河北藩鎭では、淄青・魏博節度使と成徳節度使の間で領土紛争が起き、互いに攻めあった。この事態は朝廷にとっては都合のよいことであり、仲介者として振る舞った。回紇[ウィグル]は吐蕃と戦ったが形勢は悪く、その勢力下の北庭都護府は陥落することになった。一時は勢力が強かった回紇ではあるが、唐の物資に依存してこのころにはすっかり軟弱となっていた。
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