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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

橋本孝志

2014-02-23 22:37:43 | 日記
1971年・年俸110万円・
ファーム成績・28試合・5勝6敗・防御率2,85「ウエスタン9位」

1973年
・「ボクみたいな性格的に弱い人間はプロでは大成できない。7年間やれるだけのことはやったつもりだが、1軍の選手にはなれなかった。でも、悔いはありません」昨年暮れ、自由契約になった橋本は、いま福岡に帰って父親の経営する洋品店を手伝いながら過ぎ去った7年間を思い出す。8年前、国体の優勝投手として博多工から入団、契約金も当時では破格の1700万円だったが、勝ち星は一つしか挙げられなかった。「これからは商売を熱心にやって父親を助けたい。プロでのいい思いではないが、近鉄には愛着があるので福岡に来たら応援に行くつもりです」といっていた。第二の人生は是非成功してもらいたいものだ。
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荻原久男

2014-02-23 22:20:33 | 日記
1968年

サンケイは第二神宮球場で自主的という集団トレーニングをやっている。テスト生のこんな大量採用は前例がないから、コミッショナーにチイチイパッパ連中に初等教育をするから除外例を申請すれば、たぶん許可される。どこかの剣客代表のように、集団トレーニングに苦情がでると、単に呉でやるだけだ。どこも守らんような協約は改めるべきで、コミッショナーが何といおうとやめんと、りきみながら、腰くだけするにあたらない。参謀ヘッドコーチに聞くと、テスト生で荻原という軟式出のギッチョがとびだすとの仰せだった。
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高山勲

2014-02-23 21:40:02 | 日記
1965年

イースタンの選手は、首脳陣からよほど目をかけられない限り、一軍戦の出場はおぼつかない。しかし「あいつは一軍でも通用する位、腕を上げているそうだ」と注目されていれば話は別。「それじゃひとつ本番でテストして見ようか」ということになるわけだ。南海の独走で優勝争いの興味が半減したパ・リーグの下位球団などは、そろそろ来シーズンの新戦力打診で若手の起用がふえてきた感じ。セ・リーグもこれにならってこのところこうしたテストがふえている。大洋の右腕投手、高山も試されたその一人。高山は宇都宮学園からノンプロ東洋冷機を経て大洋入りした三年生。イースタンではすでに16試合に登板、6勝4敗の成績で二位大洋の主戦格。この実績を買われ、去る八日の対サンケイ14回戦(神宮)で、12-0でリードした九回裏、高橋にかわって1イニングだけテスト登板した。ところで緊張しすぎた高山はいきなり中島、篠田に連安打という危ういスタート。なんとか後続を押え無失点に終わったが、「二軍なら平気な顔で投げられても、一軍戦と思うと肩から腕までビンビンに張ってしまってダメでした」と高山はいかにも残念そうな顔。結局、高山はこのテストで二重丸が貰えず、またファームへ戻らされたが、宮崎二軍監督は、「精神的にも成長して、ストレートに伸びがでてきたし有望株」と期待を寄せている。1メートル77センチ、75キロ。肩巾のがっちりした高山は体力的にも大型ピッチャーに育つだけのものを持っているが、一軍との壁はただ単に技術的な面だけはなく、フンイキに勝つか負けるかにポイントがあると見ていい。高山の場合がそのいい例だった。
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斎藤喜

2014-02-23 21:28:05 | 日記
1966年

「契約更改といっても、ボクなんか、なにもいうことがありませんよ。会社のいうとおりです」はじめての契約更改の話し合い。プロ入り一年目を終えたばかりの斎藤喜(阪急)が、こういうのもムリなかった。しかし球団は成長株斎藤喜の将来を高く評価、若干のアップはあったことはたしかだ。ウエスタン・リーグの打撃成績は第三位、打率は・三一九、打点25をマークして活躍した。「きっと来年はのしてくるよ。動きはピヵ一だし、経験を積めば遊撃の定位置確保も可能な選手だ」と岡野社長もひそかに期待をかけている。ライバルは同期の住友。大学卒と高校卒の違いはあるが、プロに入った以上そんなことは問題ではない。「守備はともかく打つことです。秋季練習でも思い切ってやりましたが、だれにも負けないだけの気構えは持っています」ベテラン河野が退いたことで内野陣にチャンスが訪れた。来季は斎藤喜のハッスルする場だ。
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吉沢勝

2014-02-23 19:53:15 | 日記
1965年

「あの程度じゃ、物足りないネ。それほど進歩のあとも見えないし・・・」といわれているのが、はや二年もたった吉沢への評価だ。「北海に吉沢あり」と騒がれ、阪急との二重契約でもめにもめて巨人入りしたのが二年前。しかし、大物ルーキーのまえにプロの水は意外ににがかった。「ピッチングの基礎ができていない。球が素直すぎて迫力がまるでない」ということから、昨シーズンは一年中多摩川暮らし。今年も開幕からイースタン・リーグで投げていたが、十月の優勝も決まった後、一軍に入れて貰った。始めて公式戦のマウンドを踏んだのが、対阪神戦の最終戦で、渡辺をリリーフしたが、球威不足から、痛打を浴びて、まだモノの役に立たぬことを示しただけでいまは、来季を目指して、多摩川で秋季練習の汗を流しているが。騒がれた割りに伸びない金の卵ではある。それでもイースタンの成績は21試合に登板して、4勝1敗、63回2/3イニング投げて、被安打36、四球30、三振46、自責点19で防御率は1・41と渡辺につぐ好成績だったが、肝心のスタミナがない。昨年3試合やった完投が今シーズンはゼロ。先発しても後半にはいると、ガタッと球威が落ちて、ピッチング全体に粘りが感じられないのが最大の欠点。1メートル八十、七十五キロとピッチャーとしては格好の体つきだが、ネット裏の評価は中中手きびしい。「吉沢のピッチングを見れば長つづきしないのがよく分かるヨ。若いのにあれだけ、イン・ステップすれば球に威力がつかないのは当然。最近、北川の球威が半減したのも、もとを正せば持ち味のクロス・ファイア投法がなくなってきたからだ。吉沢もいまからあれじゃ、当分第一線にはなれないネ」金田、伊藤につぐ左投手と首脳陣が期待している吉沢、しかし、一人前になるにはまだまだ時間がかかる、というのが吉沢へのいつわらぬ声のようだ。
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浜崎正人

2014-02-23 19:38:31 | 日記
1966年

浜崎は三十八年、鹿児島商から入団、春の選抜高校野球大会に出場して、甲子園で評判になった選手。プロ入りが決まったとき、「必ず5勝はしてみせる」と、希望に胸を張っていたものだが、出場のチャンスもなく、二軍生活を余儀なくされてしまった。一時は野手転向の声もあり。「コーチの人から、投手を断念して野手になっては、といわれたとき、一番悲しかった。自分はまだ投げられると信じているのに、コーチの目には投手としてのボクの将来はない、とうつっていた。でもなんとかもう一年だけ投手で・・と頼みました」この執念が実って、浜崎はついに一軍のマウンドに立った。去る六月二十二日の対南海11回戦。先発に武者ぶるいしてマウンドへ向かった浜崎は、勝利投手にこそならなかったが、5回1/3を投げて無得点に押えた。「これで自信がつきました。もうチャンスは逃しません。もっとも、親しい記者と賭けをしており、これも浜崎の発奮の材料になっているのだが・・・。
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柴田信夫

2014-02-23 19:15:24 | 日記
1966年

「肩の素晴らしさと脚の速さではイースタン随一。おそらく一軍でも一級品で文句なしに通用する」と注目されているのが、大洋の柴田三塁手。柴田は三十九年、東京・聖橋高から投手として入団。がっちりとした体(1㍍79、70㌔)と速球に威力があり、別所コーチからも「将来性十分」とタイコ判を押されていたが、打力があるのと肩、脚のよさを買われてすぐに内野へコンバートされた。最初は右で打っていたが、ことしから左打ちに転向。現在はスイッチ・ヒッターとして同性の巨人・柴田を目標に精進している。左打ちをやりはじめたのは、ことしの草薙キャンプからで、まだ日が浅いためか、本領を発揮するところまではいっていない。三十日現在、10試合に出場して1割8分2厘(33打数6安打)二塁打1と打率は低いが、左打ちのフォームも徐々ながら固まってきたというところ。柴田がとばした6安打は全部、左打席でたたいたもの。左ピッチャーの時にはまだ右で打っているが、肝心の右打席ではノーヒット。「このごろは左打ちの方がずっと楽に触れるようになりました。沖山さん(コーチ)からバットの真っ芯に当てることだけ考えろといわれていますが、どうやら自信らしいものが・・」とうれしそうだ。ダイヤモンド1周14秒2、3で走る快脚。ほれぼれするような強肩と鋭い身のこなし。野球選手としての素質が素晴らしい上、スイッチヒッターというバッターとして最大の武器を売り物にしようという柴田の成長は、ひとり大洋首脳陣だけでなく、ファンにとっても楽しみだ。
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中島節男

2014-02-23 18:51:06 | 日記
1965年

最近、小淵に代わってゲームの後半から、中島がファーストミットを持って出場している。中島ーといっても知っている人は少ないと思うが、兵庫県高田高出身、プロ入り四年目の新鋭である。高校時代は、外野手として活躍、プロ入り後は、一時捕手にコンバートされたこともあったが、今シーズンはさらに一塁手に転向、イースタンでは、主力打者としてよく打っていた。その実績が認められて、八月からずっと一軍のメンバーにはいっており、代打に起用されたあと、一塁守備につくケースが多くなってきた。しかし、一軍と二軍では、大分ふんい気が違って、からだが委縮して思うようなバッティングができなかったが、「三振してもいいという気持ちで思い切りやってみます」と張り切っている。
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野口勝治

2014-02-23 18:34:38 | 日記
1967年

シーズン終了と同時に、球団ではいち早く整理選手のリストを作り上げているが、最終戦がすんだ翌日、その第一号が早くも現れた。この選手の名は野口勝治投手。野口投手といっても、今シーズンは選手名簿をさがしても見当たらない。それも道理で、野口は支配下選手のワク外に置かれ、形式的には任意引退になっていたからである。なぜこんなややこしい方法をとったのかというと、今シーズンはもっぱら最初からバッティングピッチャーが予定されていたため、五十名の制限からはずされていたわけである。野口といえば、ここ二、三年は「打ちやすい最も練習に適したバッティングピッチャー」として定評があった。とくに江藤監督など「ぼくが一昨年に首位打者をとれたのも、野口君がいい調整役になっていてくれたからですよ」といっているほどだ。またことしのオールスターで、巨人の長嶋選手が野口のボールを打ってみたとき「本当に打ちいいね。こんなバッティング投手に会ったのは初めてだ」とほめたこともある。つまりコントロールが絶妙で、打者の要求するコースへ、意のままに投げることができるわけだ。それほどの制球力を持ちながら、とうとう一軍に浮かび上がるチャンスに恵まれなかった野口は「覚悟はしていたけど、やはり整理をいい渡されると、さびしいものです。これからの身の振り方は、まだ全然考えていません」としんみり。この野口投手は三十七年に作新学院ー明電舎を経て、同僚島野外野手と共に入団し、いわばチームでは古参投手の一人だったが、多くの打者たちの間で「惜しい投手を失った」という声も強い。惜しまれて去っていく、このカゲの力だった野口に、ひょっとすると新しい迎えの手が他球団から、差し延べられるからもしれない。
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小野坂清

2014-02-23 12:59:55 | 日記
1968年

プロ入り五年目、昨年までは戦力にならなかった小野坂投手が今季貴重な左戦力として重用されている。開幕の西鉄戦にショート・リリーフで登板した小野坂は九日の南海戦で田辺を継いで三回二死一、三塁で救援、俊足広瀬を見事なケン制で一塁に刺し、六回鈴木の救援を仰ぐまで失点0で無難に投げ切った。話題はそればかりではない。三回は口火の左前打で先制のフォームを踏み、五回にも二点目の足場を築く右前打。投打にわたる働きは、この試合の陰のヒーローといってもよかった。「監督さんが実にうまく使ってくれるので自信がつきました」小野坂の昨年の防御率はなんと三十六。整理寸前だった投手をこれほどまでに働かせるのだから、三原監督はやはり魔術師といえるだろう。
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水谷実智郎

2014-02-23 11:06:34 | 日記
1965年

新人の水谷実智郎投手(名古屋昭和高出身)が対産経18回戦で初登板し八、九回の二イニングを無難に投げた。この試合、中日はなんと14点と今季セ・リーグの最高得点をあげ、先発板東を休ませる余裕の出てきたところで、この水谷実の登板となったもの。一メートル八十二、六十七キロのからだは大柄な部類に入る投手。入団当時はオーバー・スローだったがファームで大友コーチから「すこしサイドにして投げた方が球威が増すだろう」といわれ、ずっと二軍で練習をつづけてきた。それが後半戦に入ってからようやく実を結んだものである。普段はメガネをかけていないが、ゲームで投げているときだけはメガネを使用しているためスタンドのファンも、「オヤッ、あんな投手がいたものかな?」と、首をかしげていた。当の水谷実は、「ただ夢中で投げただけです。できることなら、これを機会に一軍で投げたいものです」といっていたが、首脳陣はこのまま、今後も一軍投手陣の仲間入りをさせる予定。
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醍醐恒男

2014-02-23 10:41:49 | 日記
1968年

阪急が第六位にリスト・アップしただけの価値が十分ある新人である。奥宮工(九州工ーサンケイ入り)と攻守の実力は双璧であろう。42年度夏の全国大会では習志野高を初優勝に導いた陰の功労者。いや最大の原動力であったとも云える。習志野高が再三再四演じた投手ー捕手ー内野手のすばらしいケン制プレーを多くの野球ファンは思い浮かべるであろう。つまりそのけん制プレーのキーポイントはすべてがこの醍醐捕手から送られた頭脳的インサイドワークによるサインプレーだったのだ。その点を阪急・丸尾スカウトは高く評価しており「捕手として必要なインサイドワークを身につけている。頼もしい選手だ」と醍醐捕手獲得の理由を語っている。五人兄弟の末っ子ですぐ上の兄(康夫・駒大在学中=習志野高が初めて全国大会に出場した時の遊撃手)の影響を受けて小学校時代からずっと捕手をやってきたという。学業の方もトップクラスの成績でものの考え方もなかなかしっかりしておりおまけにマスクもよしで女学生にもてる好青年である。
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