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唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

薛平伝

2019-04-10 10:10:15 | Weblog
賊臣も二代目はすっかり唐朝の臣となる。行政能力と兵治を合わせ持つ良將。
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薛平伝
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平、字坦途,安史の残党相衛節度使薛嵩の子。

年十二で磁州刺史。

大暦八年正月.嵩が死ぬと牙軍は継承を迫るが、叔父崿に譲り唐朝に帰服する。

右衛將軍となり宿衛三十年。

宰相杜黃が汝州刺史兼御史中丞に推薦、治績がある。

左龍武大將軍

元和七年八月.兼御史大夫滑州刺史鄭滑節度觀察使となり,淮西と戦って功績があった。

八年.魏博節度使田弘正と協議して黄河の治水をし、滑州の水害を防いだ。

左金吾衛大將軍。

十三年十月.鄭滑節度使に戻る。

十四年三月.李師道が平定され、淄青は沂海・鄆曹濮・淄青に三分割され、その平盧軍節度淄青齊登萊觀察押新羅渤海兩蕃使となる。

長慶元年十一月.王庭湊が反した時、棣州を救うため派兵、しかし刺史王稷が吝嗇なため兵乱が起こり、大軍となり靑州に侵攻、平は募軍してこれを破り、乱者を誅した。
檢校尚書右僕射,封魏國公。

在鎮六年で兵備を整え、治績を上げた。

寶曆元年.入朝するが領民が留まることを求めた。五月.檢校左僕射兼戶部尚書。

六月.檢校司空河中絳隰節度使

太和二年.復領晉慈二州,益兵三千。成德から帰服した保義軍節度晉慈觀察使李寰の転任による廃鎭のため。

三年七月.魏博史憲誠が河中節度使となるが、赴任せずに乱殺される。平が復任。
檢校司徒封韓國公。

四年三月.太子太保。

司徒致仕。

六年正月.卒,年八十,贈太傅。
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曲環伝

2019-04-09 10:18:24 | Weblog
常に前線で戦い功績をあげる勇将であり、節度使としても能力を示した。
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曲環伝
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環は陝州安邑の人、父彬は南使正監。隴右に移る。

兵法に長け勇敢で騎射をよくする。

天寶中.隴右河西節度使哥舒翰に従い吐蕃と戦い、石堡城を陥し、黃河九曲洪濟等城を取り、
十三年.果毅別將となる。

安祿山の反には鄧州魯炅に従い賊武令珣と戦い、左清道率を加。

その後鄭陳節度使李抱玉に従い河陽に屯し、澤州を守り、賊將安曉を破る。
羽林將軍員外。

史朝義を伐って、金吾大將軍員外に至る。

大曆中.隴州に屯し吐蕃と戦い、特進兼太常卿員外。

大暦十四年.吐蕃が劍南に来寇し、邠隴兵を率いて大破し、七盤城、威武軍、維茂等州を収復。
威名大いに振い、加太子賓客員外。

建中元年.涇州劉文喜の反を伐ち、開府儀同三司兼御史中丞封晉昌郡王.邠隴都知兵馬使。

二年.淄青李納が徐州を攻撃し、環は宣武劉玄佐と救援した。兼御史大夫。

三年.検校左常侍邠隴行營節度使。

興元元年十一月.淮西李希烈が汴州を陥したとき、環は寧陵城を守り、陳州に淮西軍を大破し、將翟崇暉を捕らえて、希烈を蔡州に敗走させた。檢校工部尚書兼陳州刺史に進む。

貞元二年七月.希烈が平定されると、許州刺史陳許節度使となり賜實封三百戶。
陳許二州は戦乱により荒廃していたが、環は勤身節用して、三年で復興させた。

七年三月.環は冗官を省き、民力を回復させることを請うた。

功により十二年.檢校尚書左/右僕射。

十五年八月、鎭に卒した。年七十四,贈司空。

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殷侑伝

2019-04-08 10:20:51 | Weblog
武将ではない、有能な行政官であり節度使であった。

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殷侑伝
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侑は陳州の人。父は懌。

幼時より学問に励み經術に通じる。

貞元末.五經に合格し禮に通じ太常博士。

元和八年.遣回鶻使としてその強請を拒む。

虞部員外郎。

成德王承宗を招諭し徳棣二州を献じさせる。諫議大夫に進む。

治亂得失を盛んに論じて桂管觀察使に出される。

寶歷元年三月.檢校右散騎常侍洪州刺史江西觀察使。
廉政を称される。

二年三月.洪州寶歷寺置僧尼戒壇を勝手に設置し罰棒。

十二月.大理卿。

衛尉卿。

太和二年.李同捷の叛に、成德王廷湊も共に伐つことに反対。

同捷平定後の荒廃した滄州へ派遣され、滄州行軍司馬、

太和四年/三年七月.檢校工部尚書義昌軍節度滄齊德觀察使。
麾下とともに努力して再建し檢校吏部尚書を加えられる。

四年十二月.景州を廃して滄州に統合する。

刑部尚書。

六年二月.檢校吏部尚書鄆州刺史兼御史大夫充天平軍節度鄆曹濮觀察等使
経費を節減し始めて上納し檢校尚書右僕射を加。

九年正月.御史大夫溫造に弾劾されるが、文宗皇帝は一旦刑部尚書にし、七月.また檢校右僕射天平軍節度使に復す。

開成元年.再び刑部尚書。

鹽鐵度支使の屬官が私的に処罰し、州縣が関知できなかったことを是正。

左武衛大將軍[前涇原節度使]朱叔夜が士卒の給与の上前をはねて蓄財していたことを弾劾し死罪に。

七月.検校左僕射襄州刺史山南東道節度使。

二年三月.奏請せずに減兵し経費を節減したことを弾劾され/疾ともいう、貶太子賓客分司東都。

十一月.検校右僕射忠武節度陳許觀察使。

三年七月.鎭に卒,年七十二,贈司空。

行政能力に長けて剛直、しかし宰相になりたがり宦官勢力にすりよった、
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李彥佐伝

2019-04-07 10:23:44 | Weblog
平時の良将、方鎭の統治には手腕を発揮したが、軍事は苦手だったもよう。
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李彥佐伝
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新旧とも伝はない。神策系の将軍であったと見られる。

右羽林將軍。

加御史中丞.知軍事。

太和六年.李同捷の乱の後、滄州節度を再建した殷侑から義昌軍節度を受け継ぐ。
厳正簡約でよく統治していた。

義武軍節度において十五年在任した張璠が自立するのを防げなかった唐朝は、同じく長期在任であった滄州節度使の彥佐を疑いも転任させることにし、德州刺史劉約を節度副使に送り込んだ。
開成三年十一月.滄州義昌軍節度使より鄆曹濮天平軍節度使へ。

會昌元年.驕兵難治の武寧軍節度使に移る。

會昌三年五月.昭義劉従諫の卒後、甥の稹が自立したことを伐つため
武寧節度使李彥佐は晉絳行營諸軍節度招討使となった。

宰相李徳裕は六月に出兵を促したが、彥佐はぐずぐすと延ばし、
七月.絳州で逗留し増兵を求めた。
徳裕は回鶻征討で活躍した天德防御使石雄[元武寧軍将]を晉絳行營節度副使し,
彥佐には翼城へ進出することを求めた。

九月.石雄を晉絳行營節度使に昇進させ、彥佐を更迭した。
雄は即時に進発し昭義兵を破った。

十月.黨項が鹽州に侵攻し、彥佐は朔方靈鹽節度使[五年まで]となった。

大中元年六月.銀青光祿大夫行太子賓客分司隴西郡開國公李彥佐為太子太保分司。
[分司は東都分司の略で実務のない名誉官である]

その後は不明。

堅実に統治する良将であったと思われる。軍事は不得手で驕兵の武寧軍を率いての劉稹討伐は手に余ったと思われる。
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王栖曜/王棲曜伝

2019-04-06 10:04:47 | Weblog
珍しい南方・浙西系の将軍である。
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王栖曜/王棲曜伝
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栖曜は濮州濮陽の人。

天寶十四年.安祿山が叛し、濮陽人尚衡が義兵をあげると牙將。

兗、鄆諸縣を降して衙前總管。

祿山將邢超然據曹州,栖曜これを陥した。
右威衛將軍先鋒游奕使。

尚衡に従い入朝して試金吾衛將軍。

上元元年.浙東節度馬軍兵馬使[節度使王璵]。

寶應.廣德中.賊袁晁が浙江地方を荒らし、御史中丞袁參の将として伐ち、晁を捕らえる。
常州別駕浙西都知兵馬使。

賊蕭庭蘭を伐ち、試金吾大將軍。

大暦十一年.汴州李靈曜が叛し、浙西觀察使[李涵]の將として伐つ。
加銀青光祿大夫,御史中丞。

興元元年.淮西李希烈が叛し宋州に侵攻したとき、浙西節度使[韓滉]の將として強弩數千を以って寧陵を救う。

貞元初,左龍武大將軍

四年正月.檢校禮部尚書兼御史大夫鄜坊丹延節度觀察使となる、

十九年鎭に卒。贈尚書右僕射,諡曰成。

性謹厚で騎射に通じていた。
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范希朝伝

2019-04-05 18:01:08 | Weblog
朔方邠寧軍系、さしたる軍功はないが名将とされた。沙陀を慰撫したことが最大の
功績かも知れない。
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范希朝伝
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希朝,字致君は河中虞鄉人。

建中.邠寧軍の都虞候となり節度使韓遊瓌下。

德宗皇帝の奉天籠城時に功績があり、寧州刺史兼御史中丞。

遊瓌はその人望を懼れて殺そうとしたので鳳翔に奔る。

德宗皇帝は召して左神策軍将とした。

貞元四年.遊瓌が離任すると、邠寧の諸將は希朝を帥とすることを請うたが、希朝は張獻甫に譲り、
寧州刺史邠寧節度副使として補佐した。

六年五月.檢校禮部尚書振武節度使となった。

振武は黨項、室韋等の遊牧民が雑居し治安が乱れていたが、希朝は堡柵を置き、厳密に斥候を派遣し、て厳しく治安を保ち、蕃族も畏れて非法をしなくなった。
また蕃族の牛馬を収奪しなかった。

單于城に植樹し林となした。

貞元十九年十一月.入朝を請い、檢校右僕射兼右金吾大將軍。

永貞元年五月.順宗時.改革を志す王叔文等は宦官より兵権を奪うために、扱いやすい希朝を右神策統軍,充左右神策京西諸城鎮行營節度使とし奉天に鎭させ、実権はその党の韓泰に握らせようとした。
しかし宦官勢力は従わずその政策を骨抜きにした。

憲宗皇帝が即位すると、王叔文等は追放され、元和元年三月.希朝は檢校左僕射右金吾大将軍に戻された。

二年四月.檢校司空朔方靈鹽節度使。

三年六月.吐蕃の支配に苦しんでいた勇猛果敢な突厥の別部沙陀を誘致し陰山府兵馬使として慰撫した。

四年六月.河東節度使に遷り、沙陀もまた随行し、河東節度は強力となった。

五年.成徳王承宗を伐つが、すでに老耄し大きな成果は上げられなかった。

左龍武統軍に移され、太子太保/太傅致仕となった。

元和九年十一月.卒した.贈太子太師。諡忠武,改曰宣武。
当時は名將とされ、漢代の趙充國に比されたが、目立った戦功があるわけではなかった。
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張茂昭/張昇雲伝

2019-04-04 10:23:21 | Weblog
初代の野性味はなく、教養ある武将として生き、唐朝の文化にあこがれて義武軍を返納した。

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張茂昭/張昇雲伝
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茂昭は本名升雲,字は豐明。
義武軍節度使孝忠の子。
二代目にふさわしく沈着で学問ができた。

建中四年.李晟とともに朱滔軍と清苑に戦い敗績。

若くして檢校工部尚書に昇進。

貞元七年七月.孝忠が卒すると、唐朝は邕王諒を名目上の義武軍節度大使として、茂昭を定州刺史,起復左金吾衛大將軍充節度觀察留後.封延德郡王にして世襲継承させた。これは孝忠の功績を評価してということと、河北三鎭に包囲された義武軍を維持していくためには張家の君臨が必須であったことによる。

九年正月.正規の義武軍節度使。

四月.淄青李納に使えていた海州團練使弟昇璘が成徳王武俊を侮辱した。それを理由として定州を支配しようとした武俊に義豐、安喜、無極を攻撃され、ひたすら謝罪防戦に努めた。

十年六月.賜名茂昭。

十三年.弟茂宗が義章公主と婚約していたが喪中にも関わらず成婚を許された。

檢校僕射、検校司空に進む。

二十年.入朝し河北の状況を德宗皇帝に説明し、厚遇された。
子の克禮は晉康郡主を与えられた。

二十一年二月.順宗皇帝が即位し、同平章事として還鎭。
女樂・邸宅を下賜されるが受けず。

元和元年十月.再び入朝し義武軍を返納すねことを願うが許されず。
太子太保を加えられる。

二年八月.幽州劉濟、成徳王士真と争訟、唐朝が調停する。

四年.成徳王承宗が叛し、河東、河中、振武とともに伐つ。

五年三月.河東范希朝と共に承宗軍を木刀溝に破る。
加檢校太尉兼太子太傅。

五年九月.また義武軍を唐朝に返納することを請い許される。
河北三鎭は驚愕し制止するが従わず、唐朝より派遣された左庶子任迪簡[行軍司馬]に易定州符節、管鑰、圖籍を渡し、一族と共に京師に向かった。
義武軍では不満分子が三鎭の使嗾を受けて何度も蜂起したが、迪簡の賢明な施策と、義武軍だけでは経済的自立できないという立場により唐朝支配に移行していった。
これにより唐朝は河北に本格的なクサビを打ち込むことに成功した。

十月.道半ばに検校太尉兼中書令充河中晉絳慈隰節度使に任ぜられた。随行諸将も加官された。
京師に至り憲宗に礼遇され、祖先墳墓も京師に移すことを請い、深い信任を受けた。

六年二月.疽發于首卒,年五十,冊贈太師,諡曰獻武。

唐朝はその忠誠を讃え、諸子を皆要職に任じた。
蕃族が高位に就くと、子孫は急速に漢化し、文治化するという好例である。
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張孝忠/張阿勞伝

2019-04-03 13:15:53 | Weblog
義武軍節度が河北三鎭や淄青・淮西の反乱に同調しなかった価値は非常に大きい。唐朝軍に河北内部に食い込まれた形になり、牽制されて思い切った進攻ができなかったのだ。張孝忠の功績は莫大であり世襲を許されたのも当然だろう。

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張孝忠/張阿勞伝
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孝忠は字も孝忠。蕃族奚の出身で、曾祖靖や祖遜は乙失活の酋長であった。
父謐は開元中に唐朝に帰属した。

孝忠は長身巨躯で勇力をもつて蕃族出身の王武俊と並び称されていた。
また寬裕で親に孝でもあった。

天寶末,內供奉。

安祿山の偏將となり九姓突厥を破り果毅折衝。

祿山、史思明が叛すると従い前鋒となり活躍。

史朝義が滅ぶと、成徳節度李寶臣の将となる。
上元中,左領軍郎將/将軍,左金吾衛將軍同正、試殿中監に進み、賜名孝忠。
飛狐、高陽二軍使を歴任。
寶臣の信任が厚く、その妻妹昧谷氏を妻とする。

易州諸鎮兵馬を統制し十余年。

大暦十年.魏博田承嗣の易州侵攻を撃退。
その後、幽州朱滔の侵攻を防ぐ為に易州刺史として騎兵七千を配属された。
太子賓客兼御史中丞,封范陽/符陽郡王に進む。

寶臣晩年、猜疑し大將を殺す。孝忠も召喚されるが従わなかった。
建中二年.寶臣死後、子惟岳が自立。

幽州節度使朱滔は孝忠を誘い唐朝に帰服させた。
德宗皇帝は喜び檢校工部尚書恆州刺史兼御史大夫充成德軍節度使.賜實封二百戶。として、滔とともに惟岳を伐たせた。恒州に残っていた親族は皆惟岳に殺された。
孝忠は滔と結び、子茂和を滔女と結婚させ同盟を結んだ。

三年.惟岳兵を束鹿に大破した。

王武俊が惟岳を誅し、定州刺史楊政義が帰服し、易定二州を制圧した。

唐朝は成徳節度を分割し、武俊に恒冀を、康日知に深趙を、朱滔には徳棣、孝忠に易定滄を与えた。
二月.定州に義武軍を置き、檢校兵部尚書義武軍節度易定滄等州觀察等使。

その後、朱滔、王武俊、田悅が共に反するが、孝忠は唐朝に忠誠を保った。
そのため三面に敵を受けるが屈しなかった。

孝忠が同調せず、唐朝軍の河東馬燧・昭義李抱眞と連携したため、河北三鎭や淄青・淮西の大反乱も
東都を陥せず唐朝の息の根を止めることができなかった。
檢校左僕射,實封三百戶を加えられる。

孝忠は神策兵馬使李晟、宦官竇文場の支援をうけ、娘を晟の子憑に嫁がせ連携した。,

四年.德宗皇帝が奉天へ逃れると將楊榮國を晟に従わせ支援した。

興元元年正月.同平章事。
滄州は遠隔地のため程日華が自立し、孝忠は補償として每歲以滄州稅錢十二萬貫を与えられることになった。

貞元二年.河北は飢饉となるが、孝忠は勤儉であり耐え抜いた。

三年.検校司空。忠誠に対して子の茂宗に義章公主を妻に与えられた。

五年七月.幽州節度使と私戦して蔚州を攻め。十月.檢校司空を削られた[六年.元に戻った]。

七年二月/三月.卒した,年六十二,追封上谷郡王,贈太傅,再贈魏州大都督,冊贈太師,謚曰貞武。

その功績を評価され子の茂昭に継承が許された。
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楊朝晟伝

2019-04-02 09:44:03 | Weblog
河北三鎭は有名だが、朔方節度の流れをひく京師の近くの邠寧節度も難治であり、その牙軍はすぐ軍乱を起こした。その牙軍の将である。
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楊朝晟伝
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朝晟は字叔明,夏州朔方の人。懷賓の子。

朔方軍の步軍先鋒として功績があり甘泉府果毅となる。

建中初,朔方節度使李懷光に従い涇原劉文喜の自立を伐ち、驃騎大將軍を加。

朔方右先鋒兵馬使。

建中二年.唐朝臣に従い淄青李納を征討し、開府儀同三司檢校太子賓客を帯する。

四年.德宗皇帝が奉天に籠城したとき、李懷光に従って救援、左廂兵馬使として、咸陽に朱泚軍を破る。
加御史中丞,實封一百五十戶。

懷光が河中に反した時、朝晟はそれに属していた。
ところが父懷賓は韓遊瓌将として懷光方の邠寧節度留後張昕を殺した。
朝晟は懷光により拘束されたが、貞元元年.懷光の敗北により解放され邠寧都虞侯になった。
父子ともに邠寧軍に属し、開府.賓客.御史中丞に並ぶ。

貞元四年.左金吾將軍張獻甫が游瓌に代わり邠寧慶節度となった。
寧州戍兵は范希朝の後継を求めて不満で乱したが、朝晟はこれを鎮定した。
加御史大夫。

九年.対吐蕃防衛の為七万の大軍を動員して鹽州城を再建した時、朝晟は木波を防衛した。

十二年五月.獻甫卒して、都虞候朝晟が起復左金吾大將軍同正邠州刺史大夫。

十三年二月,朝晟は方渠、合道、木波の三城を建設して吐蕃を防ぎたいと奏請した。
德宗皇帝は必要な兵力を問うと、朝晟は邠寧軍だけでやると答えた。
德宗「鹽州城は七万も必要だった。今回はそれ以上に敵に近いぞ」
朝晟「あの時は大軍を招集したために、吐蕃に情報が漏れ、敵も大軍を集めた」
「今回は自軍だけでいきなり進攻して築城する」
「吐蕃は大軍が来るはずだとして、兵力を集めるのに何ヶ月もかけるはずです」
「一月もあれば築城は完成し、敵の大軍が包囲しても簡単には陥ちません」
「城の周辺には大軍を維持できるだけの水や草はなく、まもなく撤退するしかありません」
そして自軍だけで三月.三城を完成させ、吐蕃軍は数日攻めただけで諦めて去った。

四月.馬嶺城を築き、進出すること三百里。

十五年二月,免喪,加檢校工部尚書。

夏,対吐蕃防衛のため邠州より寧州に移治

十七年正月/五月.鎭で卒した。
その卒後、邠寧軍はまた拒命して後任を受けつけず、兵馬使高固を擁立した。
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元号は一応決まりましたね

2019-04-01 16:14:44 | Weblog
「令和」はさすがに前例は見当たらない。「令」はあまり良い文字ではないので使うとは思わなかった。
まあ元号は良いとして秋篠宮が「皇嗣」というのはね。
「皇嗣」という号は悪例はあるが、そこから即位した前例はない。
彼は即位できないという予測かもしれない。
どうみても「皇太弟」が正しいと思うが。

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史孝章/史唐伝

2019-04-01 09:58:54 | Weblog
蠻族出身も数代で漢化すると言う例です。河北三鎭には常に新しい蠻族が流入はしますが、
全体としては漢化し、野性を失っていきます。

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史孝章/史唐伝
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孝章,字得仁は魏博節度使憲誠の子。

父憲誠は奚虜の出身で、曾祖父の代より魏博牙軍に属し、前任田布を陥れ自立。唐朝への忠誠心などなく、平然として欺瞞するという人物であった。

ところが唐は、幼時より儒学の教育を受け、李愬が魏博節度使となったときには文官の職を求め、試都督府參軍となった。

父が節度使となると士曹參軍兼監察御史,賜緋。
粗暴で欺瞞の多い父を諫めた。憲誠にとっては正論をふりかざす面倒な子であった。

唐朝は檢校太子左諭德兼侍御史充節度副使、檢校左散騎常侍.御史大夫.賜紫に進む。

横海李同捷が自立した時、憲誠はこれを助けようとしたが、唐は大義を説き、伐つように方針転換させた。

文宗皇帝は喜び檢校工部尚書魏博節度副使に進ませた。
魏博の討伐軍は唐が統帥した。

太和二年十二月.同捷の形成不利を知った成德王廷湊は魏博都知兵馬使亓志紹を指嗾して反乱させ、所部二万を率いて唐父子を魏州に攻めた。
魏博は牙軍諸将の連合体の上に節度使が乗せられている形であり弱体であった。

三年正月.唐朝は義成節度使李聽[晟の子]に命じて、唐と共に志紹を撃破させた。

自分の地位が極めて不安定ということに気づいた憲誠は、魏博を唐朝に返上しようとした。
唐朝は魏博を分割し、魏博貝三州に李聽を、相衛澶三州に唐を与えることにした。
檢校禮部尚書相衛澶三州節度使。

五月.唐は孝章と改名した。

六月.憲誠は兼侍中河中節度使に転任することになった。ところが聽が赴任しないでいる間に、分割に不満な魏博牙軍は何進滔を中心として反乱し憲誠を殺し、自立した。

七月.聽は大敗し、相衛澶三州の分割もなくなった。

右金吾衛將軍

六年九月.檢校戶部尚書鄜坊丹延節度使。

九年八月.義成軍節度使

右領軍大将軍。

右金吾大将軍。

開成三年七月.邠寧節度使。
治績は特にないが謹慎守法であった。

十月.卒した。年三十九,贈尚書右僕射。
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