平時の良将、方鎭の統治には手腕を発揮したが、軍事は苦手だったもよう。
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李彥佐伝
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新旧とも伝はない。神策系の将軍であったと見られる。
右羽林將軍。
加御史中丞.知軍事。
太和六年.李同捷の乱の後、滄州節度を再建した殷侑から義昌軍節度を受け継ぐ。
厳正簡約でよく統治していた。
義武軍節度において十五年在任した張璠が自立するのを防げなかった唐朝は、同じく長期在任であった滄州節度使の彥佐を疑いも転任させることにし、德州刺史劉約を節度副使に送り込んだ。
開成三年十一月.滄州義昌軍節度使より鄆曹濮天平軍節度使へ。
會昌元年.驕兵難治の武寧軍節度使に移る。
會昌三年五月.昭義劉従諫の卒後、甥の稹が自立したことを伐つため
武寧節度使李彥佐は晉絳行營諸軍節度招討使となった。
宰相李徳裕は六月に出兵を促したが、彥佐はぐずぐすと延ばし、
七月.絳州で逗留し増兵を求めた。
徳裕は回鶻征討で活躍した天德防御使石雄[元武寧軍将]を晉絳行營節度副使し,
彥佐には翼城へ進出することを求めた。
九月.石雄を晉絳行營節度使に昇進させ、彥佐を更迭した。
雄は即時に進発し昭義兵を破った。
十月.黨項が鹽州に侵攻し、彥佐は朔方靈鹽節度使[五年まで]となった。
大中元年六月.銀青光祿大夫行太子賓客分司隴西郡開國公李彥佐為太子太保分司。
[分司は東都分司の略で実務のない名誉官である]
その後は不明。
堅実に統治する良将であったと思われる。軍事は不得手で驕兵の武寧軍を率いての劉稹討伐は手に余ったと思われる。
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李彥佐伝
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新旧とも伝はない。神策系の将軍であったと見られる。
右羽林將軍。
加御史中丞.知軍事。
太和六年.李同捷の乱の後、滄州節度を再建した殷侑から義昌軍節度を受け継ぐ。
厳正簡約でよく統治していた。
義武軍節度において十五年在任した張璠が自立するのを防げなかった唐朝は、同じく長期在任であった滄州節度使の彥佐を疑いも転任させることにし、德州刺史劉約を節度副使に送り込んだ。
開成三年十一月.滄州義昌軍節度使より鄆曹濮天平軍節度使へ。
會昌元年.驕兵難治の武寧軍節度使に移る。
會昌三年五月.昭義劉従諫の卒後、甥の稹が自立したことを伐つため
武寧節度使李彥佐は晉絳行營諸軍節度招討使となった。
宰相李徳裕は六月に出兵を促したが、彥佐はぐずぐすと延ばし、
七月.絳州で逗留し増兵を求めた。
徳裕は回鶻征討で活躍した天德防御使石雄[元武寧軍将]を晉絳行營節度副使し,
彥佐には翼城へ進出することを求めた。
九月.石雄を晉絳行營節度使に昇進させ、彥佐を更迭した。
雄は即時に進発し昭義兵を破った。
十月.黨項が鹽州に侵攻し、彥佐は朔方靈鹽節度使[五年まで]となった。
大中元年六月.銀青光祿大夫行太子賓客分司隴西郡開國公李彥佐為太子太保分司。
[分司は東都分司の略で実務のない名誉官である]
その後は不明。
堅実に統治する良将であったと思われる。軍事は不得手で驕兵の武寧軍を率いての劉稹討伐は手に余ったと思われる。
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