唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐初功臣傳107 淮安王李神通

2024-08-19 10:24:22 | Weblog

淮安王李壽 字神通。

高祖從父弟。

父亮は隋の海州刺史であった。高祖即位後贈鄭王。

隋末長安にいたが、高祖が反したため追捕をうけ逃走。

史萬寶や何潘仁等と結び起兵して、平陽公主[高祖女]を擁立して關中道行軍總管を自称した。

長安が陥ると光禄大夫.鄭國公.宗正卿から右翊衛大将軍上柱国。

武德元年六月
鄭國公から永康郡王に遷り、すぐ淮安郡王。

十月
右翊衛大將軍山東道安撫大使諸軍受節度となり、河北の平定に赴いた、黄門侍郎崔民幹が副となった。

二年正月
宇文化及を魏縣に破り、化及が逃亡した聊城に迫った。

閏二月
化及を聊城に攻めた。化及は糧が盡きたため降ろうとしたが、神通は「將士は掠奪を求めているし、逆賊は誅して国威を示さないといけない」と許さなかった。
民幹は「背後に竇建德が迫っています、このままでは敗北します、掠奪などに拘っている場合ではありません」と諫めたがきかなかった。
きもなく化及軍は体勢をを立て直し、神通は攻めたが勝てなかった。
そして建德軍が迫り撤退するしかなかった。

八月
竇建德が大軍をもって洺州に迫り、神通は相州へ退いた。
建德は洺州を陥し相州に迫った。

九月
竇建德は趙州を陥し、總管張志昂・張道源を捕らえた。

十/十一月
竇建德は黎陽を陥し、神通や李世勣を捕らえた。建徳は神通を下博に安置した。

四年五月
竇建德が敗北し、神通は解放されて山東道台右僕射.慰撫山東使に復し、建徳麾下の三十餘州を平定した。

九月
劉黒闥が反し、神通は關内兵を率いて、幽州李藝軍と合同した。

劉黑闥と饒陽城南で戦い大敗した。

五年六/七月
任瓌、李世勣と徐圓朗を討った。

十二月
子の孝友等八人が郡王となった。左武衛大将軍.玄戈将軍。

九年六月
皇太子建成は世民と宴会し酒に毒を盛った?、神通は世民を助けて戻った。世民派であった。

八月
太宗の功臣行賞にさいして、建国以来の武臣たちよりも、太宗側近の文官房玄齡や杜如晦等が優遇されることを抗議した。

貞觀元年
開府儀同三司.賜實封五百戶

四年十二月
卒.54才.贈司空.謚曰靖.


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