や世界が私には「美しかった」からです。
変な話、今の手芸本やお料理本や家事に関することが書いてある本は8割はあまり美しく感じません。
時おり、この方は私と同じ感性を持っているという方の本にやはり惹かれます。
何故今はこうなんだろうなあ、と考えると、昔と比べると「生きる」と言う世界観が大きく変ったからなんだろうと思います。

昔は「美しく生きる」アドバイス本はあったけど「節約」の本ってなかった様に思います。
今はどうしたら倹約できるか「節約」の為に本を読む。
昔は美しく生きる為に本を読んで、そしてそれが倹約に繋がった。
本を読みながら時代が大きく変ったんだなと思いました。

けれど一部の文明の発達は、人間がもっと快適に暮らそうと心血を注いできたもので、科学や器械が美しくないかと言うと、私は決してそうではないと思うのです。
ただ上手く「バランス」が取れなかっただけだな、と感じています。
だから現代のあり方にも否定は全然ありません。
食や生き方に関しても、自分の中のモラルのようなものはありますが、人様に対してもこれといって枠はもっていません。
どう考えても良識や法律に反する事はう~んとうなっちゃいますが(^^;)
私はあるものは全て意味があるから存在している、と思っています。
どこかに偏っているよりも、全部あったほうがいい、とか思っちゃうのです。
たくさんの世界があって地球が一つであるように。
食べ物に関しても、マクロビのお料理も、ゴージャスなお食事も、ジャンクな食べ物も、みんなそれぞれに大きな意味があって、そしておいしいと思うし、愛してる(^^)
それぞれのバランスを考えれば、その時にその人に必要なものは見えてくると思うので、何の心配も要らないし、だからぜーんぶ楽しんで生きたいと思っています。
だってどれも神様が私たちを通してこの世に存在させたものばかりだから、大切にしたいと思います。

美しく生きたいと言う欲求は人間の奥底に潜んでいるものなのでしょうね。
そのせいでしょうか、昨今はナチュラルな生活を求め、手仕事に意味を持つ人が増えてきたように思います。
これから、そういう人々が増えて、この文明の中で美しいバランスが作られていくのだと思います。

私はあり難いことに、この便利な世界において、目と手と口をじかに使うことを喜べる人間に育ちました。
これらは私への神様からの最大の贈り物であると思っています。
これらを使う事は究極、誰かへの思いや働きに繋がると思います。
わたしの体にあるものは、私だけでなく、誰かの為にある。
そう思います。

「きっと小さい人やご家族が喜んでくださるにちがいありません」

昔のお料理ページの一番最後にこう書いてありました。
本来、手仕事は生きる為、つまり誰かと暮らすための力、つまり愛です。
そういう思いがなくなったら、それはてしごとではないかもしれません。
誰かの幸せの為に一生懸命に我が身を使う美しさ。
昔の美しい言葉が連なる本を目にするたびに、人の心にはこのような思いの種が眠っている、と思えてなりません。

先日、大好きな兄貴が言っておりました。

「誰かの為になりたいと思ったときに、自分という存在は強くかわれると思う。
つまり周りの人が自分を強くしてくれるんだ。
だから俺は一人だけ幸せになんかなりたくない。
自分の周りに居る人、皆で幸せになれるように頑張りたい」

すっかり大人ですが、今もこんな言葉を熱く語れる兄貴が自慢です(笑)

人の話を聞き、いろいろな経験をし、本を読み、思うこと。
素晴らしい思想や言葉が溢れていて、感銘を受けます。
同じように自分の中にこそ、自分自身も感銘を受けるような言葉を放つ事の出来る「意思」を持つものでありたい。
多くの言葉を自分の言葉のように放つ人は幾らでもいる。
けれど、私は自分の中から自分自身の言葉を紡ぐ者であって、その言葉に責任を追えるものでありたいと今は強く願っています。

この世界に在って、神様から頂いた贈り物を大事に使って生きる。
今年はそんな始まりの年にしたいものです。