プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

嵯峨健四郎

2015-02-28 22:59:29 | 日記
1960年

日鉱日立のエース嵯峨健四郎投手(22)は二十八日東映フライヤーズ入りが決定。十二月三日正式に契約する。嵯峨投手は秋田商高卒で大毎三平投手の一年先輩、身長一・七五㍍、体重七〇㌔、右投右打の本格派速球投手で、三十年春日鉱日立に入り、豊かな素質を砂押監督独特の指導で伸ばされて頭角を現し、三十一年の都市対抗で日鉱が小野賞を獲得したときの立役者として一躍中央球界に名をはせた。しかしその後速球と落ちるカーブをマスターしたものの、制球力に難点があってやや伸びなやんでいた。今年は右打者の膝もとに食いこむシュートをモノにして投球に威力をまし、ようやく大器らしいピッチングを身につけた。砂押監督も「プロの二線級以上の力がある。ムラがなくなれば一流投手だ」と折り紙をつけている。巨人、広島、東映から入団交渉をうけていた。

嵯峨投手の話 念願がかなってプロ入りすることになったのはうれしい。これまでになったのもみな砂押監督のおかげです。監督さんもしっかりやれと喜んでくださったので死ぬ気でやります。大毎の三平と投げあえるよう、いまから楽しみにしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エディ武井

2015-02-28 18:29:21 | 日記
1959年

東映フライヤーズではかねてから日米観光社長原田恒男氏を通して交渉していたハワイの武井明遊撃手(22)の入団が正式決定したむね十七日発表した。同選手はカリフォルニア大学出身、身長1㍍84、体重79㌔、右投右打の大型内野手で、将来が楽しみな選手である。

1938年7月17日生まれ。今夏カリフォルニア大学を卒業後ハワイのノンプロ・オールスターに遊撃手として選ばれた。以後シンシナチ・レッズと契約、そのファームチームのワイセリアを経てサクラメント・バーコビッチ・リジョン・クラブに移った。来年ワシントン・セネタースのキャンプに入る予定だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

榊原盛毅

2015-02-28 18:07:43 | 日記
1960年

元広島カープの第一線で活躍していた榊原盛毅投手(27)=尾道商ーカープ、三十一年退団=がこのほど東洋工業へ就職がきまった。といえばカープー東洋工業の関係から別段かわった話題でもないが、榊原投手の場合はちょっと変わっている。同投手はカープを退団すると「すぐに自分の将来を考え…」ときっぱり野球を断念「大学で勉強し、人生の第一歩からまたやりなおそう」と名古屋某大学へ入学、来春卒業の運びとなり、このたび東洋工業を受験、見事難関をパスして入社が決定したというもの。「あれは頭のよい選手だったからなあ」とカープの長谷川主将、榊原の第二の人生の門出をわがことのように喜んでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐々木勲

2015-02-28 10:30:23 | 日記
1959年

同選手は明大捕手として二年生からマスクをかぶり、同年秋ベスト・ナインに選ばれたほか、今秋二度目のベスト・ナインに名を連ねている。六大学野球リーグ戦の最高打率は昨秋の三割九分四厘で、このときは赤木についでベスト・テン二位に入った。強肩、快足の定評がある。身長1㍍76、体重73㌔、右投右打。

高橋球団社長の話 浜崎コーチがきまって一安心したすぐあとで、佐々木君を迎えたことはうれしい。あとは堀本君だけだ。大型の選手がふえたことと同時に佐々木野口両君の入団で捕手陣は万全になった。先日の熱海の納会で今年のもやもやも全部消えたので、来年はみんなにぜひがん張ってほしいと思っている。

佐々木選手の話 巨人には申し訳ないが、プロ野球はほとんど見ていないので、どんな世界かわからない。しかし入ったからには日本一のチームで自分の力を発揮できるように心がけたいと思う。それには早くプロの水になれることだ。ボクの苦手は低目の速球だが、プロの投手はスピードがある変化球が多いそうだから、まずスピードを克服しなければなるまい。巨人には森さんがいるので第一の目標を森さんにおく。

宇野球団代表の話 佐々木君には各チームから勧誘の手がのびていたが、父親が終始強く巨人を推してくれたのできまった。佐々木君の力を信頼している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜中祥和

2015-02-28 10:13:07 | 日記
1960年

浜中遊撃手は今年春秋を通じてベスト・ナインに選ばれた俊足好打の好選手。カンのいいフィールディングも定評があって内野を固めなければならぬ南海と大洋が激しくせりあったが、大洋は若狭高時代の親友松井投手が本人を、大洋が委託した有村家斎氏(立大ー前大洋コーチ)が辻監督と交渉して同意を得、獲得に成功したもの。1㍍65、59㌔、右投右打。

浜中選手の話 大洋へは辻(立教大)監督、有村先輩の推めもあり若狭高時代の親友松井や後輩の長崎もいることだし、働きやすいチームだと思っていた。それにすぐ出る可能性のあることは魅力だ。プロの世界は野性味にあふれているようにみえるが、ボクは敏しょうなプレーで生きていきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村松修

2015-02-28 10:02:06 | 日記
1962年

村松修投手…小倉工、右投右打、1㍍78、77㌔。

村松投手は昭和35年(当時一年生)の選抜大会に投手兼右翼手、四番打者として甲子園に出場、南海、近鉄、大洋などから熱心に勧誘された好選手であるが、石川スカウト(九州地区担当)が村松投手の小倉工入学当時からマークしていた。このため他球団を断然リードした形で南海への入団がスムーズに決定した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松谷栄司

2015-02-28 09:01:42 | 日記
1962年

松谷栄司投手=身長1㍍79、体重78㌔、左投げ左打ち

速球とカーブを武器とする松谷投手には昨年の甲子園大会のときから左腕をほしがっているパでは西鉄、阪急、大毎、東映、セでは巨人、大洋、国鉄が目をつけたいた。しかし今夏の甲子園大会で伊藤が投げる久留米商とわたりあい準々決勝で左足を骨折、これをさかいに手を引く球団がつづいて結局東映、西鉄、阪急のパの3球団の争奪戦となった。一時は西鉄説、阪急説、あるいは進学説とうわさされたが、ことし南北海道大会で完全試合を記録している松谷投手の力を高く買っている東映では実兄の吉郎氏(27)=陸上自衛隊市ヶ谷駐屯部隊勤務=を通じて勧誘するかたわら、八月下旬荒井スカウトを北海道の松谷家に送って積極的に説得、その熱心さが功を奏した者。二十九日上京した松谷投手は実兄吉郎氏と荒井スカウトにつきそわれて京橋の東映球団事務所を訪れ石原代表に正式に東映入りを表明した。契約及び入団発表は二、三日後(一日の予定)に行われる。

松谷投手の話 西鉄などのチームからも誘われたが、父親や兄とよく相談した結果、東映が自分の力を一番のばせるチームだと思ったのできめた。プロに入った以上は力いっぱいやって東映投手陣の一角に加わりたい。速球には自信があるし、プロの打者にどれだけ通じるかわからないが、直球を主とした投球でやってみる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧野宏

2015-02-28 08:50:20 | 日記
1960年

同投手は1㍍74、78㌔、右投右打。がっちりした体格の持ち主。同投手のピッチングについては法政時代からコントロールのあるシュート、スライダーに定評があり、東京六大学野球リーグ戦で怪腕をうたわれた。昭和32年、33年、法大のエースとして活躍している。法大最後の34年1月慢性肋膜炎をわずらったが、すぐ再起、秋季リーグには打者に転向、強打をふるった。プロ球団からはそのころから勧誘を受けていたが、体力の回復具合がどの程度のものか、体力的に一まつの不安があってプロ入りせず今春日本石油に入社した。入社後肋膜炎の再発の心配もなく体力の回復をまって再び投手として返り咲き、都市対抗にも出場今秋の産別大会でもしばしばマウンドを踏んだ。同投手は前々から体力が回復すれば一度はプロでやってみたいとの気持ちをもっていたので、阪急は六月ごろから先輩に当る戸倉監督が陣頭に立ち、親身になって勧誘。同投手も戸倉監督の人間味にひかれて産別前阪急入りを決意したもの。昭和12年11月9日生まれ。

牧野投手の話 体は心配ない。気候の変わり目へまだ多少躊躇はあるが、まず大丈夫。ともかく体力的に自信がついたので阪急入りしたわけだ。半年間投手から遠ざかっていたが、スタミナの点も心配ないと思う。球の切れも大学時代に近づきつつある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青木宥明

2015-02-25 20:13:14 | 日記
1959年

すでにキャンプがはじまった十一日、かねて交渉中だった関東学院大の青木宥明投手の入団が正式に発表された。青木は二十二歳、神奈川工高出身で右投右打、身長1メートル72、体重79㌔、背番号56。関東学院大のエースとして活躍したが、一昨年春横浜五大学リーグの優勝につくし、昨年春の対横浜国立大戦ではパーフェクト・ゲームを記録している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幡野和男

2015-02-25 20:04:39 | 日記
1960年

今夏の全国高校野球選手権大会で法政二高初優勝の原動力となった幡野和男主将兼外野手(18)は、阪神、大洋から誘いを受けていたが、このほど阪神入りが確定した。正式発表は十二月上旬大阪の球団事務所で行われる予定である。同選手は今夏の甲子園で大会第一戦の対御所工戦で3安打を放ったのを皮切りに、毎試合コンスタントに打ち、5試合で五割の好率をマーク、法政二高の初優勝に貢献した。この強打を認めた大洋は九月、遅れて阪神が獲得に乗り出した。大洋は地元の選手とあって、藤井コーチが川崎市の同選手宅を再三訪れ、父親を通じて入団を嘱望した。遅れた阪神は佐川スカウトが勧誘に動いた。当初は就職を希望していた同選手は、このプロ球団からのさそいに意を動かされたようだったが、同校野球部が国体に出場するため、プロ入りの言明はさけていた。国体終了後、同選手および家庭では両球団について検討を加えた結果、在阪ではあるが、高校出を主体としている阪神が働きやすいとの結論に達し、阪神入りをきめたものである。同選手は一年末からレギュラーとなり、二年の春から不動の四番としてつねに好打をふるい、通算三割五分強の高打率を記録している。1㍍76、73㌔、右投右打。

幡野選手の話 大洋と阪神から誘われました。はじめ就職するつもりだったのですが、誘いがあってからプロでやってみようという気持になり、両球団のどちらがよいか検討をしました。大洋は地元ですが、大学出の選手が多いので、なにかきゅうくつな思いがしましたので、その点いきやすいと思った阪神を選んだわけです。甲子園ということも魅力を感じた理由です。二十九日に期末試験が終わるので、十二月はじめに大阪にいって発表になるようにきいています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤野隆司

2015-02-25 19:51:33 | 日記
1959年

さきに巨人と契約した平安高の野口捕手とバッテリーをくみ、昨夏、および今年の甲子園大会(春、夏)に出場、またさきごろの国体大会では第一回戦の対八尾高戦に登板、ノーヒット・ノーラン(準完全試合)を立てた藤野隆司投手(1㍍73、65㌔、17歳)はこのほど東映入りを決意、十二月五日ごろ東京で正式契約をすることになった。藤野投手は最初就職の意思をほのめかしたため、丸善石油、日本生命をはじめノン・プロ界から誘いがあり、一時は日本生命入社を決めていたが、その後富樫監督の母校法大を受験することに決めていた。これでほぼ決定したかにみえたが、国体出場のため上京したとき、明大側から話が出て進学方向がぐらつきだした。確実な情報筋から伝えられるところによれば、なんでも明大からの話は高校野球関係有力者を通じてなされたもので、このため藤野投手としては最初決めていた法大と明大との間にはさまれ進退の自由を失ったといわれる。ちょうどそんなとき平安高の先輩保井東映二軍監督(立命大出)を通じて東映からの誘いの話があり藤野自身にしても実兄清氏(31)が現在東映京都に勤務している関係上、自己の力をプロでためしてみようと話が急速に進展し、この運びとなったものである。同投手は今夏の渡米チームにも選ばれ、準完全試合は前記の国体大会のほか、京都市内大会の対紫野高戦にも記録した経験がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木村久

2015-02-25 19:41:45 | 日記
1960年

阪急ブレーブスは、三十日午後二時から大阪市北区角田町航空ビル内、シルバーで日大木村久捕手(22)=高崎高出身、身長1㍍79、体重74㌔、右投右打=の入団を発表した。発表には岡野球団専務、戸倉監督が立ち会った。同選手は東都大学リーグ随一の大型捕手で、今季春から日大の正捕手になり、今季春秋2シーズン連続してベスト・ナインに選ばれた。打率も2シーズン二割九分五厘をマーク、荒さがなく、巧打者として定評があった。同選手の交渉に当った球団は阪急はじめ大毎、大洋などで阪急は丸尾渉外部長が六月ごろから積極的に動き獲得したもの。

戸倉監督の話 ことしの補強目的がバッテリー陣の強化にあったわけだが、投手は牧野、捕手は木村をはじめ三人が入ったので、バッテリーの強化は完璧だ。木村は大学時代の成績をみてもわかるように、2シーズンを連続してベスト・ナインに選ばれているし、将来名捕手になれる人材だ。すぐ第一線に出場することは間違いないと思う。

木村捕手の話 小さいときから関西球団にあこがれていた。阪急から早く話があったこと、先輩もいるし、第一線出場のチャンスもあるので入団したわけだ。さしあたって抱負はないが、とにかく打てなくては出られないのだからバッティングの向上につとめたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平田憲穏

2015-02-24 21:44:24 | 日記
1959年

カープでは同時に広島県三次高の三塁手平田憲穏(17)のカープ入りを発表した。正式調印は二十三日カープ事務局において行われる、体重69㌔、身長1㍍73、年間打率3割7分7厘、右投右打。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神原隆彦

2015-02-23 21:09:35 | 日記
1959年

神原隆彦捕手…盈進商高出、愛知学院大

神原捕手は身長1㍍70、体重75㌔、右投右打。愛知大学リーグ戦で16本のホーマーを記録するなど長打力があり、加えて百㍍を11秒台で走るという快足の持ち主、五日香椎球場での西鉄の練習にテスト生として参加し、即日採用されたものですでに契約ずみである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧田修明

2015-02-23 21:05:11 | 日記
1960年


牧田修明(のぶあき)選手…富山高出身、ノンプロ昭和電工の4番打者。

牧田選手は身長1㍍85㌢、体重81㌔と体格に恵まれた大型外野手で、富山高時代は無名だったが、昭和電工入社以来めきめき腕をあげた。投手としてもかなりの素質をもっており、富山県下の都市対抗予選でもしばしば投手兼外野手として出場した経験がある。阪急では、もちろん同選手の長打力を買ったわけで、入団後は、その打力をのばすために外野もしくは一塁へのコンバートを予定している。打力のチームへ脱皮をはかる阪急にとって同選手の入団は大きなプラスとみられている。右投右打、昭和十四年五月六日生まれ。

牧田選手の話 前々からプロ球団へは魅力を感じていました。しかし昨年まではどちらかというと自信はなかった。だが今年はある程度自分でもやれるという自信ができたので思いきって入団を決意したわけです。とにかくどの程度やれるかわかりませんが、一緒に入団する人たちに負けないようがんばるつもりです。阪急のチーム・カラーは好きですし、いいチームに入れて喜んでおります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする